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第33話 異動先

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 異動の日が近づくにつれ、胸の奥に絡みつく感情が強くなっていく。寂しいような、落ち着かないような――自分でも整理しきれないまま、私はデスクを片付ける九条課長を見つめた。

 静かに積み上げられていく書類の束。ペン立ての中身を一つずつ確認し、不要なものを取り除く手際の良さ。まるで長年染みついた動作のように、無駄のない動きが続いていく。その姿に、私は違和感を覚えた。

 こんなにも静かに、淡々と去っていくものなのだろうか。

 彼がこの部署を去ると知った日から、心の中ではずっとざわざわとした感情が渦巻いていた。寂しさなのか、喪失感なのか、それとも単なる変化への戸惑いなのか、自分でもはっきりしない。ただ、確かに何かが心に引っかかっていた。

 けれど、課長はそんな素振りを微塵も見せない。

 デスクの上に広げた書類を整理する横顔は、いつもと変わらず落ち着いていた。書類の角を揃える指の動きも、無駄がなく、淡々としている。その整然とした仕草の一つひとつが、私のざわつく気持ちとは対照的で、余計に胸の奥がざらついた。まるで、私だけがこの変化に取り残されているみたいで、ひどく居心地が悪い。

 ――俺も、本当は異動したくない。

 送別会の夜、課長はそう言った。あの瞬間、その言葉が心に灯をともした気がした。でも、あれは本心だったのだろうか? あの場の雰囲気に流されて、私を安心させるために言っただけ? 私が柄にもなく「課長がいなくなるの、嫌です」なんて口にしたから、気を遣われた?

 考えれば考えるほど、自分の気持ちの行き場がわからなくなる。飲み込んだ言葉が喉の奥で絡まり、苦いものを残していた。

 思わず唇を噛む。こんな気持ちのまま、この時間が過ぎてしまっていいのだろうか。

 デスクの向こうの課長は、相変わらず静かに書類をめくっている。冷静で、整然としていて、まるで何事もなかったかのように。

 そのことが、ひどく寂しかった。

 自分でも意識するより早く、声が漏れていた。

「そう言えば、課長の異動先ってどこなんですか?」

 自分でも驚くほど、喉が乾いた声だった。思ったよりもずっと、それを知りたがっていたのかもしれない。

 課長の手が、ぴたりと止まる。

 軽く視線を落としながら、彼は指先で書類の角をそろえた。その仕草は、まるで質問の答えを吟味しているかのようにゆっくりとしていた。やがて、ふっと口元を緩め、何かおかしそうに目を細める。

「一つ上のフロアの営業戦略課だ」

「……えっ?」

 予想外すぎる答えに、思わず声が裏返った。

 理解が追いつかない。頭の中で「一つ上のフロア」という言葉が反響する。

「……転勤するんじゃないんですか?」

 ようやく絞り出した声は、ひどく頼りなく震えていた。

 課長はわずかに眉を上げたが、それも一瞬のことで、すぐにいつもの冷静な表情に戻る。手を止めることもなく、淡々と書類をまとめながら返す。

「誰がそんなことを言った?」

 その言葉に、私は思わず絶句する。

 本当に? 転勤じゃない? でも、確かにそんな話が出ていたはず――いや、勝手に思い込んでいただけ?

 心臓がどくん、と大きく跳ねる。思い返せば、課長が「転勤」とは一度も言っていなかった。ただ「異動」としか……。

(そうかもしれない……だとしたら、私はなんて間抜けなんだろう)

 羞恥がじわじわと込み上げる。顔が熱くなり、手のひらがじっとりと汗ばむのを感じた。

 言われてみれば当たり前だ。一口に”異動”といっても、いくつかのパターンがある。転勤を伴うこともあれば、同じオフィス内で部署の配置が変わるだけのこともある。

 課長はそんな私の動揺など意にも介さず、淡々と書類の整理を進めている。どこまでも落ち着いていて、少しも揺らがない。その余裕が、無性に悔しかった。

「……だって、課長、ちゃんと言ってくれなくて……」

 自分でも驚くほど弱々しい声だった。喉の奥がひりつくようで、言葉を絞り出すだけで精一杯だった。指先にぎゅっと力を込める。気を抜けば、そのまま崩れてしまいそうだったから。

 向かいの課長は、無言で書類の束を閉じ、ふっと静かに息を吐いた。その仕草すら、妙に落ち着いていて、余裕があって、私の焦燥をさらに浮き彫りにする。

「お前が聞かなかっただけだ」

 カチリと音が鳴るような、冷静な言葉だった。

 言葉に詰まる。何も言い返せなかった。

(ずるい……!)

 ぐるぐると思考が渦を巻く。私が勝手に思い込んで、勝手に落ち込んで、それで勝手に苛立って――全部、自分の中で回っていただけだったのか。喉の奥に悔しさがつっかえて、うまく息が吸えない。

 けれど、それを誤魔化す言葉を探す間もなく、課長は書類を机に置いたまま、静かに続けた。

「そもそも転勤が伴う異動なら、例の契約も一から再検討が必要だろう。そんな話をしていないということは、つまりそういうことだ。冷静なお前らしくないな」

 あくまで淡々とした声音。でも、その落ち着きこそが、妙に胸に突き刺さった。

 そうだ。そうだった。私は、普段ならこんな単純な事実を見落としたりしないはずなのに。

 なのに――今回は違った。

 冷静でいられなかった。

 私はいつから、こんなふうにこの人の存在を気にするようになっていたんだろう。



 ――そして、異動当日がやってくる。

 課長の手が淡々とデスクの上を動き、最後の片付けが進んでいく。その動作は一切の迷いを感じさせず、まるで日々の業務の延長のようだった。書類を一枚ずつ揃え、端をきっちりとそろえながらファイルへと収めていく。その指先は正確で、そこに余計な力みや逡巡はなかった。

 感傷に浸る素振りなど微塵もない。まるで今日が特別な日ではないかのように、彼はいつもと変わらぬ冷静な手つきで最後の書類を整理し終える。そして、わずかに間を置いた後、引き出しを静かに閉じた。その音は控えめながらも、妙に部屋の空気を揺らしたような気がした。

 私は、そんな課長の背中をじっと見つめていた。何か言葉をかけるべきなのだろうか。けれど、何を言えばいいのか分からない。「お世話になりました」では他人行儀すぎる。「寂しくなります」では感情的すぎる。どんな言葉を紡いでも、彼には届かないのではないかという不安が胸を締めつける。

 それでも、何かを伝えなければ――そう思った。でなければ、あとになって後悔するような気がして。

 けれど、私が言葉を探している間に、課長は不意に顔を上げた。何の前触れもなく、まっすぐこちらを見る。そして、まるでいつもの挨拶のように、当たり前の調子で口を開いた。

「またすぐ会うだろう」

 それは、あまりにも自然で、軽やかで、深刻さのかけらもない言葉だった。

 ああ、そうか――そういうことなのか。

 彼にとって、この異動は「別れ」じゃない。ただの「移動」だ。ほんの数メートル上のフロアに行くだけで、それ以上でもそれ以下でもない。今日までと変わらず、また顔を合わせる日が来るのが当然のことなのだ。

 でも、私にとっては?

 この異動が何を意味するのか、自分の気持ちがどう動いているのか――その答えは、まだ見つからない。ただ、分かるのは、課長の背中がこれまでとは違って見えるということだけだった。

 その問いの答えが見つからないまま、私はただ、彼の背中を見送るしかなかった。
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