16 / 35
第16話 触れた指先の温度
しおりを挟む
終業時間が近づいた頃、デスクで軽く伸びをしていた私に、低く響く声が降ってきた。
「佐倉、少し来てくれ」
びくっと肩が跳ねる。声の主を確認するまでもなく、誰なのか分かっていた。
(仕事の話…だよね?)
恐る恐る振り向くと、九条課長が無表情のまま立っていた。整えられた黒髪に、鋭い目元。冷静な視線がまっすぐに私を捉える。その目を見た瞬間、息苦しさが胸を締めつけた。別に怒らせるようなことをした覚えはない。それなのに、心臓がひどく落ち着かない。
「はい」
かすれそうな声をなんとか押し出し、私は立ち上がった。周囲の視線が気になる。誰かが「また佐倉さん?」と小さく呟いた気がした。九条課長に呼ばれるのは珍しくないとはいえ、こうも頻繁だと目立つのかもしれない。なるべく気にしないようにして、私は彼の後を追った。
会議室のドアが閉まると、廊下の喧騒が遠のき、室内に静寂が満ちる。わずかに開いたブラインドの隙間から、夕暮れの光が薄く差し込み、机の上に伸びる影を揺らしていた。長机には整然と積まれた資料が並び、その一冊を九条課長が手に取る。
「これ、次の会議までに目を通しておいてくれ」
九条課長に差し出されたファイルは、ごく普通の厚みだった。しかし、その存在は異様なほど重く感じられた。表紙に大きく押された『機密事項』の赤いスタンプが、鮮烈に目に飛び込んできた。まるで警告のように、否応なく視線を奪う。
(機密事項……? まさか、新プロジェクトの件?)
社内でも極秘扱いになっている案件があるという噂は聞いていた。しかし、それに関わるのはごく一部の限られた人間だけだとばかり思っていた。ましてや、私のような立場の者が――。胸の奥がざわめき、指先がかすかに震える。
「……これは」
かすれそうになる声を押し出すように問いかけると、九条課長は静かに視線を落とした。その瞳は鋭くも冷静で、どこか底知れぬ重みを宿している。
「詳細は資料を読めば分かる。だが、この件に関しては外部はもちろん、社内でも不用意に話すな」
低く抑えられた声が、室内の空気をさらに張り詰めさせた。わずかに濁った蛍光灯の光が彼の眼鏡に反射し、一瞬だけ視線の奥を隠す。だが、その言葉の端々に滲む慎重さと緊張感は、隠しようもなかった。彼の表情に浮かぶ影が、事態の深刻さを雄弁に物語っている。私は無意識のうちに背筋を正し、小さく頷いた。
「……わかりました」
そう返事をしながら、私はそっと手を伸ばした。指先が資料に触れようとする、その瞬間――。
微かな熱が走った。
九条課長の指先に、触れてしまったのだ。
ほんの一瞬の接触。それだけなのに、空気が静止したかのような錯覚に陥る。紙の質感を感じる前に、指先から伝わる確かな熱が意識を占めた。思わず息を詰める。鼓動が、不自然なほどに大きく響く。
向かいに立つ彼の手も、一瞬だけ動きを止めていた。わずかに伏せられた視線が、ゆっくりとこちらに戻る。彼の瞳が、かすかに揺れた気がした。その些細な変化に引き寄せられるように、私は彼を見つめてしまう。
しかし、次の瞬間には彼は何事もなかったかのように手を引き、平静な表情を取り戻していた。
「頼んだぞ」
