22 / 35

第22話 総務の美人

しおりを挟む
 社内の噂は少しずつ落ち着いてきたものの、完全に消え去ったわけではなかった。特に課長の「結婚相手」が誰なのかについては、まだ興味を持っている人もいるようだ。廊下を歩いていると、こんな話が耳に入ってくる。

「結局、課長の相手って誰なんだろう?」

「本人に直接聞けるわけないしな」

 何気ない会話のようでいて、その言葉は妙に現実味を帯びていた。まるで霧がかった空に浮かぶ輪郭の定まらない影のように、人々の憶測は消えそうで消えず、静かに広がり続けている。そのざわめきは、まるで水面に投げ込まれた小石の波紋のように、細く遠くまで広がっていく。

 私は心の中で(このまま沈静化してくれるといいけど…)と願う。余計な詮索をされずにやり過ごせれば、それが一番だ。むやみに話題にされればされるほど、不要な憶測が膨らみ、無関係な人まで巻き込まれる。そうなれば、課長にとっても私にとっても、決して良いことではない。

 それでも、人の興味というものは、一度火がついてしまうと、そう簡単には消えてくれないものらしい。まるで風に煽られた焚き火のように、細かな火の粉が飛び散り、思いもよらないところでくすぶり続ける。沈静化するどころか、誰かが意図せず火種を落とし、新たな憶測を生んでしまうこともある。社内という限られた空間の中では、一つの噂が独り歩きを始めれば、それを完全に消し去るのはほとんど不可能だ。

 そんな考えが頭をよぎった矢先だった。

 ――昼休み。

 デスクで書類を整理していると、不意に背後から弾んだ声が響いた。

「ねえねえ、聞いた? 課長が昨日、他部署の女性社員と話してたらしいよ!」

 明るく響く声に、指先がわずかにこわばる。興奮を隠しきれない調子で駆け寄ってきたのは、同期の麻美だった。彼女の足音は軽やかで、まるで面白い噂話を運ぶことに使命感でも抱いているかのようだ。私は思わず手を止め、静かに息を吐く。だが、その一瞬の間すら、彼女の勢いは緩まなかった。

「え?」

 思わず漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。驚きというよりも、言葉を発すること自体に戸惑いがあったのかもしれない。でも、そんなささやかな反応を麻美が聞き逃すはずもなかった。彼女はすぐさま身を乗り出し、さらに声を弾ませる。

「うちのフロアじゃなくて、総務の方にいる美人の人らしいんだけど……結構親しげだったって噂!」

 総務の美人──。

 その単語が、じわじわと頭の奥に染み込んでいく。まるで冷たい水が静かに広がるように、心の奥深くにまで浸透していく感覚。意識しないようにしていたのに、無意識のうちに誰かの顔が浮かびかけて、慌てて思考を振り払う。ペンを握る指に余計な力が入りすぎて、カリッと微かな音が鳴った。紙の端がわずかに歪み、その事実がますます焦燥感を募らせる。

 意識しすぎだ。ただの仕事の話かもしれない。偶然すれ違っただけかもしれない。でも、もし──。

(まさか…昨日の"別の誰かと関わっているように見せる"って話、まだ考えてたの…?)

 喉の奥が重くなる。まるで見えない手がそこを締めつけるように、息の通りが悪くなった。何かを言おうとしても、喉に絡みついた不安が言葉を押し戻してしまう。

 ──いや、違う。ただの考えすぎだ。私が気にする必要なんて、どこにもない。

「ただの仕事の話じゃないの?」

 努めて平静を装い、できるだけ軽い口調で返す。それなのに、口をついて出た自分の声は思った以上に固く、どこかぎこちない。微かに震えたようにも思えた。意識すればするほど、そのわずかな揺らぎが自分の中で大きく響く。

