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第21話 このままで大丈夫です

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「……私は、このままで大丈夫です」

 そう答えた瞬間、九条課長の視線が静かに絡みつくように私を捉えた。まるで、言葉の裏に隠された本音を暴こうとするかのように。その瞳は深く澄んでいて、ほんのわずかに揺れた気がした――けれど、それも刹那のこと。次の瞬間には、何かを押し殺すように静けさを取り戻していた。

 室内の空気が微かに張り詰める。肌を刺すような沈黙が降りる中、時計の針が静かに時を刻む。その音は驚くほど小さいはずなのに、やけに耳に響いた。壁際に置かれた観葉植物の葉が、暖房のわずかな風を受けて揺れる。何の変哲もない光景のはずなのに、今はすべてが異様にくっきりと感じられた。

 私の言葉が落ちてから、まだ数秒しか経っていない。なのに、その間がどこまでも長く思える。息を潜めるようにして、私は九条課長の表情を窺った。だが、その端整な顔には何の感情も浮かばず、ただ無機質な静けさだけが張り付いている。

「そうか」

 短く発せられた言葉は、驚くほど淡々としていた。感情の揺らぎを微塵も感じさせない声音。まるで、そこに何もないかのような、完璧に整えられた声色。悟られまいとしているのか、それとも本当に何も感じていないのか。その冷静さが、かえって私の胸の奥にざわつきを残す。

 正直、迷っていた。

 課長の提案――「あえて俺が別の誰かと関わっているように見せる」という策。それは理にかなっていた。周囲の憶測も、私たちの間にある曖昧な空気も、すべてが自然と霧散する。何もなかったかのように、元通りになる。合理的で、何の問題もない選択肢。

 頭では理解していた。けれど、胸の奥に広がるこのざわめきは何なのだろう。

 静かに押し寄せる波紋のように、心の奥底に小さなさざなみが広がる。思考とは裏腹に、呼吸が浅くなった。喉がかすかに引きつり、飲み込んだ唾が妙に重く感じる。

 このまま言葉を飲み込めば、すべては静かに収束していくのだろう。でも、それで本当にいいのだろうか。

 迷いが形になりそうなその瞬間、私はふと口を開いていた。

「課長が無理に誰かと噂になろうとするのも……変じゃないですか?」

 我ながら驚くほど落ち着いた声だった。胸の奥では確かにざわめきが渦巻いていたはずなのに、その響きには妙に静けさがあった。まるで、心の乱れを覆い隠すために、意識とは別の何かが冷静さを装っているような感覚だった。指先がほんのわずかに震えているのを感じて、私はそっと拳を握りしめる。

 九条課長は、わずかに目を細めた。

 静寂が降りる。

 彼の視線がまっすぐこちらに注がれる。鋭い――けれどそれだけではない。探るようでいて、どこか穏やかでもある。その眼差しの奥に潜む意図を読み取ろうとしたが、容易に測れるものではなかった。言葉ではなく、もっと深い部分――感情そのものを拾い上げようとしているような、そんな静かな圧を感じる。

 息をするのも忘れそうなほどの沈黙が、たった数秒とは思えないほど長く感じられる。

 そして、九条課長の唇がわずかに動いた。

「それもそうだな」

 低く、含みのある声音だった。ただの同意とは違う。かといって否定でもない。まるで、こちらの言葉の裏にあるものを確かめるように、慎重に選ばれた響きだった。柔らかく、それでいて鋭い。まるで静かな水面に小さな波紋が広がるように、その言葉は私の胸の奥へと染み込んでいく。

 九条課長の口元が、ほんのわずかに、しかし確かに弧を描いた。

 その一瞬の変化を見逃すまいと、私は無意識に息を詰めていたことに気づく。そっと息を吐くと、肩にのしかかっていた重みが、少しだけ軽くなったような気がした。

(よかった……これでこのまま、何も変わらずに済む……)

 そう思った瞬間、胸が締めつけられた。安堵したはずなのに、息が詰まる。喉の奥に絡みついた違和感がじわりと広がり、呼吸のリズムを狂わせる。胸の奥で、何かが軋むような感覚――まるで歯車が微妙に噛み合っていない機械のように。何かが間違っている。でも、それが何なのかは分からない。

 私は何を期待していたのだろう。変わらないことに安堵していたはずなのに、それなのに。胸の奥に、小さな棘が刺さったような痛みが残る。ほんのかすかな違和感なのに、指で探れば探るほど奥へ沈んでいき、簡単には抜けそうにない。

 この感情の正体は――。

 考えれば考えるほど霧のように掴めなくなる。指先をすり抜け、形を変え、まるで意識すればするほど遠のく幻のように。けれど、確かにある。名付けることもできない感情が、じわりと私の内側を侵食していく。言葉にならないもどかしさが、心のどこかをじくじくと焼く。

 私は会議室の扉を押し開くと、廊下に足を踏み出した。驚くほど静かだった。まるで、世界が少しだけ遠のいてしまったかのように。
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