低く落ち着いた声。その響きがさっきよりもわずかに深く聞こえたのは、気のせいだろうか。喉の奥に響くような低音が、心臓のどこかを微かに揺らす。私は慌てて頷き、手にした資料を抱え込むようにして会議室を後にした。
扉を閉めた瞬間、張り詰めていた息をふっと吐き出す。深く吸い込んだ空気が肺に染みるようだった。背中が熱い。いや、それだけじゃない。指先がじんじんとしている。さっき、ほんの一瞬触れたあの指の感触が、まだ肌に残っているような気がした。たかが仕事の資料を受け取っただけなのに。なのに、どうしてこんなにも意識してしまうんだろう。
足早に廊下を歩く。できるだけ何も考えないように、ひたすら前へ。けれど頭の中には、先ほどの低い声と、微かな指の温もりがこびりついて離れない。肩をすくめ、小さく頭を振る。落ち着け、落ち着け――。
そんなふうに自分に言い聞かせていると、不意に前方から軽快な足音が近づいてきた。麻美だ。彼女は柔らかい髪を揺らしながら、いつもの朗らかな表情でこちらを覗き込んでくる。
「ん? なんか顔赤くない?」
「えっ!? そ、そんなことないよ!」
驚いて即座に否定する。だが、その声が微かに上ずっているのが自分でもわかってしまった。胸の奥がざわつく。誤魔化さなきゃ、冷静にならなきゃ――そう思うほどに、頬の熱はじわじわと広がっていく。
麻美はわずかに目を細め、探るような視線を向けてきた。唇の端がゆるく持ち上がる。その表情は、まるで秘密を見透かしたかのようだ。心臓が跳ねる。違う、違うから。そう言いたいのに、喉が詰まって言葉が出ない。
「へぇ?」
麻美の声音が少しだけ低くなる。
嫌な予感がする。いや、違う。嫌じゃない。ただ、今この場で深く追及されるのが耐えられないだけだ。息を詰めたまま、私はそっと視線を逸らした。
――お願いだから、今はそっとしておいて……。
「佐倉、少し来てくれ」
びくっと肩が跳ねる。声の主を確認するまでもなく、誰なのか分かっていた。
(仕事の話…だよね?)
恐る恐る振り向くと、九条課長が無表情のまま立っていた。整えられた黒髪に、鋭い目元。冷静な視線がまっすぐに私を捉える。その目を見た瞬間、息苦しさが胸を締めつけた。別に怒らせるようなことをした覚えはない。それなのに、心臓がひどく落ち着かない。
「はい」
かすれそうな声をなんとか押し出し、私は立ち上がった。周囲の視線が気になる。誰かが「また佐倉さん?」と小さく呟いた気がした。九条課長に呼ばれるのは珍しくないとはいえ、こうも頻繁だと目立つのかもしれない。なるべく気にしないようにして、私は彼の後を追った。
会議室のドアが閉まると、廊下の喧騒が遠のき、室内に静寂が満ちる。わずかに開いたブラインドの隙間から、夕暮れの光が薄く差し込み、机の上に伸びる影を揺らしていた。長机には整然と積まれた資料が並び、その一冊を九条課長が手に取る。
「これ、次の会議までに目を通しておいてくれ」
九条課長に差し出されたファイルは、ごく普通の厚みだった。しかし、その存在は異様なほど重く感じられた。表紙に大きく押された『機密事項』の赤いスタンプが、鮮烈に目に飛び込んできた。まるで警告のように、否応なく視線を奪う。
(機密事項……? まさか、新プロジェクトの件?)
