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第20話 噂を逸らす方法
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会議室に足を踏み入れると、九条課長が静かにドアを閉めた。重厚な木製のドアがゆっくりと音を立てる。そのわずかな音すら、この密やかに閉ざされた空間では際立って聞こえた。室内には、ひんやりとした緊張感が満ちていく。 書類の整然と並ぶテーブル、ブラインド越しに差し込む薄明かり、微かに残るコーヒーの香り――すべてが整然としているのに、なぜか空気には張り詰めたものがあった。壁掛け時計の針が淡々と時を刻む音だけが、かすかに響いている。静寂の中、その音がやけに遠く、そして重く感じられた。
課長は私に向き直る。その動作は無駄がなく、ゆっくりとしているのに迷いがない。微塵の揺らぎもない動きに、彼の確固たる意志が滲む。その端整な顔立ちは、いつも通り冷静だった。表情に感情の色は一切浮かんでいない。それなのに、まっすぐに向けられた視線には、ただの事務的なものとは違う、何かを測るような鋭さがあった。目の奥で何かを探るような、冷静に、しかし確実にこちらの内側を見透かそうとする眼差し――その圧に、思わず背筋が伸びる。
「……噂の件、聞いているな?」
落ち着いた低い声が、静寂を切り裂いた。まるで刃のように鋭く、けれど無駄な感情の波を含まない、研ぎ澄まされた声音。
予想通りの話題だった。喉がひりつくような感覚を覚えながら、私は息を詰める。ほんの一瞬だけ視線を彷徨わせたのは、言葉を選ぶためか、それとも自分の動揺を悟られたくなかったからか。どちらにせよ、気まずさを完全に隠しきることはできなかった。
「はい、まあ…」
かろうじて絞り出した言葉は、思った以上に頼りなかった。声の端がかすかに震え、自分でも情けなくなるほど自信がなかった。喉の奥が妙に乾いているのを感じながら、私は視線を伏せた。
九条課長は、そんな私の反応に微かな間を置いた。まるで私の心の揺らぎを計るように。その沈黙は、ほんの一瞬だったはずなのに、やけに長く感じられた。わずかに息を飲む気配があったが、それもすぐにかき消される。彼の表情に変化はない。いつもの冷静さを崩すことなく、淡々とした声で言葉を継いだ。
「このまま放置すれば、お前に余計な負担がかかるかもしれない」
低く抑えられた声が、静かに現実を突きつけてくる。その響きが、思いのほか鋭く胸に突き刺さった。言葉の意味を理解するよりも先に、喉がひくりと動く。
「そ、それは…」
何か返さなければと思うのに、適切な言葉が見つからない。考えがまとまらないまま、声だけが頼りなく漏れる。
しかし、九条課長はそんな私の迷いを気にも留めない様子だった。机の上に組んだ指を崩さず、淡々と続ける。
「一つ、手を打とうと思う」
「手を打つ…?」
反射的に問い返しながら、九条課長の表情を探る。しかし、その端正な顔には一切の揺らぎがない。感情を隠しているのではない。むしろ、すでに答えは決まっているとでも言うように、冷静なまなざしをこちらに向けていた。
「噂を逸らす方法を考えた」
静かに、しかし確信を持った口調だった。その声音には迷いがない。まるで、これが最善の策だと確信しているかのように。
「例えば、あえて俺が別の誰かと関わっているように見せる、とか」
「えっ…?」
瞬間、息が詰まった。思わず声が漏れる。そんな手段があるとは考えてもみなかった。いや、それ以前に、そんなことをさらりと口にする九条課長に、驚きと戸惑いが入り混じる。まるで、長年信じていた常識が音を立てて崩れるような感覚だった。胸の奥がざわつく。
だが、九条課長は動揺する素振りも見せず、淡々と話を続けた。
「お前の負担を減らすためだ。実家にバレると面倒だが、そこまで大事にはなるまい。応急処置としては悪くない手のはずだ」
静かで理路整然とした声。まるで、事務的な業務の報告でもしているかのように。
実家――。その単語が突き刺さるように胸の奥で反響する。目の前の光景が少し揺らいだ気がした。
彼の言うことは理にかなっている。冷静に考えれば、最も穏便で現実的な解決策なのかもしれない。人の噂も七十五日。会社での噂など、そのうち風化する。噂が消えた後、親類縁者のみで結婚式を挙げればいい。いや、その必要すらないか。ただ籍を入れるだけで十分だ。両家ともうるさく言ってきそうだが、「結婚」という体裁さえ整えば、彼らの最低限の要望は満たせる。
理屈では理解できる。納得すべき話のはずだ。それなのに、喉の奥が詰まるような感覚が拭えない。
私と課長は、上司と部下の関係。それ以上でも、それ以下でもない。
その事実が心の中で形になった瞬間、胸の奥に小さな痛みが生じた。まるで、見えない棘が刺さったような、鈍い痛み。理由は分からない。いや、分かりたくないのかもしれない。
