15 / 35

第15話 追及

しおりを挟む
 午後の業務に集中しようと、ディスプレイに視線を固定する。だが、さっき耳にした噂が脳裏をよぎり、どうしても意識を逸らせない。キーボードを打つ指は動き続けているものの、心は落ち着かず、つい何気なく九条課長のデスクを盗み見てしまう。

 課長はいつもと変わらない冷静な表情で、淡々と書類に目を通している。長年の経験からくる余裕なのか、その指先は一切の迷いもなくペンを滑らせ、時折視線を落としては淡々と決裁印を押していく。静かなオフィスの中で、紙とペンが触れ合う微かな音だけが響く。その姿は、噂などまるで存在しないかのように、揺るぎない。

 その落ち着きに少し安心するものの、不安が完全に消えるわけではない。

(まさか、噂が彼の耳に入ることはないよね…?)

 社内で飛び交うただの噂話。しかし、もし本人が知ったらどうなるのか。九条課長はああ見えて厳格な人だ。普段は冷静沈着で、私情を表に出すことは滅多にない。そんな彼の名前がくだらないゴシップとともに囁かれているのだとしたら、不機嫌になるどころでは済まないかもしれない。軽い気持ちで広まった話が彼の耳に届き、表情ひとつ変えずに淡々と「くだらない」と切り捨てられる姿を想像するだけで、胃がキリキリと痛んだ。いや、考えたって仕方がない。気持ちを切り替えて仕事に集中しなきゃ――そう思った矢先だった。

「ねえ、さっきの噂聞いた?」

 突然、隣のデスクから麻美が顔を寄せてくる。声を潜めてはいるものの、その表情には好奇心が満ちていて、まるで楽しい秘密を共有しようとする子どものようだ。目をキラキラさせながら、こちらの反応を伺うように口元を隠しつつ囁く。

 心臓が大きく跳ねるのを感じた。指先がキーボードの上で止まり、慌てて平静を装う。まるで何事もなかったかのように、画面を見つめ直すが、意識の端で麻美の視線が突き刺さるのを感じる。

「た、ただの噂でしょ」

 できるだけそっけなく返したつもりだった。興味がない、と言わんばかりの声色で。しかし、麻美の目はさらに輝きを増し、まるでこちらの動揺を見透かしたかのように、唇の端を持ち上げる。

「でもさ、最近の課長、確かにちょっと柔らかくなったよ。佐倉だって、そう思わない?」

 鋭い指摘に、思わず息を呑む。確かに――最近の課長はどこか穏やかで、以前より表情が和らいでいる気がする。以前なら厳格そのもので、必要最低限の言葉しか発さなかったのに、最近は部下への声かけが増えたし、ふとした瞬間に微笑むこともある。

 たとえば、昨日の朝。いつもなら「おはようございます」とこちらが先に声をかけ、軽く頷かれるだけだったのに、昨日は珍しく課長の方から「おはよう」と言ってきた。しかも、ほんの少し、口元が綻んでいた気がする。そんな些細な変化が、妙に引っかかる。

 ……まさか。本当に? しかし、それを認めるわけにはいかない。自分まで噂を面白がっていると思われるのは避けたかった。

「別に…」

 ぼんやりとした返事で誤魔化そうとするが、麻美の探るような視線は揺るがない。獲物を追い詰めるかのように、じりじりと距離を詰めてくる。

「それに、今日の昼もなんか話してたじゃん」

 ビクッと肩が跳ねた。――やばい。すぐに反論しなきゃ。

「仕事の話だってば!」

 思わず声を強めると、周囲の数人がこちらをチラリと見る。しまった、と慌てて口を噤むが、時すでに遅い。パソコンの画面を見つめていた同僚たちが一瞬動きを止め、こちらに興味を示す気配が伝わってくる。九条課長の様子なんて、怖くて確認できない。

 対照的に、麻美はまるで思惑通りだと言わんばかりに、ゆっくりと唇の端を持ち上げた。

「ふーん?」

 意味ありげな笑みを浮かべながら、肘をついて私を見つめる。その表情が、妙に意地悪く見えて仕方ない。まるで、私が隠し事をしていると確信しているような眼差しだった。

(なんでこんなことに…?)

 胸の奥がじわじわと熱くなり、嫌な汗が背中を伝う。別に私は何も悪いことをしていない。ただ、課長のことを少し気にしているだけで――いや、それすらもおかしいのか?

