獣人王と番の寵妃

沖田弥子

文字の大きさ
1 / 32

天と獣人

しおりを挟む
 凪いだ湖面に蒼穹の空が映り込んでいる。
 崖の下に広がる美しい湖畔はてんのお気に入りの場所だったが、今の昏く沈んだ心には、なにも響かない。
 母にオメガと罵られるのはいつものことだ。けれど慣れたはずの罵倒に動揺でもしてしまったのか、踊りの稽古で振りを間違えたことを師匠に叱られ、すべてを投げ出したい気持ちになってしまった。
 崖下を覗き込むように身を伸ばせば、鬱蒼とした樹木が広がっている。己の首許に触れて、オメガの証である頑丈な首輪が嵌められていることに絶望を再確認した。
 オメガとして生まれた天は、自らの将来が先のないものだと周りの大人たちの態度から薄々感じ取っていた。支配階級の最下層であるオメガは男でも子を孕み、成長して発情期が訪れれば性交することしか考えられなくなるので、男娼か愛妾にでもなるしか道はない。
 両親は天を舞手にして、金持ちの獣人に引き取ってもらえないかと画策しているのを知っている。アルファである獣人は支配階級の頂点に立つ権力者たちだからだ。
 凡庸な能力しか持たないベータの人間たちは、絶対的な権力と圧倒的な体躯を持つアルファの獣人を恐れ、その力に媚びている。天はベータのさらに下の、矮小なオメガだ。自分は生きている価値なんて無いのだと思えた。
 崖の縁にそろりと足先を伸ばし、身を躍らせる。
 一瞬の浮遊感。
 直後に衝撃があり、死の予感が過ぎる。
 けれど手に触れたのは、ふわりとした温かな感触だった。

「あれ……?」

 不思議に思って顔を上げれば、綺麗な琥珀色の双眸に見つめられていた。

「……天から子どもが降ってきたな」

 深みのある低い声音に、とくりと甘く鼓動が刻まれる。
 青褐色の毛並みに覆われた狼型の獣人は、抱き留めていた天の身体をそっと下ろした。
 偶然にも、崖下にいた彼が受け止めてくれたのだ。高所だと思っていた崖は思ったより地上に近かったらしい。

「あ……ありがとう。でも死に損なっちゃった……。あなたにお怪我はありませんか?」

 見上げるほど大きなそのひとは、獣の頭に巨躯という獣人の特徴をしている。
 獣人は様々な型に類別され、その頂点に立つのが狼型だ。王宮の大臣や近衛隊長などの重職はすべて狼型の獣人と聞き及んでいる。
 彼が被っている光沢を放つ絹の帽子からは、顔を覆う紗布が垂れている。貴人が素顔を隠すための装備だ。ちらりと見えた琥珀色の瞳は、薄紫の紗布が揺れて隠されてしまった。彼はきっと身分の高いアルファなのだろう。
 獣人は天の目線に合わせて、ついと身を屈める。宝石のような琥珀色の瞳は見えないけれど、彼の襟元を彩る繊細な刺繍が限りなく琥珀に近い金色をしていた。

「おまえは死にたいのか?」

 こくりと頷く。十歳の天は身体が華奢で背も低いので、獣人が跪いてもまだ彼のほうが遙かに大きい。

「僕は、いらない子なんです。オメガだから」
「そんなことはない。私にはおまえが必要だ。名は、なんという?」
「……天」

 獣人が息を呑む気配が伝わった。ほんの少し開いた口許から、獰猛な牙が覗いている。紗布越しのためか、怖くはなかった。

「なんと。天からの贈り物かと思った子の名が、天だとは。まさに運命だな」

 楽しげに喉奥で笑う姿に、ふと思い当たる。
 運命の番という言葉を聞いたことがある。
 運命により結ばれたふたりは決して離れることがないという言い伝えだ。心の隅で憧れる気持ちはあったけれど、両親に疎まれている天は自分の身にそんな運命が訪れるなんて思えなかった。
 このひとに会うまでは。

「じゃあ……あなたが、僕の運命の番ですか?」

 天の胸に不思議な感覚が過ぎる。それは温かな水が胸の裡を満たしていくような充足感。
 獣人は深く頷きを返した。

「そうだ、天。おまえは私の、運命の番だ」

 ああ、彼は、死にたいと願った僕を慰めようとしてくれるのだな。
 そうでもなければ、こんなに簡単に受け入れてくれるはずがない。産んでくれた母すら認めてくれないのに。
 愛情に飢えた天は諦めることを最良の選択に据えていたので、運命的な出会いを信じることができずに否定する。哀しげに目を伏せる天を、獣人はじっと見つめていた。
 湖面から強い風が吹きつける。天の漆黒の髪が煽られた。木々はざわめきを零している。
 獣人は長袍に包まれた自らの胸元を探る。小さな破壊音が響いた。なんの音だろうと首を捻ると、大きな掌に握りしめたものが天の眼前で開かれる。

「わあ……きれい」

 碧色をした宝石の欠片が、仄かな光を放っていた。まるで道標の灯りのようだ。

「これをやろう。この翡翠が、いつでも天を見守っている。困ったことがあれば、これを使って私を呼ぶのだ」
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

