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第22話 総務の美人
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社内の噂は少しずつ落ち着いてきたものの、完全に消え去ったわけではなかった。特に課長の「結婚相手」が誰なのかについては、まだ興味を持っている人もいるようだ。廊下を歩いていると、こんな話が耳に入ってくる。
「結局、課長の相手って誰なんだろう?」
「本人に直接聞けるわけないしな」
何気ない会話のようでいて、その言葉は妙に現実味を帯びていた。まるで霧がかった空に浮かぶ輪郭の定まらない影のように、人々の憶測は消えそうで消えず、静かに広がり続けている。そのざわめきは、まるで水面に投げ込まれた小石の波紋のように、細く遠くまで広がっていく。
私は心の中で(このまま沈静化してくれるといいけど…)と願う。余計な詮索をされずにやり過ごせれば、それが一番だ。むやみに話題にされればされるほど、不要な憶測が膨らみ、無関係な人まで巻き込まれる。そうなれば、課長にとっても私にとっても、決して良いことではない。
それでも、人の興味というものは、一度火がついてしまうと、そう簡単には消えてくれないものらしい。まるで風に煽られた焚き火のように、細かな火の粉が飛び散り、思いもよらないところでくすぶり続ける。沈静化するどころか、誰かが意図せず火種を落とし、新たな憶測を生んでしまうこともある。社内という限られた空間の中では、一つの噂が独り歩きを始めれば、それを完全に消し去るのはほとんど不可能だ。
そんな考えが頭をよぎった矢先だった。
――昼休み。
デスクで書類を整理していると、不意に背後から弾んだ声が響いた。
「ねえねえ、聞いた? 課長が昨日、他部署の女性社員と話してたらしいよ!」
明るく響く声に、指先がわずかにこわばる。興奮を隠しきれない調子で駆け寄ってきたのは、同期の麻美だった。彼女の足音は軽やかで、まるで面白い噂話を運ぶことに使命感でも抱いているかのようだ。私は思わず手を止め、静かに息を吐く。だが、その一瞬の間すら、彼女の勢いは緩まなかった。
「え?」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。驚きというよりも、言葉を発すること自体に戸惑いがあったのかもしれない。でも、そんなささやかな反応を麻美が聞き逃すはずもなかった。彼女はすぐさま身を乗り出し、さらに声を弾ませる。
「うちのフロアじゃなくて、総務の方にいる美人の人らしいんだけど……結構親しげだったって噂!」
総務の美人──。
その単語が、じわじわと頭の奥に染み込んでいく。まるで冷たい水が静かに広がるように、心の奥深くにまで浸透していく感覚。意識しないようにしていたのに、無意識のうちに誰かの顔が浮かびかけて、慌てて思考を振り払う。ペンを握る指に余計な力が入りすぎて、カリッと微かな音が鳴った。紙の端がわずかに歪み、その事実がますます焦燥感を募らせる。
意識しすぎだ。ただの仕事の話かもしれない。偶然すれ違っただけかもしれない。でも、もし──。
(まさか…昨日の"別の誰かと関わっているように見せる"って話、まだ考えてたの…?)
喉の奥が重くなる。まるで見えない手がそこを締めつけるように、息の通りが悪くなった。何かを言おうとしても、喉に絡みついた不安が言葉を押し戻してしまう。
──いや、違う。ただの考えすぎだ。私が気にする必要なんて、どこにもない。
「ただの仕事の話じゃないの?」
努めて平静を装い、できるだけ軽い口調で返す。それなのに、口をついて出た自分の声は思った以上に固く、どこかぎこちない。微かに震えたようにも思えた。意識すればするほど、そのわずかな揺らぎが自分の中で大きく響く。
麻美の黒曜石のような瞳が、じっと私を捉える。まるで小さな違和感も逃さないとでも言うように。ゆっくりと首を傾げる仕草は一見無邪気に見えるけれど、その奥には探るような鋭さが滲んでいた。彼女はこうして、相手のほんの小さな変化を拾い上げ、言葉の裏にあるものを暴くのが得意だった。
「でも、仕事じゃあんまり関わりないはずだよ。その割に、急に距離が縮まって怪しいって話! 佐倉もそう思わない?」
さらりとした口調なのに、その言葉は妙に鋭く心に突き刺さる。胸の奥に、波紋が広がるような感覚。動揺を悟られたくなくて視線を逸らしたけれど、それすらも何かを悟られそうで、そわそわと落ち着かなくなる。
核心を突かれた気がした。まるで、鋭利な針が心の奥深くに静かに突き立てられるような、嫌な痛みを覚える。彼女の視線が私の内側を暴こうとしているように感じて、ぎゅっと拳を握る。
(……そんなこと、私に聞かれても困る)
言いかけて、すんでのところで飲み込んだ。喉の奥に引っかかった言葉は熱を帯び、無理に押し殺そうとするほどに、内側で燻っていく。もし口にしてしまえば、思ってもいない感情が言葉に滲んでしまいそうな気がして、怖かった。
何も気にする必要なんてないはずだった。いつもなら、こんな話、適当に流して終われたはずなのに。曖昧な笑顔と、どうとでも取れる相槌で、簡単にやり過ごせるはずだったのに。なのに今、喉の奥に絡まるこの違和感は何なのだろう。胸の奥でざわつく、この得体の知れない感情は――。
(……なんで、私、こんなに気にしてるんだろう?)
