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第18話 さらなる噂
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翌日、出社すると、社内がどことなくざわついていた。普段なら朝のオフィスは、コーヒーを片手に静かにメールをチェックする人、新聞を広げる人、無言でパソコンに向かう人――それぞれが淡々とルーチンをこなし、静寂が支配しているはずだった。エアコンの微かな唸りやキーボードを叩く音が、背景のように響くのが常だ。
だが今日は違う。ひそひそとした声がそこかしこで飛び交い、誰かが何かを囁くたびに、小さく噴き出すような笑いや、驚きに満ちた表情が瞬時に交錯する。視線が素早く交わされ、妙な熱気が漂っている。まるで、見えない炎がくすぶっているような雰囲気だ。
何かあったのだろうか。
違和感を覚えながらデスクへ向かうと、待ち構えていたかのように麻美がすかさず寄ってきた。その動きは素早く、獲物を見つけた猫のようだった。黒目がちな瞳がきらきらと輝き、口元にはわずかに抑えきれない笑みが浮かんでいる。彼女の足取りには弾むような軽やかさがあり、明らかに何か面白いことを見つけたという様子だった。
「ねえ、ちょっと聞いた?」
声をひそめながらも、その声音には抑えきれない興奮が滲んでいた。微かに震える唇は、噂を口にする前の高揚感からか、それとも笑いを堪えているのか。デスクに肘をついた彼女の指先が、リズムを刻むように軽く動いている。その仕草が、待ちきれない心情を物語っていた。
「何の話?」
眉をひそめて聞き返すと、麻美はさらに身を乗り出した。まるで極秘情報を共有するかのように、慎重な動きで周囲をちらりと見回す。その目は好奇心に輝き、まるで劇的な展開を予感しているかのようだった。彼女のこの態度を見ていると、こちらもつられて背筋が伸びる。単なる噂話では終わらない、そんな予感が背中を這い上がった。
「課長に関する噂の件よ」
囁くような声だったが、その抑えられた響きこそが逆に核心めいた重みを帯びていた。彼女の目がいたずらっぽく光り、言葉の続きを待ち望んでいるようにこちらを見つめる。
「噂?」
嫌な予感がした。まるで空気の密度が変わったかのように、オフィスのざわめきが自分を包み込んでくる。キーボードを叩く音、短く鳴る電話の呼び出し音、誰かの笑い声――普段なら意識の外にあるはずの雑音が、今はやけに耳障りに響く。心臓の鼓動とともに、それらの音が不自然に大きく感じられた。見られているわけでもないのに、背中に無数の視線が突き刺さるような感覚に襲われる。
「九条課長に"社内に特別な関係の相手がいる"って話があったでしょ? あの噂が広まってるの!」
隣のデスクから聞こえてきた声に、思わず息をのむ。
「特別な関係…?」
喉がひどく乾く。口の中でその言葉を転がした瞬間、心臓がひとつ大きく跳ねた。手元の書類を握る指先がじんわりと冷たくなっていくのを感じる。
「最近課長が柔らかくなったのは、その人の影響じゃないかって!」
柔らかくなった――。
確かに、九条課長は以前とは変わりつつある。かつての彼は冷静沈着で、感情の読めない厳格な人物だった。会議では常に的確で鋭い指摘を繰り出し、無駄な雑談を嫌い、余計な感情を挟むことなく業務を遂行する。部下たちもまた、彼の前では無意識に背筋を伸ばし、慎重に言葉を選んでいた。
けれど――最近の彼は違う。
ふとした瞬間、口元がわずかにほころぶ。以前は無機質に響いていた声も、どこか柔らかさを帯びている。部下への指導も、一方的な叱責ではなく、相手の言葉を受け止める余裕がある。朝の挨拶すらも、以前はただの儀礼的なものだったのに、今ではほんの少し温かみを感じるようになった。まるで、冬の厳しい寒さが和らぎ、春の兆しが見え始めたかのように。
「でね、その相手が"同じ部署の誰か"なんじゃないかって噂なのよ」
「えっ…」
息が詰まる。
一瞬、世界が静止したように感じた。
周囲のざわめきが遠のき、視界の端がぼやける。喉がぎゅっと狭まり、思わず息を飲んだ。心臓が、普段よりも大きく、強く鼓動を打つ。
"同じ部署の誰か"――その言葉が、鋭く胸の奥を突いた。
まるで小さな棘が、じわじわと内側から刺さるような感覚。否応なく広がる不安に、指先までひんやりと冷たくなるのを感じた。
「まあ、うちらの部署って女子少ないし、可能性としては…」
麻美の声が、妙にゆっくりと響いた。
彼女は意味深な笑みを浮かべながら、じっと私を見つめる。黒目がちな瞳が探るように細められ、唇の端がゆっくりと持ち上がる。その視線には、確信とも取れる光が宿っていた。
ぞくりとした。
(まさか…私だと疑ってる?)
