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後宮へ
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翡翠という名の宝石なのだ。きっと、彼の宝物なのだろう。
もらっても良いものか戸惑ったけれど、獣人は翡翠の欠片を天の小さな掌に預ける。ぎゅっと、掌ごと握り込まれた。誰かに手を握られるなんて初めてのことで、その熱さに鼓動が跳ねてしまう。
「ありがとう……。大切にします」
口許に笑みを刻んだ獣人の手が、漆黒の髪を撫でていく。すぐに離れていったその手を、名残惜しいと思ってしまった。
ふと目をむければ、木立の向こうに馬車が停まっている。扉に刻まれている紋章は、狼の横顔と月桂樹が刻印されていた。それは王宮に掲げられている旗と同じ意匠だ。
「いつか、共に暮らそう。それまで息災でな」
手を挙げて去って行く獣人を呆然として見送る。
「あ……あなたのお名前を……」
ようやく声を絞り出せたとき、馬車は走り出していた。
名前を聞きそびれてしまった。
僕を運命の番だと、認めてくれたひと。
この翡翠が見守ってくれるというのだから、僕はもう死ねないのだ。いつか、彼に再会するまで。
掌に残された翡翠の欠片を、天は固く握りしめた。
大陸の西と東が交わる肥沃な大地に建国されたカルドナ国は、獣人と人間が混在して暮らしを営んでいる。遠い昔は西の獣人の国と、東の人間の国に分かれていたという伝承があるが、交易と戦を繰り返すうちにふたつの種族は共存するようになった。
アルファの獣人に、ベータ以下の人間が支配されるという構図として。
神は男と女の他に、アルファ、ベータ、オメガという三種の性を造り出した。獣人はアルファとベータ。人間にはベータとオメガしかいない。優位性により、王族や官吏など高位の支配階級を獣人が占めている。国民の大多数であるベータは獣人と人間の双方が存在しているが、最下層のオメガは人間だけだ。
そして、男でも子を孕めるオメガだけが獣人のアルファを産める。それは神の残酷な采配だった。
古代は奴隷のオメガが獣人の国に売り払われ、子を産むための道具として奉仕させられていたという。けれど獣人王により、カルドナ国の奴隷制度は廃止された。後宮に召し上げられたオメガが王の妃となり、子を成すという婚姻制が代々受け継がれている。
王宮の長い回廊を歩きながら、天はそっと溜息を零した。
二十歳となった誕生日、ついに獣人王の後宮へ参内することになってしまった。
ただし妃として迎えられるわけではない。妃候補の舞手として宮仕えするので、小間使いと変わらない低い地位だ。カルドナ国の若き獣人王は未だに誰をも妃として娶らず、大変選り好みが激しいとの噂だった。天を含めたオメガたちは王のお眼鏡に叶うため、舞手の選抜試験を受けて後宮へやってきたのだ。
整然と並び歩く妃候補のオメガたちは、王宮の一室に足を運ぶ。
入室すると、官服を纏った獣人たちが待機していた。彼らは獣人王の傍に仕える高位の役人たちだ。中央に凜然と佇む猫型の獣人が頭に被っている小さな帽子には、黄色の羽根飾りが付いている。これが官位を表すらしい。
猫型の獣人は品定めをするように整列した天たちをぐるりと眺めると、厳かに告げた。
「わたくしの名は、ルカス。獣人王のお妃候補教育官であります。あなたがたは厳しい試験を経て、後宮に来られました。ですが、ここからが本番です。王のお目に止まるための努力を惜しまぬよう、日々研鑽なさい。そのために必要なのは……」
妃候補としての心構えが、ルカス教育官の口から滔々と語られる。天はそれを耳にしながら、物思いに耽った。
選抜試験に合格したとき、両親はとても喜んでくれた。
それは生涯の宮仕えを余儀なくされるということだが、両親にとっては幸いだったのかもしれない。オメガの天を、どうにかして家から出したいと願っていたから。
試験を受けて後宮へ来たのは、王の妃になりたいからじゃない。
あのひとに、会えるかもしれないと思ったから……。
天は胸元を握りしめる。そこには革紐に下げた翡翠の欠片があった。
幼い頃の天が身投げを試みたとき、助けてくれた獣人。
彼が見守ってくれていると思うと胸に希望が湧いて、辛いときも乗り越えられた。困ったことがあれば翡翠を使って呼べと彼は言っていたが、宝石の欠片に笛のような機能はないので離れたところにいるひとを呼び寄せることはできない。きっと翡翠を心の拠り所にして頑張れという、彼からの励ましだったのだろう。
もう一度、会いたい。
あのひとに会ったとき、運命の番を予感したが、思い違いなのだろうか。彼も同調してくれたけれど、それは天を慰めるためだったのか。去って行く馬車には王家の紋章が刻印されていたので、彼は王宮の官吏なのだろうと推測できた。
ここにくれば、再会できるかもしれない。
目を落としていた足許の絨毯に、ふと尖った靴先が入り込む。
