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エピローグ ある日常の風景
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異動して数ヶ月が経った頃。
昼休みになり、私は社内食堂へ向かおうとしていた。
「今日もあの人と食堂? お熱いですなー」
隣のデスクの麻美が、肘をついたままこちらを覗き込む。唇の端を少しだけ持ち上げたその表情には、わかりやすいほどの好奇心がにじんでいた。まるで私の行動のすべてを掌の上で転がしているかのような目つきだ。
「業務連絡を兼ねて一緒に食べてるだけだから!」
努めて素っ気なく返したつもりだったが、言葉とは裏腹に、耳の奥がじんわりと熱を持つのを感じた。無意識のうちに手が頬へ向かいそうになり、慌ててテーブルの上に戻す。自分の反応がもどかしくて、思わず視線を逸らした。
「ふーん? まあ、そういうことにしといてあげる」
麻美はクスクスと笑いながら、意味深な視線を向けてくる。その声音には、絶対に信じていないという確信が滲んでいた。
「何よ、それ……!」
顔に熱が集まっていくのを振り払うように、私は勢いよく立ち上がる。椅子がわずかに軋み、いっそう足早に食堂へ向かった。背中に麻美の視線が刺さるようで、できるだけ余計なことは考えまいと歩を速める。
食堂の扉を押し開けると、柔らかな春の日差しが窓から降り注いでいた。光が床の上に穏やかな影をつくり、昼時の喧騒がそこかしこで弾ける。食器が触れ合う軽やかな音、人々の楽しげな声。そんな雑多な空気の中でも、私は迷うことなく彼の姿を見つけることができた。
九条課長は、いつもの席に座り、手元の書類に軽く目を落としている。背筋は伸び、肩の力は抜けているのに、どこか凛とした佇まい。その横顔は端正で、けれど冷たさをはらんでいて、まるで近づくことを許さない結界でも張られているかのようだった。
けれど、私が数歩近づくと、彼は書類を静かに閉じ、ゆるやかに顔を上げる。
「遅いぞ」
それだけの一言なのに、低く落ち着いた声が心の奥にしっとりと響いた。まるで湖面に落ちた小石が波紋を広げるように、言葉の余韻がじわりと染みていく。
「……課長が早すぎるんです」
口をついて出た言葉は、まるで拗ねた子供のようだった。しまった、と思ったが、課長は特に気にした様子もなく、すっと私のトレーへ視線を落とす。
そして、じっと見つめたまま、微かに眉を寄せた。
「また野菜が少ないな」
「家ではちゃんと食べてます!」
思わず反論するが、その声にはまるで自信がなかった。自分でもわかっている。野菜は、どうしても後回しにしてしまうし、気づけば炭水化物とタンパク質ばかりを優先してしまう。そんな私の迷いを見透かすように、課長の視線が鋭くなる。どうせ口先だけだろう、そう言わんばかりの眼差しだ。
「ならいいが」
短く告げると、彼は何の迷いもなく、自分の小鉢のサラダをひょいと私のトレーに乗せる。その動作があまりにも自然で、私は思わず目を見開いた。
「課長、これ……」
驚いて声を上げると、彼は特に表情を変えることなく、淡々と告げる。
「いいから食え」
有無を言わせぬ口調。拒む隙さえ与えられない。その言葉に、私は思わず視線を落とした。トレーの上に増えた小鉢のサラダが、妙に重たく感じる。
「……そんなことされたら、特別扱いされてるみたいで……」
つい小さく呟く。ほんの独り言のつもりだったのに、課長はその言葉をしっかりと拾い上げた。そして、ほんの少しだけ、口元を緩ませる。
「……特別扱いだが?」
「……っ!」
息を呑む。心臓が一瞬、大きく跳ねた。
冗談なのか、本気なのか――彼の低く落ち着いた声は、どこか楽しげで、余裕すら滲ませている。その態度にどう反応すればいいかわからず、私は慌てて視線を逸らし、俯いた。そんな私の様子を見て、課長はどこか満足げな表情を浮かべる。まるで、私の反応を楽しんでいるかのように。
周囲の視線が気になり、思わず小さく咳払いをして誤魔化す。
――課長はわかっているのだろうか?
業務連絡を兼ねて一緒に食べているだけ。そう周囲には説明しているのに、こんなやり取りを見られたら――まるで昼休みにイチャイチャする社内カップルみたいじゃない!
そんなことを考えながらも、私はサラダにそっと手を伸ばす。課長が見ている手前、残すわけにもいかないし、何より、このまま黙っているのも気まずい。
しかし、どうにも落ち着かない。私の様子を知ってか知らずか、課長は淡々と食事を進めていた。
ふと、その静寂を破るように、低い声が落ちる。
「そろそろ、例の契約を次の段階に進める頃合いだな」
思わず、手にしていた箸が止まる。指先に力が入らず、ほんのわずかに揺れた。
「次の……段階って……?」
不安と期待が入り混じった声が、無意識のうちに漏れる。喉が少しひりつくような感覚がした。彼の実家にはすでに挨拶を済ませている。私の実家にも、顔を出してもらった。なら、次にやることと言えば……。
頭の中で順序立てるように考える。確かに、挨拶だけ済ませて、いつまでもこのままというわけにはいかない。それはわかっている。けれど、いざ「次の段階」と言われると、どうしようもなく胸の奥がざわめいた。
私は混乱気味に思考を巡らせる。箸を持つ手が少しだけ震えた気がした。しかし、目の前の彼――課長は、特に説明することもなく、表情すら変えない。ただ淡々と食事を続けている。その無言の態度が、余計に私の落ち着きを奪った。
「……しっかり食べろ」
ふと、低く落ち着いた声が響く。その声音には、優しさとも取れる響きがあった。
「……もう!」
思わず抗議の声を上げるものの、それ以上は何も言えなかった。ここでは詳しく話せない、ということなのだろう。どうせ夜の食事会で説明されるに違いない。問い詰めたい気持ちは山ほどあるけれど、今は我慢するしかない。とはいえ、気持ちは静まるどころか、むしろ余計にかき乱されていく。
スープの湯気がゆらりと揺れ、春の陽射しが窓から差し込む食堂。何も変わらないように見える日常の中で、私たちの関係だけが、静かに、けれど確実に前へ進み続けていた――。
昼休みになり、私は社内食堂へ向かおうとしていた。
「今日もあの人と食堂? お熱いですなー」
隣のデスクの麻美が、肘をついたままこちらを覗き込む。唇の端を少しだけ持ち上げたその表情には、わかりやすいほどの好奇心がにじんでいた。まるで私の行動のすべてを掌の上で転がしているかのような目つきだ。
「業務連絡を兼ねて一緒に食べてるだけだから!」
努めて素っ気なく返したつもりだったが、言葉とは裏腹に、耳の奥がじんわりと熱を持つのを感じた。無意識のうちに手が頬へ向かいそうになり、慌ててテーブルの上に戻す。自分の反応がもどかしくて、思わず視線を逸らした。
「ふーん? まあ、そういうことにしといてあげる」
麻美はクスクスと笑いながら、意味深な視線を向けてくる。その声音には、絶対に信じていないという確信が滲んでいた。
「何よ、それ……!」
顔に熱が集まっていくのを振り払うように、私は勢いよく立ち上がる。椅子がわずかに軋み、いっそう足早に食堂へ向かった。背中に麻美の視線が刺さるようで、できるだけ余計なことは考えまいと歩を速める。
食堂の扉を押し開けると、柔らかな春の日差しが窓から降り注いでいた。光が床の上に穏やかな影をつくり、昼時の喧騒がそこかしこで弾ける。食器が触れ合う軽やかな音、人々の楽しげな声。そんな雑多な空気の中でも、私は迷うことなく彼の姿を見つけることができた。
九条課長は、いつもの席に座り、手元の書類に軽く目を落としている。背筋は伸び、肩の力は抜けているのに、どこか凛とした佇まい。その横顔は端正で、けれど冷たさをはらんでいて、まるで近づくことを許さない結界でも張られているかのようだった。
けれど、私が数歩近づくと、彼は書類を静かに閉じ、ゆるやかに顔を上げる。
「遅いぞ」
それだけの一言なのに、低く落ち着いた声が心の奥にしっとりと響いた。まるで湖面に落ちた小石が波紋を広げるように、言葉の余韻がじわりと染みていく。
「……課長が早すぎるんです」
口をついて出た言葉は、まるで拗ねた子供のようだった。しまった、と思ったが、課長は特に気にした様子もなく、すっと私のトレーへ視線を落とす。
そして、じっと見つめたまま、微かに眉を寄せた。
「また野菜が少ないな」
「家ではちゃんと食べてます!」
思わず反論するが、その声にはまるで自信がなかった。自分でもわかっている。野菜は、どうしても後回しにしてしまうし、気づけば炭水化物とタンパク質ばかりを優先してしまう。そんな私の迷いを見透かすように、課長の視線が鋭くなる。どうせ口先だけだろう、そう言わんばかりの眼差しだ。
「ならいいが」
短く告げると、彼は何の迷いもなく、自分の小鉢のサラダをひょいと私のトレーに乗せる。その動作があまりにも自然で、私は思わず目を見開いた。
「課長、これ……」
驚いて声を上げると、彼は特に表情を変えることなく、淡々と告げる。
「いいから食え」
有無を言わせぬ口調。拒む隙さえ与えられない。その言葉に、私は思わず視線を落とした。トレーの上に増えた小鉢のサラダが、妙に重たく感じる。
「……そんなことされたら、特別扱いされてるみたいで……」
つい小さく呟く。ほんの独り言のつもりだったのに、課長はその言葉をしっかりと拾い上げた。そして、ほんの少しだけ、口元を緩ませる。
「……特別扱いだが?」
「……っ!」
息を呑む。心臓が一瞬、大きく跳ねた。
冗談なのか、本気なのか――彼の低く落ち着いた声は、どこか楽しげで、余裕すら滲ませている。その態度にどう反応すればいいかわからず、私は慌てて視線を逸らし、俯いた。そんな私の様子を見て、課長はどこか満足げな表情を浮かべる。まるで、私の反応を楽しんでいるかのように。
周囲の視線が気になり、思わず小さく咳払いをして誤魔化す。
――課長はわかっているのだろうか?
業務連絡を兼ねて一緒に食べているだけ。そう周囲には説明しているのに、こんなやり取りを見られたら――まるで昼休みにイチャイチャする社内カップルみたいじゃない!
そんなことを考えながらも、私はサラダにそっと手を伸ばす。課長が見ている手前、残すわけにもいかないし、何より、このまま黙っているのも気まずい。
しかし、どうにも落ち着かない。私の様子を知ってか知らずか、課長は淡々と食事を進めていた。
ふと、その静寂を破るように、低い声が落ちる。
「そろそろ、例の契約を次の段階に進める頃合いだな」
思わず、手にしていた箸が止まる。指先に力が入らず、ほんのわずかに揺れた。
「次の……段階って……?」
不安と期待が入り混じった声が、無意識のうちに漏れる。喉が少しひりつくような感覚がした。彼の実家にはすでに挨拶を済ませている。私の実家にも、顔を出してもらった。なら、次にやることと言えば……。
頭の中で順序立てるように考える。確かに、挨拶だけ済ませて、いつまでもこのままというわけにはいかない。それはわかっている。けれど、いざ「次の段階」と言われると、どうしようもなく胸の奥がざわめいた。
私は混乱気味に思考を巡らせる。箸を持つ手が少しだけ震えた気がした。しかし、目の前の彼――課長は、特に説明することもなく、表情すら変えない。ただ淡々と食事を続けている。その無言の態度が、余計に私の落ち着きを奪った。
「……しっかり食べろ」
ふと、低く落ち着いた声が響く。その声音には、優しさとも取れる響きがあった。
「……もう!」
思わず抗議の声を上げるものの、それ以上は何も言えなかった。ここでは詳しく話せない、ということなのだろう。どうせ夜の食事会で説明されるに違いない。問い詰めたい気持ちは山ほどあるけれど、今は我慢するしかない。とはいえ、気持ちは静まるどころか、むしろ余計にかき乱されていく。
スープの湯気がゆらりと揺れ、春の陽射しが窓から差し込む食堂。何も変わらないように見える日常の中で、私たちの関係だけが、静かに、けれど確実に前へ進み続けていた――。
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