社内でも極秘扱いになっている案件があるという噂は聞いていた。しかし、それに関わるのはごく一部の限られた人間だけだとばかり思っていた。ましてや、私のような立場の者が――。胸の奥がざわめき、指先がかすかに震える。
「……これは」
かすれそうになる声を押し出すように問いかけると、九条課長は静かに視線を落とした。その瞳は鋭くも冷静で、どこか底知れぬ重みを宿している。
「詳細は資料を読めば分かる。だが、この件に関しては外部はもちろん、社内でも不用意に話すな」
低く抑えられた声が、室内の空気をさらに張り詰めさせた。わずかに濁った蛍光灯の光が彼の眼鏡に反射し、一瞬だけ視線の奥を隠す。だが、その言葉の端々に滲む慎重さと緊張感は、隠しようもなかった。彼の表情に浮かぶ影が、事態の深刻さを雄弁に物語っている。私は無意識のうちに背筋を正し、小さく頷いた。
「……わかりました」
そう返事をしながら、私はそっと手を伸ばした。指先が資料に触れようとする、その瞬間――。
微かな熱が走った。
九条課長の指先に、触れてしまったのだ。
ほんの一瞬の接触。それだけなのに、空気が静止したかのような錯覚に陥る。紙の質感を感じる前に、指先から伝わる確かな熱が意識を占めた。思わず息を詰める。鼓動が、不自然なほどに大きく響く。
向かいに立つ彼の手も、一瞬だけ動きを止めていた。わずかに伏せられた視線が、ゆっくりとこちらに戻る。彼の瞳が、かすかに揺れた気がした。その些細な変化に引き寄せられるように、私は彼を見つめてしまう。
しかし、次の瞬間には彼は何事もなかったかのように手を引き、平静な表情を取り戻していた。
「頼んだぞ」
低く落ち着いた声。その響きがさっきよりもわずかに深く聞こえたのは、気のせいだろうか。喉の奥に響くような低音が、心臓のどこかを微かに揺らす。私は慌てて頷き、手にした資料を抱え込むようにして会議室を後にした。
扉を閉めた瞬間、張り詰めていた息をふっと吐き出す。深く吸い込んだ空気が肺に染みるようだった。背中が熱い。いや、それだけじゃない。指先がじんじんとしている。さっき、ほんの一瞬触れたあの指の感触が、まだ肌に残っているような気がした。たかが仕事の資料を受け取っただけなのに。なのに、どうしてこんなにも意識してしまうんだろう。
足早に廊下を歩く。できるだけ何も考えないように、ひたすら前へ。けれど頭の中には、先ほどの低い声と、微かな指の温もりがこびりついて離れない。肩をすくめ、小さく頭を振る。落ち着け、落ち着け――。
そんなふうに自分に言い聞かせていると、不意に前方から軽快な足音が近づいてきた。麻美だ。彼女は柔らかい髪を揺らしながら、いつもの朗らかな表情でこちらを覗き込んでくる。
「ん? なんか顔赤くない?」
「えっ!? そ、そんなことないよ!」
驚いて即座に否定する。だが、その声が微かに上ずっているのが自分でもわかってしまった。胸の奥がざわつく。誤魔化さなきゃ、冷静にならなきゃ――そう思うほどに、頬の熱はじわじわと広がっていく。
麻美はわずかに目を細め、探るような視線を向けてきた。唇の端がゆるく持ち上がる。その表情は、まるで秘密を見透かしたかのようだ。心臓が跳ねる。違う、違うから。そう言いたいのに、喉が詰まって言葉が出ない。
「へぇ?」
麻美の声音が少しだけ低くなる。
嫌な予感がする。いや、違う。嫌じゃない。ただ、今この場で深く追及されるのが耐えられないだけだ。息を詰めたまま、私はそっと視線を逸らした。
――お願いだから、今はそっとしておいて……。
39
あなたにおすすめの小説
定時で帰りたい私と、残業常習犯の美形部長。秘密の夜食がきっかけで、胃袋も心も掴みました
藤森瑠璃香
恋愛
「お先に失礼しまーす!」がモットーの私、中堅社員の結城志穂。
そんな私の天敵は、仕事の鬼で社内では氷の王子と恐れられる完璧美男子・一条部長だ。
ある夜、忘れ物を取りに戻ったオフィスで、デスクで倒れるように眠る部長を発見してしまう。差し入れた温かいスープを、彼は疲れ切った顔で、でも少しだけ嬉しそうに飲んでくれた。
その日を境に、誰もいないオフィスでの「秘密の夜食」が始まった。
仕事では見せない、少しだけ抜けた素顔、美味しそうにご飯を食べる姿、ふとした時に見せる優しい笑顔。
