婚約破棄?望むところですわ!やっと、おやつが食べられますわ!

恋の箱庭

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「……というわけで、チューナ様。王宮としては、貴女の最近の行動が『民衆にどのような影響を与えているか』を正確に把握する必要があります」


数日後の午後、公爵邸を訪れた宰相ゼノス様は、至って真面目な顔でそう切り出しました。


「具体的には、城下の市場での実地調査……いわゆる市場調査を、私と共に行っていただきたい」


私は、手に持っていたバターたっぷりのクロワッサンを咀嚼しながら、小首をかしげました。


「実地調査、ですの? そんなの、ゼノス様の部下の方に行かせればよろしいのでは?」


「貴女が同行することに意味があるのです。……さあ、準備を。身分を隠すための平民の服も用意してあります」


私はアンナと顔を見合わせました。

アンナは「それはただのデートですわ」という顔をしていましたが、私の脳内変換は少し違いました。


(……市場! 城下の市場といえば、朝獲れの魚、新鮮な野菜、そして何より……食べ歩きグルメの聖地ではありませんか!)


「行きましょう、ゼノス様! 国家の安寧のため、このチューナ、胃袋を賭して調査に協力いたしますわ!」


「……相変わらず、食い付くポイントが分かりやすくて助かります」


こうして私は、動きやすい綿のワンピースに着替え、ゼノス様と共に活気あふれる市場へと繰り出したのです。


市場は、香ばしい醤油の匂いや、甘い果実の香りで満ちていました。

私は馬車を降りた瞬間から、鼻の穴をこれでもかと膨らませていました。


「……チューナ様。あくまで『調査』ですからね。あまり羽目を外さないように」


「分かっておりますわ、ゼノス様! あ、あそこの屋台! 『黄金の串焼き』って書いてありますわよ! あれが民衆に与える心理的影響を調査しなければ!」


私はゼノス様の袖を引っ張り、猛然と屋台へ突き進みました。


「おじ様! その黄金色の、脂が滴っている串を二本くださいまし!」


「あいよ! お嬢ちゃん、いい食べっぷりだねぇ!」


渡されたのは、秘伝のタレに漬け込まれた豚肉の串焼きでした。

私は大きな口を開けて、ガブリと食らいつきました。


「……っ!! んんん~っ!! ゼノス様、これ、犯罪的ですわ!」


「何が犯罪的なんですか。不穏な言い方をしないでください」


「このタレ! ハチミツとニンニク、それに隠し味にリンゴのすりおろしが入っていますわね!? 肉の弾力と、噛むたびに溢れる肉汁……。これ一串で、明日への活力が一二〇パーセント充填されますわ!」


私は感動のあまり、小刻みに震えながら叫びました。


「……ふむ。確かに、質の良い肉だ。……では、私も一口」


ゼノス様が、私の差し出した串を少しだけ齧りました。

その瞬間、彼の端正な眉がピクリと動きました。


「…………悪くない。……いや、確かにこれは、民衆がこれを目当てに働くのも理解できる」


「でしょう!? さあ、次はあそこの『爆発ポテト』ですわ!」


私たちは、次から次へと屋台を巡りました。

揚げたてのドーナツ、スパイスの効いたソーセージ、そして締めには、冷たい絞りたてのヤギミルク。


気がつけば、調査という名目の「ただの爆食いツアー」になっていました。


「……ふぅ。お腹が八分目くらいになりましたわ。幸せですわね、ゼノス様」


「八分目ですか。……貴女の胃袋は、一体どうなっているんだ」


ゼノス様は、呆れ半分、感心半分といった様子で、私の口元についた砂糖を指先で拭いました。


その時でした。


「きゃあああ! 泥棒よ! 私のカバンを返して!」


市場の喧騒を切り裂くような悲鳴が上がりました。

見れば、一人の男が老婆のカバンを奪って、私たちの横を猛スピードで駆け抜けていくではありませんか。


「……くっ、賊か。チューナ様、ここで待って――」


ゼノス様が動こうとした瞬間。

私の足が、勝手に動いていました。


「お待ちなさーーい!!」


「えっ、チューナ様!?」


私はドレスの裾をたくし上げ、全力で男を追走しました。

その速さは、日頃の過酷なマナー教育……ではなく、美味しいものを求めて走る習慣によって鍛えられた、驚異的な瞬発力でした。


「なんだよ、この女、速ぇええ!?」


「返しなさい! そのカバンの中には、今日の夕飯の食材が入っているかもしれないのですわよ! 食べ物の怨みは恐ろしいと知りなさい!」


私は、男が角を曲がろうとした隙を逃しませんでした。

手に持っていた(食べ歩き用の)硬いバゲットを、槍のように突き出したのです。


「食らえ! 特製・フランスパン・ストライク!」


ガツンッ! という鈍い音が響き、男の後頭部にバゲットが命中しました。

男はそのまま地面に崩れ落ち、駆けつけた市場の人々に取り押さえられました。


「……はぁ、はぁ。……無事でしたわね、おば様」


私は、落ちていたカバンを拾い上げ、老婆に手渡しました。


「ああ、ありがとう、お嬢ちゃん。……なんて勇敢なんだ」


市場の人々から拍手が沸き起こりました。

そこへ、遅れてやってきたゼノス様が、驚愕の表情で立ち尽くしていました。


「……チューナ様。今のは、一体……」


「ゼノス様! 見てください、バゲットが少し折れてしまいましたわ。悲しいですわね」


「……そこですか。……いや、貴女という人は」


ゼノス様は、思わずといった様子で吹き出しました。

そして、優しく私の頭を撫でたのです。


「……素晴らしい調査結果でしたよ、チューナ様。民衆への影響どころか、貴女は既にこの街のヒーローだ」


その夜。

ゼノスの手帳には、いつにも増して力強い筆致でこう記されていました。


『報告:チューナ・フォン・グラッセ。悪役令嬢の噂は完全に否定される。彼女は食を愛し、食を脅かす悪を許さない、高潔な魂の持ち主である。……そして、走る姿も非常に、その、……可愛らしい』


市場調査は大成功。

しかし、この一件が「元悪役令嬢による泥棒撃退事件」として、翌日の新聞を飾ることになるとは、この時の私はまだ知る由もなかったのでした。
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