咄嗟に喉を鳴らし、言葉を絞り出す。
「わ、私じゃないってば! いい加減、しつこいよ」
慌てて首を振るも、自分の声がわずかに裏返ったのがわかった。動揺が、誤魔化しようもなく声色に滲んでしまう。心臓の鼓動が早まる。体の奥から熱が込み上げてくるのに、指先だけが冷えていた。こんな反応をすればするほど、逆に怪しまれるのではないか――そんな考えが頭をよぎる。
「ほんとに~?」
麻美は疑いの色を隠さず、ニヤニヤと笑みを深めた。その表情は、完全にこちらを試している。まるで、わずかなほころびを見つけるまで獲物を逃さない捕食者のように。
朝のざわめきが遠のき、周囲の話し声や食器が触れ合う音さえ、まるで水の底から聞こえるようにくぐもっていく。空調の微かな風が頬を撫でるはずなのに、肌はじんわりと熱を帯び、逃げ場を探すように視線がさまよった。
(まずい…これはちょっとまずいかも…)
ごくりと喉を鳴らす。無理に平静を装おうとしても、背中に伝う汗の感触は誤魔化せない。心臓がやけに騒がしく、こめかみの奥で小さな警鐘が鳴り続ける。
「何よ、その顔」
麻美がくすくすと笑う。その声すらも挑発のように思えて、思わず唇を引き結んだ。
なんとかその場を取り繕ったものの、冷や汗はじわりと滲み、動揺の波紋は静かに広がり続けていた。
だが今日は違う。ひそひそとした声がそこかしこで飛び交い、誰かが何かを囁くたびに、小さく噴き出すような笑いや、驚きに満ちた表情が瞬時に交錯する。視線が素早く交わされ、妙な熱気が漂っている。まるで、見えない炎がくすぶっているような雰囲気だ。
何かあったのだろうか。
違和感を覚えながらデスクへ向かうと、待ち構えていたかのように麻美がすかさず寄ってきた。その動きは素早く、獲物を見つけた猫のようだった。黒目がちな瞳がきらきらと輝き、口元にはわずかに抑えきれない笑みが浮かんでいる。彼女の足取りには弾むような軽やかさがあり、明らかに何か面白いことを見つけたという様子だった。
「ねえ、ちょっと聞いた?」
声をひそめながらも、その声音には抑えきれない興奮が滲んでいた。微かに震える唇は、噂を口にする前の高揚感からか、それとも笑いを堪えているのか。デスクに肘をついた彼女の指先が、リズムを刻むように軽く動いている。その仕草が、待ちきれない心情を物語っていた。
「何の話?」
眉をひそめて聞き返すと、麻美はさらに身を乗り出した。まるで極秘情報を共有するかのように、慎重な動きで周囲をちらりと見回す。その目は好奇心に輝き、まるで劇的な展開を予感しているかのようだった。彼女のこの態度を見ていると、こちらもつられて背筋が伸びる。単なる噂話では終わらない、そんな予感が背中を這い上がった。
「課長に関する噂の件よ」
囁くような声だったが、その抑えられた響きこそが逆に核心めいた重みを帯びていた。彼女の目がいたずらっぽく光り、言葉の続きを待ち望んでいるようにこちらを見つめる。
「噂?」
嫌な予感がした。まるで空気の密度が変わったかのように、オフィスのざわめきが自分を包み込んでくる。キーボードを叩く音、短く鳴る電話の呼び出し音、誰かの笑い声――普段なら意識の外にあるはずの雑音が、今はやけに耳障りに響く。心臓の鼓動とともに、それらの音が不自然に大きく感じられた。見られているわけでもないのに、背中に無数の視線が突き刺さるような感覚に襲われる。
「九条課長に"社内に特別な関係の相手がいる"って話があったでしょ? あの噂が広まってるの!」