会社での厳しい上司と、二人きりの時の可愛い人。そのギャップを知ってしまったら、もう、ただの上司だなんて思えない。
これは、美味しいご飯から始まる、少し大人で、甘くて温かいオフィスラブ。
冷徹社長の「契約」シンデレラ~一夜の過ちから始まる溺愛ルート!? 嘘つきな私と不器用な御曹司のオフィスラブ~
藤森瑠璃香
恋愛
派遣社員の桜井美月は、ある夜、会社の懇親会で泥酔し、翌朝目覚めると隣には「氷の彫刻」と恐れられる若き社長・一条蓮がいた。まさかの一夜の過ち(実際には何もなかったが、美月は勘違い)に青ざめる美月に、蓮は「責任は取る。だがこれは恋愛ではない、契約だ」と、彼の抱えるある事情のため、期間限定で恋人のフリをするよう持ちかける。破格の報酬と蓮の真剣な様子に、美月は契約を受け入れる。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
学園では婚約者に冷遇されていますが、有能なので全く気になりません。〜学園でお山の大将されてても、王宮では私の方が有能ですから〜
織り子
恋愛
王都カラディナにある国立魔術学園では、満十六歳の生徒たちの社交界デビューを兼ねた盛大なパーティーが開かれていた。
侯爵令嬢タレイア・オルトランは、婚約者である第二王子アスラン・オグセリアの迎えを待つも、結局ひとりで会場へ向かうことになる。
学園では身分の差がないとはいえ、アスランが公然とタレイアを侮辱し続けてきたことで、彼女は生徒たちから冷笑と蔑視の的となっていた。しかしタレイアは、王城で政務を担ってきた聡明さと矜持を失わず、毅然と振る舞う。
いい加減こっち見ろよ!〜見た目だけだとフラれ続ける私は、どうやら幼馴染の執着愛に気づいていなかったようです。〜
こころ ゆい
恋愛
保育士の八重と外科医の一生は、小学生の頃からの幼馴染。
傍から見れば、儚く清楚に見えるらしい八重は、実は外見にそぐわぬ性格をしていた。
そのせいで、見た目につられて告白してくる男性たちは、ことごとく彼女の中身を知って離れていく。
フラれる度に、やけ食いややけ酒に付き合ってもらっている一生は優しいが、懲りずに同じような恋愛を繰り返す八重に呆れている....と思っていたら?
「....八重の可愛さは、そんなもんじゃないんです。....誰も気付かなくていい。俺だけが知ってればいい」
ーーどうやら、かなり愛されていたようです?
※じれじれ・執着・溺愛 ラブストーリー。🌱
※この物語は、全て作者の想像で描かれたフィクションです。実際の場所・建物・人物とは関係ありません。🌱
※HOTランキング入りしました。(最高47位でした)全ては、読者の皆様のおかげです。心より感謝申し上げます。今後も精進して参ります。🌱
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
【完結】僕ら二度目のはじめまして ~オフィスで再会した、心に残ったままの初恋~
葉影
恋愛
高校の頃、誰よりも大切だった人。
「さ、最近はあんまり好きじゃないから…!」――あの言葉が、最後になった。
小島久遠は、新たな職場で、元カレとまさかの再会を果たす。
若くしてプロジェクトチームを任される彼は、
かつて自分だけに愛を囁いてくれていたことが信じられないほど、
遠く、眩しい存在になっていた。
優しかったあの声は、もう久遠の名前を呼んでくれない。
もう一度“はじめまして”からやり直せたら――そんなこと、願ってはいけないのに。
それでも——
8年越しのすれ違いは、再会から静かに動き出す。
これは、終わった恋を「もう一度はじめる」までの物語。
退屈扱いされた私が、公爵様の教えで社交界を塗り替えるまで
有賀冬馬
恋愛
「お前は僕の隣に立つには足りない」――そう言い放たれた夜から、私の世界は壊れた。
辺境で侍女として働き始めた私は、公爵の教えで身だしなみも心も整えていく。
公爵は決して甘やかさない。だが、その公正さが私を変える力になった。
元婚約者の偽りは次々に暴かれ、私はもう泣かない。最後に私が選んだのは、自分を守ってくれた静かな人。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる