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第17話 何か困っていることはないか?

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 一週間が過ぎた、とある日。

 オフィスの廊下を歩いていると、九条課長が他部署の部長と真剣な表情で話し込んでいるのが目に入った。廊下には冷たく張り詰めた空気が漂い、二人の会話が無言の圧力となって周囲を支配している。まるで目に見えない壁がそこに立ち塞がっているかのようだった。

 視線を向けなくてもわかる。その空気はただならぬもので、普段の何気ない業務の延長ではない。二人とも深刻な顔つきで、眉間に刻まれた皺が何か重い事態を示唆していた。九条課長の指がわずかに動き、部長の腕がわずかに引かれる。声は抑えられているが、緊張がその場に満ちていた。

 私はその場を通り過ぎようとしたが、ふと視線を感じて思わず足を止めた。廊下に響くヒールの音が急に途切れる。冷静を装いながらも、胸の奥が不自然に跳ねていた。喉の奥が乾く。何か、ただの偶然ではない気がした。

(……気のせい?)

 ちらりと九条課長を見る。視線を合わせるつもりはなかった。だが、ほんの一瞬、確かに彼の目がこちらを捕らえた気がした。ただの偶然にしては、あまりにも狙い澄ましたような間合い。まるで何かを探るような、確かめるような――そんな視線だった。しかし、それも一瞬のこと。九条課長の目はすぐに部長へと戻り、口元を引き結ぶ。先ほどまでの視線などなかったかのように、会話を続けていた。

(気にしすぎ、だよね……)

 自分にそう言い聞かせても、胸のざわつきは簡単には消えてくれなかった。自分のデスクに戻り、呼吸を整えようと静かに息を吐くが、それだけで不安が拭えるわけもない。あの一瞬の視線――それが偶然なのか、それとも何か意図があるのか。考え始めると、止まらなかった。頭の奥で繰り返し響くのは、あの噂。

(まさか、噂のことが広まってる……とか?)

 心臓が嫌な鼓動を刻む。喉の奥がひどく乾き、指先がわずかに震えた。契約結婚のことを知っているのは、私と九条課長だけのはず。お互いに、結婚しろとうるさい実家を黙らせるための、ただの方便。まだ籍も入れていないし、ましてや職場に報告する義理もない。なのに――もしどこからか漏れていたとしたら? それが「社内風紀を乱す」などと問題視されたら? ただの契約が、仕事にまで影を落とすとしたら?

 想像したくもない展開が脳裏をよぎる。冷たい汗が首筋を伝い、ぞくりとした寒気が背中を走った。

 理性的になろうとする。仕事に集中しなければ、と自分に言い聞かせ、目の前の書類に視線を落とした。ペンを握りしめる。だが、意識を切り替えようとするほどに、あの視線が頭から離れなかった。

 九条課長の視線――あの一瞬、確かに私を見ていた。ただの偶然? それとも……何かを測るように、探るように?

 気のせいかもしれない。そう考えれば楽になれるのに、胸の奥に張りついた疑念がそれを許さない。もし、本当に「気のせい」でなかったとしたら?

 不安を振り払うように、私はただ手を動かし続けた。ペン先が紙を滑る音だけが、やけに大きく響く。書類に集中しようとするほど、時間はひどくゆっくりと流れた。何かを考える余裕すら奪ってほしかったのに、意識の片隅では、不安がじっと息を潜めている。

 そして――夕方。

 デスクで書類を整理していると、不意に背後から声がかかった。

「佐倉、少し時間あるか?」

 心臓が跳ねた。驚いて振り向くと、九条課長が静かな眼差しで私を見ていた。いつもと変わらぬ落ち着いた声のはずなのに、その響きには妙な重みがあった。まるで言葉の裏側に、何か別の意図が隠されているような――そんな感覚に、息が詰まる。

(え、また……?)

 先日も呼び出されたばかりだった。あのときの用件は、機密文書の手渡し。それだけのはずだったのに、なぜか心の奥に妙な引っかかりが残った。

 そして今日、再び――。通常の業務連絡なら、わざわざ呼びかける必要はない。社内メールで済ませればいい話だ。それなのに、どうして。直接呼ばれたという事実が、じわじわと胸の奥で膨らんでいく。違和感、警戒心、それとも――期待?

 そんな考えを振り払うように、私は九条課長の表情を探った。けれど、そこに浮かぶのは、いつもの冷静な眼差し。ただ、その奥にかすかに揺れるものがあるように感じた。

「は、はい」

 声が少し上ずったのが、自分でもわかった。

 九条課長は私の返事を聞くと、静かに一歩、距離を詰めた。その動きは決して急ではないのに、妙に圧迫感がある。わずかに漂う洗練された香りが、静かな空間に溶け込む。彼の体温が感じられるほどの距離――その近さに、鼓動が不規則に跳ねるのを自覚した。

「最近、何か困っていることはないか?」

 低く、静かな声。その響きは、まるで心の奥底を優しく撫でるようでありながら、鋭く抉るようでもあった。まさかそんなことを聞かれるとは思わず、一瞬思考が停止する。困っていること……? そんなことはない。いや、本当にそうだろうか。胸の奥で小さな棘のように引っかかる感覚がある。

 社内の噂。ささやかれる憶測。廊下を歩くたびに、ふと感じる誰かの視線。考えすぎだと思おうとしても、完全に振り払うことはできなかった。けれど、それを口にするわけにはいかない。言葉にした瞬間、何かが決定的に変わってしまいそうで――。

「いえ、特には……」

 精一杯平静を装って答えたつもりだった。だが、その言葉が口をつくと同時に、自分の声のわずかな揺らぎに気づいてしまう。九条課長の視線が鋭くなる。鋭利な刃物のように、真っ直ぐこちらを射抜く。まるで心の奥底を覗き込むかのような眼差しだった。

「そうか」

 低く、短い返答。だが、その声音の裏にある感情は、単なる納得ではない。彼の目が微かに細められ、口元がわずかに引き締まる。その表情のわずかな変化が、疑念をぬぐえていないことを如実に物語っていた。

 言葉以上に、沈黙が重い。

 ただの空白ではなく、何かが押し寄せてくるような、圧力を帯びた沈黙だった。

(……もしかして、本当に私のことを気にかけてる? それとも、ただ契約だから?)

 心の中に、割り切れない疑問が渦を巻く。私たちの関係はあくまで契約に過ぎない。個人的な感情など入り込む余地はないはずだ。九条課長が私のことを気にする理由があるとすれば、それは契約に支障が出る可能性を危惧しているから――そう、理屈では分かっている。それなのに、どうしてこの人の目は、こんなにも奥深く何かを探るような色を帯びているのだろう。

「何かあれば、言え」

 言葉は淡々としていた。感情を抑えた声色には、無駄な温度は感じられない。だが、それでも――その一言には、ただの形式的な注意喚起とは違う何かが滲んでいる気がした。

 彼はそれ以上何も言わず、ためらいなく踵を返す。その動きには、一切の迷いがない。オフィスの奥へと吸い込まれるように、その背中がゆっくりと遠ざかっていく。私にはもう、何も言う余地がなかった。ただその背を見送ることしかできない。

 九条課長の背中を見送りながら、胸の奥で得体の知れないざわつきが広がっていく。何かを言うべきだったのではないか――そんな考えが、遅れてじわりと滲む。けれど、喉の奥に絡まった言葉は形を成さず、ただ沈黙の中に溶けていった。
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