 麻美の黒曜石のような瞳が、じっと私を捉える。まるで小さな違和感も逃さないとでも言うように。ゆっくりと首を傾げる仕草は一見無邪気に見えるけれど、その奥には探るような鋭さが滲んでいた。彼女はこうして、相手のほんの小さな変化を拾い上げ、言葉の裏にあるものを暴くのが得意だった。

「でも、仕事じゃあんまり関わりないはずだよ。その割に、急に距離が縮まって怪しいって話! 佐倉もそう思わない?」

 さらりとした口調なのに、その言葉は妙に鋭く心に突き刺さる。胸の奥に、波紋が広がるような感覚。動揺を悟られたくなくて視線を逸らしたけれど、それすらも何かを悟られそうで、そわそわと落ち着かなくなる。

 核心を突かれた気がした。まるで、鋭利な針が心の奥深くに静かに突き立てられるような、嫌な痛みを覚える。彼女の視線が私の内側を暴こうとしているように感じて、ぎゅっと拳を握る。

(……そんなこと、私に聞かれても困る)

 言いかけて、すんでのところで飲み込んだ。喉の奥に引っかかった言葉は熱を帯び、無理に押し殺そうとするほどに、内側で燻っていく。もし口にしてしまえば、思ってもいない感情が言葉に滲んでしまいそうな気がして、怖かった。

 何も気にする必要なんてないはずだった。いつもなら、こんな話、適当に流して終われたはずなのに。曖昧な笑顔と、どうとでも取れる相槌で、簡単にやり過ごせるはずだったのに。なのに今、喉の奥に絡まるこの違和感は何なのだろう。胸の奥でざわつく、この得体の知れない感情は――。

(……なんで、私、こんなに気にしてるんだろう?)

 自分で自分がわからない。その曖昧な疑問が、静かに心の奥でくすぶり続ける。まるで、答えを見つけるまで逃がさないと言わんばかりに。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

冷徹社長の「契約」シンデレラ~一夜の過ちから始まる溺愛ルート!? 嘘つきな私と不器用な御曹司のオフィスラブ~

藤森瑠璃香
恋愛
派遣社員の桜井美月は、ある夜、会社の懇親会で泥酔し、翌朝目覚めると隣には「氷の彫刻」と恐れられる若き社長・一条蓮がいた。まさかの一夜の過ち(実際には何もなかったが、美月は勘違い)に青ざめる美月に、蓮は「責任は取る。だがこれは恋愛ではない、契約だ」と、彼の抱えるある事情のため、期間限定で恋人のフリをするよう持ちかける。破格の報酬と蓮の真剣な様子に、美月は契約を受け入れる。

半年間、俺の妻になれ〜幼馴染CEOのありえない求婚から始まる仮初の溺愛新婚生活〜 崖っぷち元社畜、会社が倒産したら玉の輿に乗りました!?

とろみ
恋愛
出勤したら会社が無くなっていた。 高瀬由衣(たかせゆい)二十七歳。金ナシ、職ナシ、彼氏ナシ。ついでに結婚願望も丸でナシ。 明日までに家賃を用意できなければ更に家も無くなってしまう。でも絶対田舎の実家には帰りたくない!! そんな崖っぷちの由衣に救いの手を差し伸べたのは、幼なじみで大企業CEOの宮坂直人(みやさかなおと)。 「なぁ、俺と結婚しないか?」 直人は縁談よけのため、由衣に仮初の花嫁役を打診する。その代わりその間の生活費は全て直人が持つという。 便利な仮初の妻が欲しい直人と、金は無いけど東京に居続けたい由衣。 利害の一致から始まった愛のない結婚生活のはずが、気付けばいつの間にか世話焼きで独占欲強めな幼なじみCEOに囲い込まれていて――。