はっとして顔を上げれば、双眸を細めたルカスが天を見下ろしていた。
「あなた、わたくしの話を聞いていましたか?」
もらっても良いものか戸惑ったけれど、獣人は翡翠の欠片を天の小さな掌に預ける。ぎゅっと、掌ごと握り込まれた。誰かに手を握られるなんて初めてのことで、その熱さに鼓動が跳ねてしまう。
「ありがとう……。大切にします」
口許に笑みを刻んだ獣人の手が、漆黒の髪を撫でていく。すぐに離れていったその手を、名残惜しいと思ってしまった。
ふと目をむければ、木立の向こうに馬車が停まっている。扉に刻まれている紋章は、狼の横顔と月桂樹が刻印されていた。それは王宮に掲げられている旗と同じ意匠だ。
「いつか、共に暮らそう。それまで息災でな」
手を挙げて去って行く獣人を呆然として見送る。
「あ……あなたのお名前を……」
ようやく声を絞り出せたとき、馬車は走り出していた。
名前を聞きそびれてしまった。
僕を運命の番だと、認めてくれたひと。
この翡翠が見守ってくれるというのだから、僕はもう死ねないのだ。いつか、彼に再会するまで。
掌に残された翡翠の欠片を、天は固く握りしめた。
大陸の西と東が交わる肥沃な大地に建国されたカルドナ国は、獣人と人間が混在して暮らしを営んでいる。遠い昔は西の獣人の国と、東の人間の国に分かれていたという伝承があるが、交易と戦を繰り返すうちにふたつの種族は共存するようになった。
アルファの獣人に、ベータ以下の人間が支配されるという構図として。
神は男と女の他に、アルファ、ベータ、オメガという三種の性を造り出した。獣人はアルファとベータ。人間にはベータとオメガしかいない。優位性により、王族や官吏など高位の支配階級を獣人が占めている。国民の大多数であるベータは獣人と人間の双方が存在しているが、最下層のオメガは人間だけだ。
そして、男でも子を孕めるオメガだけが獣人のアルファを産める。それは神の残酷な采配だった。
古代は奴隷のオメガが獣人の国に売り払われ、子を産むための道具として奉仕させられていたという。けれど獣人王により、カルドナ国の奴隷制度は廃止された。後宮に召し上げられたオメガが王の妃となり、子を成すという婚姻制が代々受け継がれている。
王宮の長い回廊を歩きながら、天はそっと溜息を零した。
二十歳となった誕生日、ついに獣人王の後宮へ参内することになってしまった。
ただし妃として迎えられるわけではない。妃候補の舞手として宮仕えするので、小間使いと変わらない低い地位だ。カルドナ国の若き獣人王は未だに誰をも妃として娶らず、大変選り好みが激しいとの噂だった。天を含めたオメガたちは王のお眼鏡に叶うため、舞手の選抜試験を受けて後宮へやってきたのだ。
整然と並び歩く妃候補のオメガたちは、王宮の一室に足を運ぶ。
入室すると、官服を纏った獣人たちが待機していた。彼らは獣人王の傍に仕える高位の役人たちだ。中央に凜然と佇む猫型の獣人が頭に被っている小さな帽子には、黄色の羽根飾りが付いている。これが官位を表すらしい。
猫型の獣人は品定めをするように整列した天たちをぐるりと眺めると、厳かに告げた。
「わたくしの名は、ルカス。獣人王のお妃候補教育官であります。あなたがたは厳しい試験を経て、後宮に来られました。ですが、ここからが本番です。王のお目に止まるための努力を惜しまぬよう、日々研鑽なさい。そのために必要なのは……」
妃候補としての心構えが、ルカス教育官の口から滔々と語られる。天はそれを耳にしながら、物思いに耽った。
選抜試験に合格したとき、両親はとても喜んでくれた。
それは生涯の宮仕えを余儀なくされるということだが、両親にとっては幸いだったのかもしれない。オメガの天を、どうにかして家から出したいと願っていたから。
試験を受けて後宮へ来たのは、王の妃になりたいからじゃない。
あのひとに、会えるかもしれないと思ったから……。
天は胸元を握りしめる。そこには革紐に下げた翡翠の欠片があった。
幼い頃の天が身投げを試みたとき、助けてくれた獣人。
彼が見守ってくれていると思うと胸に希望が湧いて、辛いときも乗り越えられた。困ったことがあれば翡翠を使って呼べと彼は言っていたが、宝石の欠片に笛のような機能はないので離れたところにいるひとを呼び寄せることはできない。きっと翡翠を心の拠り所にして頑張れという、彼からの励ましだったのだろう。
もう一度、会いたい。
あのひとに会ったとき、運命の番を予感したが、思い違いなのだろうか。彼も同調してくれたけれど、それは天を慰めるためだったのか。去って行く馬車には王家の紋章が刻印されていたので、彼は王宮の官吏なのだろうと推測できた。
ここにくれば、再会できるかもしれない。
目を落としていた足許の絨毯に、ふと尖った靴先が入り込む。
はっとして顔を上げれば、双眸を細めたルカスが天を見下ろしていた。
「あなた、わたくしの話を聞いていましたか?」
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