隣のデスクから聞こえてきた声に、思わず息をのむ。
「特別な関係…?」
喉がひどく乾く。口の中でその言葉を転がした瞬間、心臓がひとつ大きく跳ねた。手元の書類を握る指先がじんわりと冷たくなっていくのを感じる。
「最近課長が柔らかくなったのは、その人の影響じゃないかって!」
柔らかくなった――。
確かに、九条課長は以前とは変わりつつある。かつての彼は冷静沈着で、感情の読めない厳格な人物だった。会議では常に的確で鋭い指摘を繰り出し、無駄な雑談を嫌い、余計な感情を挟むことなく業務を遂行する。部下たちもまた、彼の前では無意識に背筋を伸ばし、慎重に言葉を選んでいた。
けれど――最近の彼は違う。
ふとした瞬間、口元がわずかにほころぶ。以前は無機質に響いていた声も、どこか柔らかさを帯びている。部下への指導も、一方的な叱責ではなく、相手の言葉を受け止める余裕がある。朝の挨拶すらも、以前はただの儀礼的なものだったのに、今ではほんの少し温かみを感じるようになった。まるで、冬の厳しい寒さが和らぎ、春の兆しが見え始めたかのように。
「でね、その相手が"同じ部署の誰か"なんじゃないかって噂なのよ」
「えっ…」
息が詰まる。
一瞬、世界が静止したように感じた。
周囲のざわめきが遠のき、視界の端がぼやける。喉がぎゅっと狭まり、思わず息を飲んだ。心臓が、普段よりも大きく、強く鼓動を打つ。
"同じ部署の誰か"――その言葉が、鋭く胸の奥を突いた。
まるで小さな棘が、じわじわと内側から刺さるような感覚。否応なく広がる不安に、指先までひんやりと冷たくなるのを感じた。
「まあ、うちらの部署って女子少ないし、可能性としては…」
麻美の声が、妙にゆっくりと響いた。
彼女は意味深な笑みを浮かべながら、じっと私を見つめる。黒目がちな瞳が探るように細められ、唇の端がゆっくりと持ち上がる。その視線には、確信とも取れる光が宿っていた。
ぞくりとした。
(まさか…私だと疑ってる?)
咄嗟に喉を鳴らし、言葉を絞り出す。
「わ、私じゃないってば! いい加減、しつこいよ」
慌てて首を振るも、自分の声がわずかに裏返ったのがわかった。動揺が、誤魔化しようもなく声色に滲んでしまう。心臓の鼓動が早まる。体の奥から熱が込み上げてくるのに、指先だけが冷えていた。こんな反応をすればするほど、逆に怪しまれるのではないか――そんな考えが頭をよぎる。
「ほんとに~?」
麻美は疑いの色を隠さず、ニヤニヤと笑みを深めた。その表情は、完全にこちらを試している。まるで、わずかなほころびを見つけるまで獲物を逃さない捕食者のように。
朝のざわめきが遠のき、周囲の話し声や食器が触れ合う音さえ、まるで水の底から聞こえるようにくぐもっていく。空調の微かな風が頬を撫でるはずなのに、肌はじんわりと熱を帯び、逃げ場を探すように視線がさまよった。
(まずい…これはちょっとまずいかも…)
ごくりと喉を鳴らす。無理に平静を装おうとしても、背中に伝う汗の感触は誤魔化せない。心臓がやけに騒がしく、こめかみの奥で小さな警鐘が鳴り続ける。
「何よ、その顔」
麻美がくすくすと笑う。その声すらも挑発のように思えて、思わず唇を引き結んだ。
なんとかその場を取り繕ったものの、冷や汗はじわりと滲み、動揺の波紋は静かに広がり続けていた。
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