「別に関係ないし」

 そう呟いて、わざと事務的にエンターキーを叩く。カタリ、と乾いた音が響き、ようやく視線を画面に戻すことができた。

 麻美が何か言いかけた気がしたが、私はもう聞かない。深く考える必要なんてない。これはただの噂話、ただの――。

 そう自分に言い聞かせながら、私は静かに息を吐いた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

定時で帰りたい私と、残業常習犯の美形部長。秘密の夜食がきっかけで、胃袋も心も掴みました

藤森瑠璃香
恋愛
「お先に失礼しまーす!」がモットーの私、中堅社員の結城志穂。 そんな私の天敵は、仕事の鬼で社内では氷の王子と恐れられる完璧美男子・一条部長だ。 ある夜、忘れ物を取りに戻ったオフィスで、デスクで倒れるように眠る部長を発見してしまう。差し入れた温かいスープを、彼は疲れ切った顔で、でも少しだけ嬉しそうに飲んでくれた。 その日を境に、誰もいないオフィスでの「秘密の夜食」が始まった。 仕事では見せない、少しだけ抜けた素顔、美味しそうにご飯を食べる姿、ふとした時に見せる優しい笑顔。 会社での厳しい上司と、二人きりの時の可愛い人。そのギャップを知ってしまったら、もう、ただの上司だなんて思えない。 これは、美味しいご飯から始まる、少し大人で、甘くて温かいオフィスラブ。

冷徹社長の「契約」シンデレラ~一夜の過ちから始まる溺愛ルート!? 嘘つきな私と不器用な御曹司のオフィスラブ~

藤森瑠璃香
恋愛
派遣社員の桜井美月は、ある夜、会社の懇親会で泥酔し、翌朝目覚めると隣には「氷の彫刻」と恐れられる若き社長・一条蓮がいた。まさかの一夜の過ち(実際には何もなかったが、美月は勘違い)に青ざめる美月に、蓮は「責任は取る。だがこれは恋愛ではない、契約だ」と、彼の抱えるある事情のため、期間限定で恋人のフリをするよう持ちかける。破格の報酬と蓮の真剣な様子に、美月は契約を受け入れる。

退屈扱いされた私が、公爵様の教えで社交界を塗り替えるまで

有賀冬馬
恋愛
「お前は僕の隣に立つには足りない」――そう言い放たれた夜から、私の世界は壊れた。 辺境で侍女として働き始めた私は、公爵の教えで身だしなみも心も整えていく。 公爵は決して甘やかさない。だが、その公正さが私を変える力になった。 元婚約者の偽りは次々に暴かれ、私はもう泣かない。最後に私が選んだのは、自分を守ってくれた静かな人。

『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』

鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、 仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。 厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議―― 最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。 だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、 結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。 そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、 次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。 同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。 数々の試練が二人を襲うが―― 蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、 結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。 そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、 秘書と社長の関係を静かに越えていく。 「これからの人生も、そばで支えてほしい。」 それは、彼が初めて見せた弱さであり、 結衣だけに向けた真剣な想いだった。 秘書として。 一人の女性として。 結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。 仕事も恋も全力で駆け抜ける、 “冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。

不埒な一級建築士と一夜を過ごしたら、溺愛が待っていました

入海月子
恋愛
有本瑞希 仕事に燃える設計士 27歳 × 黒瀬諒 飄々として軽い一級建築士 35歳 女たらしと嫌厭していた黒瀬と一緒に働くことになった瑞希。 彼の言動は軽いけど、腕は確かで、真摯な仕事ぶりに惹かれていく。 ある日、同僚のミスが発覚して――。

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

交際マイナス一日婚⁉ 〜ほとぼりが冷めたら離婚するはずなのに、鬼上司な夫に無自覚で溺愛されていたようです〜

朝永ゆうり
恋愛
憧れの上司と一夜をともにしてしまったらしい杷留。お酒のせいで記憶が曖昧なまま目が覚めると、隣りにいたのは同じく状況を飲み込めていない様子の三条副局長だった。 互いのためにこの夜のことは水に流そうと約束した杷留と三条だったが、始業後、なぜか朝会で呼び出され―― 「結婚、おめでとう!」 どうやら二人は、互いに記憶のないまま結婚してしまっていたらしい。 ほとぼりが冷めた頃に離婚をしようと約束する二人だったが、互いのことを知るたびに少しずつ惹かれ合ってゆき―― 「杷留を他の男に触れさせるなんて、考えただけでぞっとする」 ――鬼上司の独占愛は、いつの間にか止まらない!?

いい加減こっち見ろよ!〜見た目だけだとフラれ続ける私は、どうやら幼馴染の執着愛に気づいていなかったようです。〜

こころ ゆい
恋愛
保育士の八重と外科医の一生は、小学生の頃からの幼馴染。 傍から見れば、儚く清楚に見えるらしい八重は、実は外見にそぐわぬ性格をしていた。 そのせいで、見た目につられて告白してくる男性たちは、ことごとく彼女の中身を知って離れていく。 フラれる度に、やけ食いややけ酒に付き合ってもらっている一生は優しいが、懲りずに同じような恋愛を繰り返す八重に呆れている....と思っていたら? 「....八重の可愛さは、そんなもんじゃないんです。....誰も気付かなくていい。俺だけが知ってればいい」 ーーどうやら、かなり愛されていたようです? ※じれじれ・執着・溺愛 ラブストーリー。🌱 ※この物語は、全て作者の想像で描かれたフィクションです。実際の場所・建物・人物とは関係ありません。🌱 ※HOTランキング入りしました。(最高47位でした)全ては、読者の皆様のおかげです。心より感謝申し上げます。今後も精進して参ります。🌱

処理中です...