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第16話 触れた指先の温度

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 終業時間が近づいた頃、デスクで軽く伸びをしていた私に、低く響く声が降ってきた。

「佐倉、少し来てくれ」

 びくっと肩が跳ねる。声の主を確認するまでもなく、誰なのか分かっていた。

(仕事の話…だよね?)

 恐る恐る振り向くと、九条課長が無表情のまま立っていた。整えられた黒髪に、鋭い目元。冷静な視線がまっすぐに私を捉える。その目を見た瞬間、息苦しさが胸を締めつけた。別に怒らせるようなことをした覚えはない。それなのに、心臓がひどく落ち着かない。

「はい」

 かすれそうな声をなんとか押し出し、私は立ち上がった。周囲の視線が気になる。誰かが「また佐倉さん?」と小さく呟いた気がした。九条課長に呼ばれるのは珍しくないとはいえ、こうも頻繁だと目立つのかもしれない。なるべく気にしないようにして、私は彼の後を追った。

 会議室のドアが閉まると、廊下の喧騒が遠のき、室内に静寂が満ちる。わずかに開いたブラインドの隙間から、夕暮れの光が薄く差し込み、机の上に伸びる影を揺らしていた。長机には整然と積まれた資料が並び、その一冊を九条課長が手に取る。

「これ、次の会議までに目を通しておいてくれ」

 九条課長に差し出されたファイルは、ごく普通の厚みだった。しかし、その存在は異様なほど重く感じられた。表紙に大きく押された『機密事項』の赤いスタンプが、鮮烈に目に飛び込んできた。まるで警告のように、否応なく視線を奪う。

(機密事項……? まさか、新プロジェクトの件?)

 社内でも極秘扱いになっている案件があるという噂は聞いていた。しかし、それに関わるのはごく一部の限られた人間だけだとばかり思っていた。ましてや、私のような立場の者が――。胸の奥がざわめき、指先がかすかに震える。

「……これは」

 かすれそうになる声を押し出すように問いかけると、九条課長は静かに視線を落とした。その瞳は鋭くも冷静で、どこか底知れぬ重みを宿している。

「詳細は資料を読めば分かる。だが、この件に関しては外部はもちろん、社内でも不用意に話すな」

 低く抑えられた声が、室内の空気をさらに張り詰めさせた。わずかに濁った蛍光灯の光が彼の眼鏡に反射し、一瞬だけ視線の奥を隠す。だが、その言葉の端々に滲む慎重さと緊張感は、隠しようもなかった。彼の表情に浮かぶ影が、事態の深刻さを雄弁に物語っている。私は無意識のうちに背筋を正し、小さく頷いた。

「……わかりました」

 そう返事をしながら、私はそっと手を伸ばした。指先が資料に触れようとする、その瞬間――。

 微かな熱が走った。

 九条課長の指先に、触れてしまったのだ。

 ほんの一瞬の接触。それだけなのに、空気が静止したかのような錯覚に陥る。紙の質感を感じる前に、指先から伝わる確かな熱が意識を占めた。思わず息を詰める。鼓動が、不自然なほどに大きく響く。

 向かいに立つ彼の手も、一瞬だけ動きを止めていた。わずかに伏せられた視線が、ゆっくりとこちらに戻る。彼の瞳が、かすかに揺れた気がした。その些細な変化に引き寄せられるように、私は彼を見つめてしまう。

 しかし、次の瞬間には彼は何事もなかったかのように手を引き、平静な表情を取り戻していた。

「頼んだぞ」

 低く落ち着いた声。その響きがさっきよりもわずかに深く聞こえたのは、気のせいだろうか。喉の奥に響くような低音が、心臓のどこかを微かに揺らす。私は慌てて頷き、手にした資料を抱え込むようにして会議室を後にした。

 扉を閉めた瞬間、張り詰めていた息をふっと吐き出す。深く吸い込んだ空気が肺に染みるようだった。背中が熱い。いや、それだけじゃない。指先がじんじんとしている。さっき、ほんの一瞬触れたあの指の感触が、まだ肌に残っているような気がした。たかが仕事の資料を受け取っただけなのに。なのに、どうしてこんなにも意識してしまうんだろう。

 足早に廊下を歩く。できるだけ何も考えないように、ひたすら前へ。けれど頭の中には、先ほどの低い声と、微かな指の温もりがこびりついて離れない。肩をすくめ、小さく頭を振る。落ち着け、落ち着け――。

 そんなふうに自分に言い聞かせていると、不意に前方から軽快な足音が近づいてきた。麻美だ。彼女は柔らかい髪を揺らしながら、いつもの朗らかな表情でこちらを覗き込んでくる。

「ん? なんか顔赤くない?」

「えっ!? そ、そんなことないよ!」

 驚いて即座に否定する。だが、その声が微かに上ずっているのが自分でもわかってしまった。胸の奥がざわつく。誤魔化さなきゃ、冷静にならなきゃ――そう思うほどに、頬の熱はじわじわと広がっていく。

 麻美はわずかに目を細め、探るような視線を向けてきた。唇の端がゆるく持ち上がる。その表情は、まるで秘密を見透かしたかのようだ。心臓が跳ねる。違う、違うから。そう言いたいのに、喉が詰まって言葉が出ない。

「へぇ?」

 麻美の声音が少しだけ低くなる。

 嫌な予感がする。いや、違う。嫌じゃない。ただ、今この場で深く追及されるのが耐えられないだけだ。息を詰めたまま、私はそっと視線を逸らした。

 ――お願いだから、今はそっとしておいて……。
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