九条課長はそんな私の内心を見透かしているのか、静かに言葉を続けた。
「お前の意見も聞いておく。どうしたい?」
低く落ち着いた声。その響きは穏やかでありながら、どこか探るような色を帯びていた。ただの提案ではない。彼は本気で私の答えを待っている。
私はどうしたいのか――。
考えを巡らせるたびに、自分の気持ちが揺れ動いていることに気づく。心の奥で絡み合った感情の糸が、簡単には解けそうにないことも。
課長は私に向き直る。その動作は無駄がなく、ゆっくりとしているのに迷いがない。微塵の揺らぎもない動きに、彼の確固たる意志が滲む。その端整な顔立ちは、いつも通り冷静だった。表情に感情の色は一切浮かんでいない。それなのに、まっすぐに向けられた視線には、ただの事務的なものとは違う、何かを測るような鋭さがあった。目の奥で何かを探るような、冷静に、しかし確実にこちらの内側を見透かそうとする眼差し――その圧に、思わず背筋が伸びる。
「……噂の件、聞いているな?」
落ち着いた低い声が、静寂を切り裂いた。まるで刃のように鋭く、けれど無駄な感情の波を含まない、研ぎ澄まされた声音。
予想通りの話題だった。喉がひりつくような感覚を覚えながら、私は息を詰める。ほんの一瞬だけ視線を彷徨わせたのは、言葉を選ぶためか、それとも自分の動揺を悟られたくなかったからか。どちらにせよ、気まずさを完全に隠しきることはできなかった。
「はい、まあ…」
かろうじて絞り出した言葉は、思った以上に頼りなかった。声の端がかすかに震え、自分でも情けなくなるほど自信がなかった。喉の奥が妙に乾いているのを感じながら、私は視線を伏せた。
九条課長は、そんな私の反応に微かな間を置いた。まるで私の心の揺らぎを計るように。その沈黙は、ほんの一瞬だったはずなのに、やけに長く感じられた。わずかに息を飲む気配があったが、それもすぐにかき消される。彼の表情に変化はない。いつもの冷静さを崩すことなく、淡々とした声で言葉を継いだ。
「このまま放置すれば、お前に余計な負担がかかるかもしれない」
低く抑えられた声が、静かに現実を突きつけてくる。その響きが、思いのほか鋭く胸に突き刺さった。言葉の意味を理解するよりも先に、喉がひくりと動く。
「そ、それは…」
何か返さなければと思うのに、適切な言葉が見つからない。考えがまとまらないまま、声だけが頼りなく漏れる。
しかし、九条課長はそんな私の迷いを気にも留めない様子だった。机の上に組んだ指を崩さず、淡々と続ける。
「一つ、手を打とうと思う」
「手を打つ…?」
反射的に問い返しながら、九条課長の表情を探る。しかし、その端正な顔には一切の揺らぎがない。感情を隠しているのではない。むしろ、すでに答えは決まっているとでも言うように、冷静なまなざしをこちらに向けていた。
「噂を逸らす方法を考えた」
静かに、しかし確信を持った口調だった。その声音には迷いがない。まるで、これが最善の策だと確信しているかのように。
「例えば、あえて俺が別の誰かと関わっているように見せる、とか」
「えっ…?」
瞬間、息が詰まった。思わず声が漏れる。そんな手段があるとは考えてもみなかった。いや、それ以前に、そんなことをさらりと口にする九条課長に、驚きと戸惑いが入り混じる。まるで、長年信じていた常識が音を立てて崩れるような感覚だった。胸の奥がざわつく。
だが、九条課長は動揺する素振りも見せず、淡々と話を続けた。
「お前の負担を減らすためだ。実家にバレると面倒だが、そこまで大事にはなるまい。応急処置としては悪くない手のはずだ」
静かで理路整然とした声。まるで、事務的な業務の報告でもしているかのように。
実家――。その単語が突き刺さるように胸の奥で反響する。目の前の光景が少し揺らいだ気がした。
彼の言うことは理にかなっている。冷静に考えれば、最も穏便で現実的な解決策なのかもしれない。人の噂も七十五日。会社での噂など、そのうち風化する。噂が消えた後、親類縁者のみで結婚式を挙げればいい。いや、その必要すらないか。ただ籍を入れるだけで十分だ。両家ともうるさく言ってきそうだが、「結婚」という体裁さえ整えば、彼らの最低限の要望は満たせる。
理屈では理解できる。納得すべき話のはずだ。それなのに、喉の奥が詰まるような感覚が拭えない。
私と課長は、上司と部下の関係。それ以上でも、それ以下でもない。
その事実が心の中で形になった瞬間、胸の奥に小さな痛みが生じた。まるで、見えない棘が刺さったような、鈍い痛み。理由は分からない。いや、分かりたくないのかもしれない。
九条課長はそんな私の内心を見透かしているのか、静かに言葉を続けた。
「お前の意見も聞いておく。どうしたい?」
低く落ち着いた声。その響きは穏やかでありながら、どこか探るような色を帯びていた。ただの提案ではない。彼は本気で私の答えを待っている。
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