自分で自分がわからない。その曖昧な疑問が、静かに心の奥でくすぶり続ける。まるで、答えを見つけるまで逃がさないと言わんばかりに。
「結局、課長の相手って誰なんだろう?」
「本人に直接聞けるわけないしな」
何気ない会話のようでいて、その言葉は妙に現実味を帯びていた。まるで霧がかった空に浮かぶ輪郭の定まらない影のように、人々の憶測は消えそうで消えず、静かに広がり続けている。そのざわめきは、まるで水面に投げ込まれた小石の波紋のように、細く遠くまで広がっていく。
私は心の中で(このまま沈静化してくれるといいけど…)と願う。余計な詮索をされずにやり過ごせれば、それが一番だ。むやみに話題にされればされるほど、不要な憶測が膨らみ、無関係な人まで巻き込まれる。そうなれば、課長にとっても私にとっても、決して良いことではない。
それでも、人の興味というものは、一度火がついてしまうと、そう簡単には消えてくれないものらしい。まるで風に煽られた焚き火のように、細かな火の粉が飛び散り、思いもよらないところでくすぶり続ける。沈静化するどころか、誰かが意図せず火種を落とし、新たな憶測を生んでしまうこともある。社内という限られた空間の中では、一つの噂が独り歩きを始めれば、それを完全に消し去るのはほとんど不可能だ。
そんな考えが頭をよぎった矢先だった。
――昼休み。
デスクで書類を整理していると、不意に背後から弾んだ声が響いた。
「ねえねえ、聞いた? 課長が昨日、他部署の女性社員と話してたらしいよ!」
明るく響く声に、指先がわずかにこわばる。興奮を隠しきれない調子で駆け寄ってきたのは、同期の麻美だった。彼女の足音は軽やかで、まるで面白い噂話を運ぶことに使命感でも抱いているかのようだ。私は思わず手を止め、静かに息を吐く。だが、その一瞬の間すら、彼女の勢いは緩まなかった。
「え?」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。驚きというよりも、言葉を発すること自体に戸惑いがあったのかもしれない。でも、そんなささやかな反応を麻美が聞き逃すはずもなかった。彼女はすぐさま身を乗り出し、さらに声を弾ませる。
「うちのフロアじゃなくて、総務の方にいる美人の人らしいんだけど……結構親しげだったって噂!」
総務の美人──。
その単語が、じわじわと頭の奥に染み込んでいく。まるで冷たい水が静かに広がるように、心の奥深くにまで浸透していく感覚。意識しないようにしていたのに、無意識のうちに誰かの顔が浮かびかけて、慌てて思考を振り払う。ペンを握る指に余計な力が入りすぎて、カリッと微かな音が鳴った。紙の端がわずかに歪み、その事実がますます焦燥感を募らせる。
意識しすぎだ。ただの仕事の話かもしれない。偶然すれ違っただけかもしれない。でも、もし──。
(まさか…昨日の"別の誰かと関わっているように見せる"って話、まだ考えてたの…?)
喉の奥が重くなる。まるで見えない手がそこを締めつけるように、息の通りが悪くなった。何かを言おうとしても、喉に絡みついた不安が言葉を押し戻してしまう。
──いや、違う。ただの考えすぎだ。私が気にする必要なんて、どこにもない。
「ただの仕事の話じゃないの?」
努めて平静を装い、できるだけ軽い口調で返す。それなのに、口をついて出た自分の声は思った以上に固く、どこかぎこちない。微かに震えたようにも思えた。意識すればするほど、そのわずかな揺らぎが自分の中で大きく響く。
麻美の黒曜石のような瞳が、じっと私を捉える。まるで小さな違和感も逃さないとでも言うように。ゆっくりと首を傾げる仕草は一見無邪気に見えるけれど、その奥には探るような鋭さが滲んでいた。彼女はこうして、相手のほんの小さな変化を拾い上げ、言葉の裏にあるものを暴くのが得意だった。
「でも、仕事じゃあんまり関わりないはずだよ。その割に、急に距離が縮まって怪しいって話! 佐倉もそう思わない?」
さらりとした口調なのに、その言葉は妙に鋭く心に突き刺さる。胸の奥に、波紋が広がるような感覚。動揺を悟られたくなくて視線を逸らしたけれど、それすらも何かを悟られそうで、そわそわと落ち着かなくなる。
核心を突かれた気がした。まるで、鋭利な針が心の奥深くに静かに突き立てられるような、嫌な痛みを覚える。彼女の視線が私の内側を暴こうとしているように感じて、ぎゅっと拳を握る。
(……そんなこと、私に聞かれても困る)
言いかけて、すんでのところで飲み込んだ。喉の奥に引っかかった言葉は熱を帯び、無理に押し殺そうとするほどに、内側で燻っていく。もし口にしてしまえば、思ってもいない感情が言葉に滲んでしまいそうな気がして、怖かった。
何も気にする必要なんてないはずだった。いつもなら、こんな話、適当に流して終われたはずなのに。曖昧な笑顔と、どうとでも取れる相槌で、簡単にやり過ごせるはずだったのに。なのに今、喉の奥に絡まるこの違和感は何なのだろう。胸の奥でざわつく、この得体の知れない感情は――。
(……なんで、私、こんなに気にしてるんだろう?)
自分で自分がわからない。その曖昧な疑問が、静かに心の奥でくすぶり続ける。まるで、答えを見つけるまで逃がさないと言わんばかりに。
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