妖狐の嫁入り

山田あとり
恋愛
「――おまえを祓うなどできない。あきらめて、俺と生きてくれ」 稲荷神社の娘・遥香(はるか)は、妖狐の血をひくために狐憑きとさげすまれ、ひっそり生きてきた。 ある日、村八分となっている遥香を探して来たのは怨霊や魔物を祓う軍人・彰良(あきら)。 彼は陰陽師の名門・芳川家の男だった。 帝国陸軍で共に任務にあたることになった二人だったが、実は彰良にもある秘密が――。 自己評価は低いが芯に強さを秘める女が、理解者を得て才能を開花させる!   & 苦しみを抱え屈折した男が、真っ直ぐな優しさに触れ愛を知る! 明治中期風の横浜と帝都を駆ける、あやかし異能ロマンス譚です。 可愛い妖怪・豆腐小僧も戦うよ! ※この作品は、カクヨム・小説家になろうにも掲載しています

腹黒外科医に唆された件~恋人(仮)のはずが迫られています~

有木珠乃
恋愛
両親を亡くし、二人だけの姉妹になった一ノ瀬栞と琴美。 ある日、栞は轢き逃げ事故に遭い、姉の琴美が務める病院に入院することになる。 そこで初めて知る、琴美の婚約者の存在。 彼らの逢引きを確保するために利用される栞と外科医の岡。 「二人で自由にならないか?」を囁かれて……。

運命には間に合いますか?

入海月子
恋愛
スペイン建築が大好きな設計士 大橋優那(おおはし ゆな) 28歳        × せっかちな空間デザイナー 守谷翔真(もりや しょうま) 33歳 優那はスペイン建築を学ぶという夢が実現するというときに、空間デザイナーの翔真と出会った。 せっかちな彼は出会って二日目で優那を口説いてくる。 翔真に惹かれながらも、スペインに行くことが決まっている優那はその気持ちに応えられないときっぱり告げた。 それでも、翔真はあきらめてくれない。 毎日のように熱く口説かれて、優那は――

花も実も

白井はやて
恋愛
町で道場を営む武家の三男朝陽には最近、会うと心が暖かくなり癒される女性がいる。 跡取り問題で自宅に滞在したくない彼は癒しの彼女に会いたくて、彼女が家族と営む団子屋へ彼は足しげく熱心に通っているのだが、男と接客している様子を見ると謎の苛立ちを抱えていた。

【完結】あなた専属になります―借金OLは副社長の「専属」にされた―

七転び八起き
恋愛
『借金を返済する為に働いていたラウンジに現れたのは、勤務先の副社長だった。 彼から出された取引、それは『専属』になる事だった。』 実家の借金返済のため、昼は会社員、夜はラウンジ嬢として働く優美。 ある夜、一人でグラスを傾ける謎めいた男性客に指名される。 口数は少ないけれど、なぜか心に残る人だった。 「また来る」 そう言い残して去った彼。 しかし翌日、会社に現れたのは、なんと店に来た彼で、勤務先の副社長の河内だった。 「俺専属の嬢になって欲しい」 ラウンジで働いている事を秘密にする代わりに出された取引。 突然の取引提案に戸惑う優美。 しかし借金に追われる現状では、断る選択肢はなかった。 恋愛経験ゼロの優美と、完璧に見えて不器用な副社長。 立場も境遇も違う二人が紡ぐラブストーリー。

【完結】俺様御曹司の隠された溺愛野望 〜花嫁は蜜愛から逃れられない〜

椿かもめ
恋愛
「こはる、俺の妻になれ」その日、大女優を母に持つ2世女優の花宮こはるは自分の所属していた劇団の解散に絶望していた。そんなこはるに救いの手を差し伸べたのは年上の幼馴染で大企業の御曹司、月ノ島玲二だった。けれど代わりに妻になることを強要してきて──。花嫁となったこはるに対し、俺様な玲二は独占欲を露わにし始める。 【幼馴染の俺様御曹司×大物女優を母に持つ2世女優】 ☆☆☆ベリーズカフェで日間4位いただきました☆☆☆ ※ベリーズカフェでも掲載中 ※推敲、校正前のものです。ご注意下さい

処理中です...