獣人王と番の寵妃

沖田弥子

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天と獣人

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 凪いだ湖面に蒼穹の空が映り込んでいる。
 崖の下に広がる美しい湖畔はてんのお気に入りの場所だったが、今の昏く沈んだ心には、なにも響かない。
 母にオメガと罵られるのはいつものことだ。けれど慣れたはずの罵倒に動揺でもしてしまったのか、踊りの稽古で振りを間違えたことを師匠に叱られ、すべてを投げ出したい気持ちになってしまった。
 崖下を覗き込むように身を伸ばせば、鬱蒼とした樹木が広がっている。己の首許に触れて、オメガの証である頑丈な首輪が嵌められていることに絶望を再確認した。
 オメガとして生まれた天は、自らの将来が先のないものだと周りの大人たちの態度から薄々感じ取っていた。支配階級の最下層であるオメガは男でも子を孕み、成長して発情期が訪れれば性交することしか考えられなくなるので、男娼か愛妾にでもなるしか道はない。
 両親は天を舞手にして、金持ちの獣人に引き取ってもらえないかと画策しているのを知っている。アルファである獣人は支配階級の頂点に立つ権力者たちだからだ。
 凡庸な能力しか持たないベータの人間たちは、絶対的な権力と圧倒的な体躯を持つアルファの獣人を恐れ、その力に媚びている。天はベータのさらに下の、矮小なオメガだ。自分は生きている価値なんて無いのだと思えた。
 崖の縁にそろりと足先を伸ばし、身を躍らせる。
 一瞬の浮遊感。
 直後に衝撃があり、死の予感が過ぎる。
 けれど手に触れたのは、ふわりとした温かな感触だった。

「あれ……?」

 不思議に思って顔を上げれば、綺麗な琥珀色の双眸に見つめられていた。

「……天から子どもが降ってきたな」

 深みのある低い声音に、とくりと甘く鼓動が刻まれる。
 青褐色の毛並みに覆われた狼型の獣人は、抱き留めていた天の身体をそっと下ろした。
 偶然にも、崖下にいた彼が受け止めてくれたのだ。高所だと思っていた崖は思ったより地上に近かったらしい。

「あ……ありがとう。でも死に損なっちゃった……。あなたにお怪我はありませんか?」

 見上げるほど大きなそのひとは、獣の頭に巨躯という獣人の特徴をしている。
 獣人は様々な型に類別され、その頂点に立つのが狼型だ。王宮の大臣や近衛隊長などの重職はすべて狼型の獣人と聞き及んでいる。
 彼が被っている光沢を放つ絹の帽子からは、顔を覆う紗布が垂れている。貴人が素顔を隠すための装備だ。ちらりと見えた琥珀色の瞳は、薄紫の紗布が揺れて隠されてしまった。彼はきっと身分の高いアルファなのだろう。
 獣人は天の目線に合わせて、ついと身を屈める。宝石のような琥珀色の瞳は見えないけれど、彼の襟元を彩る繊細な刺繍が限りなく琥珀に近い金色をしていた。

「おまえは死にたいのか?」

 こくりと頷く。十歳の天は身体が華奢で背も低いので、獣人が跪いてもまだ彼のほうが遙かに大きい。

「僕は、いらない子なんです。オメガだから」
「そんなことはない。私にはおまえが必要だ。名は、なんという?」
「……天」

 獣人が息を呑む気配が伝わった。ほんの少し開いた口許から、獰猛な牙が覗いている。紗布越しのためか、怖くはなかった。

「なんと。天からの贈り物かと思った子の名が、天だとは。まさに運命だな」

 楽しげに喉奥で笑う姿に、ふと思い当たる。
 運命の番という言葉を聞いたことがある。
 運命により結ばれたふたりは決して離れることがないという言い伝えだ。心の隅で憧れる気持ちはあったけれど、両親に疎まれている天は自分の身にそんな運命が訪れるなんて思えなかった。
 このひとに会うまでは。

「じゃあ……あなたが、僕の運命の番ですか?」

 天の胸に不思議な感覚が過ぎる。それは温かな水が胸の裡を満たしていくような充足感。
 獣人は深く頷きを返した。

「そうだ、天。おまえは私の、運命の番だ」

 ああ、彼は、死にたいと願った僕を慰めようとしてくれるのだな。
 そうでもなければ、こんなに簡単に受け入れてくれるはずがない。産んでくれた母すら認めてくれないのに。
 愛情に飢えた天は諦めることを最良の選択に据えていたので、運命的な出会いを信じることができずに否定する。哀しげに目を伏せる天を、獣人はじっと見つめていた。
 湖面から強い風が吹きつける。天の漆黒の髪が煽られた。木々はざわめきを零している。
 獣人は長袍に包まれた自らの胸元を探る。小さな破壊音が響いた。なんの音だろうと首を捻ると、大きな掌に握りしめたものが天の眼前で開かれる。

「わあ……きれい」

 碧色をした宝石の欠片が、仄かな光を放っていた。まるで道標の灯りのようだ。

「これをやろう。この翡翠が、いつでも天を見守っている。困ったことがあれば、これを使って私を呼ぶのだ」
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