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第34話 お前を、誰にも渡すつもりはない

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 ある日の夜。

 オフィスの廊下を歩いていると、偶然にも九条課長とすれ違った。その瞬間、彼がふと足を止めた。まるで、その瞬間を待っていたかのように自然な動きだった。すれ違うはずだった私の歩みも、彼の視線に引き寄せられるように止まる。

「奇遇だな」

 低く落ち着いた声が静まり返った廊下に響く。その一言だけで、この静寂がただの偶然ではないように思えた。残業している者もちらほらいるが、多くの社員は退勤済み。蛍光灯の白い光が床に淡く反射し、足音すら吸い込んでしまいそうな静寂の中、私たちは二人きりだった。

「……九条課長。お元気そうですね」

 自分の声が妙に遠く感じる。九条課長の視線を受け止めながら、わずかに指先を握る力を強めた。

「ああ。……とはいえ、まるで変わった業務が厄介で、今日も残業だったがな。そっちはどうだ? お前も残業をしていたようだが」

 九条課長は淡々とした口調ながらも、その眼差しは探るような色を帯びていた。まるで、私の些細な変化を見逃さないと言わんばかりに。

「問題ありません。今日はたまたま立て込んだだけです。新しい課長も優秀な方ですし、滞りなく回ってますよ」

 努めて平静を装いながら答えたつもりだったが、自分の声がわずかに揺れた気がした。九条課長は短く「そうか」と呟いたが、その一言に含まれた微細な温度の違いが気になった。

 そんな感じで当たり障りのない会話を交わす。まるで、互いに境界線を確認するように。九条課長が異動してから、早いものでもう二週間以上が経過している。こうしてすれ違うのも、三度目だ。

「……俺とすれ違う度に挨拶するのは煩わしいか?」

 ふいに落とされた言葉に、心臓が跳ねた。静かな空間に溶け込む低い声。それは決して強い響きではなかったが、どこか探るような含みがあった。まるで私のほんの些細な仕草までをも見逃すまいとするかのような、鋭い視線が注がれている。私は無意識のうちに息を詰め、ほんのわずか肩を強張らせた。

 煩わしいか、と問われているのに、私の胸の内に広がったのは別の感情だった。それが何なのか、自分でもはっきりとは分からない。ただ、視線を外せばすべてを見透かされてしまうような気がして、私はその目を正面から受け止めた。

「……いえ、そんなことはありません。私は九条課長のことを尊敬していますから」

 自分でも驚くほど、声は平静を装っていた。しかし、言葉を口にした瞬間、九条課長の表情がわずかに揺らいだように見えた。目の奥に、何か一瞬の感情が過った気がする。けれど、それが何を意味するのかまでは分からない。ただ、胸の奥に小さな波紋が広がっていく。

 指先が自然と強ばるのを感じた。意識しないよう努めたが、隠せた自信はない。それでも、できる限り平静を保ちながら言葉を紡いだ。すると、九条課長はゆっくりと目を細めた。普段の厳格な表情からは想像もつかない、わずかに和らいだその表情に、一瞬、胸の奥がちりりと熱を帯びる。

「なら、例の契約は引き続き有効だな」

 穏やかに告げられた言葉は、ただの確認のはずだった。けれど、どうしてだろう。その一言が、妙に心に引っかかる。

「安心した」

「安心……ですか?」

 思わず問い返していた。彼の声の響きが、単なるビジネス上のものとは違って聞こえたから。契約が続くことに安心する――その意味を深く考えてしまう。私がこの関係を続けることが、彼にとって必要だということなのか。

「ああ。この件に関して、お前以上の適任者はいないからな」

 まっすぐに、確信を持って告げられたその言葉に、鼓動が速まる。お前以上の適任者――それは、この契約上のパートナーとしての意味なのか。それとも……。

「お前を、誰にも渡すつもりはない」

 一瞬、息が詰まる。廊下の静寂が、言葉の重みを際立たせるようだった。心臓が跳ね上がり、思わず息を呑む。まるでこの瞬間だけ世界が止まったように、周囲の空気が張り詰める。

「……っ!」

 何かを言わなければと思ったのに、喉が詰まり、声にならない。視線を逸らそうとしても、鋭くも揺るがない九条課長の眼差しが、それを許してくれなかった。その黒い瞳が私を逃さず捉え、動揺すらも見透かしているようで、余計に言葉が出てこなくなる。

 契約結婚――それが私たちの関係だ。最初はただの取り決めで、合理的な選択だったはず。お互いに損のない、理論的な関係。

 それなのに、いつからだろう。一緒にいる時間が増え、何気ないやり取りの端々に感情が滲み始めたのは。形式的な結びつきのはずが、次第にそれだけではなくなっていく。ふとした瞬間の仕草、かけられる言葉、そのどれもが他の誰とも違うものに思えてしまう。

 直属の上司部下ではなくなった今も、部署をまたいで仕事で関わる機会は多い。そのたびに、九条課長の「特別扱い」は続いていた。会議で意見を求められるとき、私だけ優先的に指名される。他の社員にはない気配りが、当たり前のように向けられる。

 周囲の目はごまかせない。

「やっぱり課長、佐倉に甘くない?」

 そんな噂話を耳にすることも増えた。軽い冗談めかした言葉が交わされる度に、以前の私なら即座に首を振っていただろう。けれど今は、その言葉を真正面から否定することができない。

(だって……私も、それを心地よく感じてしまっているから)

 最初は、意識しないよう努めていた。九条課長の態度が他の社員とは違うのは、私が特別だからではなく、単なる業務上の必要にすぎないのだと。そう自分に言い聞かせるたび、胸の奥に沈む違和感に蓋をする。

 けれど――。

 いつからだろう。その「特別」が、私にとって当たり前になってしまったのは。彼の視線を感じるだけで、不思議と体温が上がる。ほんの僅かな仕草の違いに、気づいてしまう。他の誰に向けられることのない、優しさと微かな躊躇い。

 それが、決して契約だけのものではないことを、もう私は気づいてしまっている。

「これからもよろしくお願いします、九条課長」

 声に出してみると、それはただの仕事の挨拶以上の意味を帯びていた。自分でも驚くほど意識してしまい、いつもより少し明るく微笑む。彼がどう返すのか、確かめるように。

 これまでなら事務的に「わかった」と言われるだけのはずだった。けれど九条課長は、私の言葉を受けた瞬間、ふと静止したようにじっとこちらを見つめた。

 その視線は鋭さを含みながらも、どこか探るようで、優しささえ滲んでいた。私の言葉の裏側にあるものを見透かそうとするかのように、わずかに瞳が揺れる。

 やがて、ほんのわずかに、口元が緩んだ。

「……ああ」

 それだけだった。でも、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

 オフィスの窓の向こうで、夜が深まっていく。

 ゆっくりと、けれど確かに。

 今日が終わり、また新しい日が始まるように――。
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