のほほんオメガは、同期アルファの執着に気付いていませんでした

こたま
BL
オメガの品川拓海(しながわ たくみ)は、現在祖母宅で祖母と飼い猫とのほほんと暮らしている社会人のオメガだ。雇用機会均等法以来門戸の開かれたオメガ枠で某企業に就職している。同期のアルファで営業の高輪響矢(たかなわ きょうや)とは彼の営業サポートとして共に働いている。同期社会人同士のオメガバース、ハッピーエンドです。両片想い、後両想い。攻の愛が重めです。

ノエルの結婚

仁茂田もに
BL
オメガのノエルは顔も知らないアルファと結婚することになった。 お相手のヴィンセントは旦那さまの部下で、階級は中尉。東方司令部に勤めているらしい。 生まれ育った帝都を離れ、ノエルはヴィンセントとふたり東部の街で新婚生活を送ることになる。 無表情だが穏やかで優しい帝国軍人(アルファ)×明るいがトラウマ持ちのオメガ 過去につらい経験をしたオメガのノエルが、ヴィンセントと結婚して幸せになる話です。 J.GARDEN58にて本編+書き下ろしで頒布する予定です。 詳しくは後日、活動報告またはXにてご告知します。

婚約者変更で傲慢アルファの妃になりました

雨宮里玖
BL
公爵令息のハルは突然の婚約者変更を告げられ戸惑う。親同士の約束で、ハルは第一王子のオルフェウスと婚約していた。だがオルフェウスの病気が芳しくないため王太子が第二王子のゼインに変更となり、それに伴ってハルの婚約者も変更になったのだ。 昔は一緒に仲良く遊んだはずなのに、無愛想で冷たいゼインはハルのことを嫌っている。穏やかで優しいオルフェウスから、冷酷なゼインに婚約者が変わると聞いてハルは涙する。それでも家のために役に立ちたい、王太子妃としてゼインを一途に愛し、尽くしたいと運命を受け入れる覚悟をする。 婚礼式のときからハルに冷たく傲慢な態度のゼイン。ハルは負けじと王太子妃としての役割を果たすべくゼインに迫る。初夜のとき「抱いてください」とゼインに色仕掛けをするが「お前を抱く気はない」とゼインに一蹴されてしまう——。

白い結婚だと思っていたら、(溺愛)夫にガブガブされて、番になっていたようです

まんまる
BL
フレア王国の第3王子シルティ(18歳.Ω)は、王宮騎士団の団長を務める、キーファ侯爵家現当主のアリウス(29歳.α)に、ずっと片想いをしている。 そんなシルティは、Ωの成人王族の務めとして、自分は隣国のαの王族に輿入れするのだろうと、人生を半ば諦めていた。 だが、ある日突然、父である国王から、アリウスとの婚姻を勧められる。 二つ返事でアリウスとの婚姻を受けたシルティだったが、何もできない自分の事を、アリウスは迷惑に思っていないだろうかと心配になる。 ─が、そんなシルティの心配をよそに、アリウスは天にも登る気持ち(無表情)で、いそいそと婚姻の準備を進めていた。 受けを好きすぎて、発情期にしか触れる事ができない攻めと、発情期の記憶が一切ない受けのお話です。 拗らせ両片想いの大人の恋(?) オメガバースの設定をお借りしています。ぼんやり設定です。 Rシーンは※つけます。 1話1,000~2,000字程度です。

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ✻改稿版を他サイトにて投稿公開中です。

【完結済】「理想の恋人 〜タイムリープしたので、全財産貢いだダメ猫と別れます

かすがみずほ@理想の結婚二巻発売中
BL
30歳の警察官、オメガの貴弘(たかひろ )は、猫獣人の不実な恋人・アルファの猫井司(ねこいつかさ)に裏切られたショックで家出をした矢先、埼玉山中の交通事故で事故死してしまう。 ところが、気付けば猫井と出会う前に時間が戻っていた。 今度の人生では猫井に振り回されるのをやめようと決心するが……。 本編「理想の結婚 俺、犬とお見合いします」のスピンオフです。 全く話が繋がっていないので、単体で問題なく読めます。 (本編のコミカライズにつきましては、日頃より有難うございます)

知らないだけで。

どんころ
BL
名家育ちのαとΩが政略結婚した話。 最初は切ない展開が続きますが、ハッピーエンドです。 10話程で完結の短編です。

昨日まで塩対応だった侯爵令息様が泣きながら求婚してくる

遠間千早
BL
憧れていたけど塩対応だった侯爵令息様が、ある日突然屋敷の玄関を破壊して押し入ってきた。 「愛してる。許してくれ」と言われて呆気にとられるものの、話を聞くと彼は最悪な未来から時を巻き戻ってきたと言う。 未来で受を失ってしまった侯爵令息様(アルファ)×ずっと塩対応されていたのに突然求婚されてぽかんとする貧乏子爵の令息(オメガ) 自分のメンタルを救済するために書いた、短い話です。 ムーンライトで突発的に出した話ですが、こちらまだだったので上げておきます。 少し長いので、分割して更新します。受け視点→攻め視点になります。

処理中です...