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第九十一話:荒野の祝祭と、小さな自立
しおりを挟む『赤錆飛蝗(あかさびバッタ)』との死闘から、数日が過ぎた。
『蛇の舌』の荒野は、俺たちの予想を遥かに超えるスピードで、劇的な変化を遂げていた。
「……たまげたな。こいつは、本物の『恵みの雨』だったのかもしれねえ」
畑の真ん中で、トーマスさんが呆れたように、しかし顔中をくしゃくしゃにして笑う。
俺たちの目の前には、信じられない光景が広がっていた。全滅したと思われた場所から蒔き直したクローバーが、爆発的な勢いで芽吹き、黒い土を鮮やかな緑の絨毯で覆い尽くそうとしている。生き残ったライ麦に至っては、数日で背丈が倍近くに伸び、その葉は太陽の光を反射してツヤツヤと輝いていた。
「バッタの死骸が、最高の肥料になったんですね」
俺が土を手に取ると、そこには細かく砕かれ、すでに土と同化し始めたバッタの外殻が混じっていた。彼らが荒野から集めたミネラルと、その身に蓄えたタンパク質が、微生物たちによって急速に分解され、この痩せた土地が最も必要としていた栄養素の塊へと変わったのだ。
「災い転じて福となす、か。……先生の言う通りだ。この土地じゃ、無駄になる命なんて一つもねえんだな」
農夫たちは、鍬(くわ)を振るう手に力を込める。その顔にもう、悲壮感はない。どんな困難も糧にできるという確かな自信が、彼らの背中を力強く押していた。
◇
その日の午後、小さな事件が起きた。
噂を聞きつけた新しい開拓希望者たちが数家族、ランドールからやってきたのだ。彼らを受け入れるかどうかで、古参の農夫たちとの間で少し揉め事が起こりかけた。
「水も土地も、まだ余裕があるわけじゃねえ! 苦労して守った俺たちの畑だぞ!」
「だが、彼らも生きるのに必死なんだ。追い返すなんてできねえだろう!」
俺が仲裁に入ろうと一歩踏み出した時、それを手で制した男がいた。トーマスさんだ。
彼は、古参と新参、両方の男たちの間に割って入ると、静かに、しかしよく通る声で言った。
「……俺たちの目的はなんだ。自分たちだけが助かることか? 違うだろう。この『蛇の舌』を、黄金の楽園に変えることだ。そのためには、人の手がいくらあっても足りねえ」
彼は、新しい開拓者たちに向き直った。
「受け入れる。だが、条件がある。俺たちは、ここで血反吐を吐く思いをして、この土を作ってきた。あんたたちにも、同じ覚悟を持ってもらう。……最初にやるのは、畑仕事じゃねえ。全員で、さらに遠くの岩場まで水路を伸ばすんだ。それができたら、あんたらの畑の場所を決めよう。……できるか?」
彼の提案は、公平で、そして未来を見据えたものだった。既存の利益を守るのではなく、パイそのものを大きくするために、新しい力を利用する。
新参者たちは、顔を見合わせた。彼らの視線の先には、痩せこけ、不安そうに寄り添う妻や子供たちの姿があった。
やるしかなかった。ここで引けば、家族は冬を越せないかもしれない。
「……ああ、やらせてくれ! 水路でも、岩砕きでも、何でもやってやる! だから、俺たちにも、ここで生きるチャンスをくれ!」
代表の男が、悲壮な覚悟で叫ぶ。
その声を聞いて、古参の農夫たちも、「……ちぇっ、村長がそう言うなら仕方ねえな。へばるんじゃねえぞ、新入り!」と、渋々ながらも彼らの肩を叩いた。
「……村長、か」
俺は、その様子を見て、胸の奥が熱くなるのを感じた。
彼らはもう、俺が守るべき弱者ではない。自ら考え、問題を解決し、未来を切り拓いていく、立派な開拓者だ。
(……もう、大丈夫だ)
俺の役目は、終わったのだ。
その夜、俺はトーマスさんに、ランドールへ戻ることを告げた。
「……そうかい。やっぱり、行っちまうのかい」
彼は少し寂しそうに目を伏せたが、すぐに顔を上げ、懐から小さな革袋を取り出した。
「先生。これ、持ってってくだせえ」
手渡された袋はずしりと重かった。中を見ると、そこには、赤茶色ではなく、黒々と生まれ変わった、この荒野の『土』が詰まっていた。
「俺たちの、最初の『収穫』だ。先生のおかげで、この死んだ土地が、こんなに良い土になった。……そのことを、忘れないでほしくてな」
俺は、その袋を強く握りしめた。どんな宝石よりも価値のある、最高の贈り物だった。
「ありがとうございます。……一生、大切にします」
◇
翌朝、俺とギデオン、そしてフェンは、皆に見送られて荒野を後にした。
振り返ると、石壁の向こうで、男たちが手を振っている。その周りには、彼らの家族――新しく呼び寄せた妻や子供たちの姿もあった。
荒野に、確かに「村」が生まれたのだ。
「……良い顔をしていたな、彼らは」
隣で馬を走らせるギデオンが、珍しく穏やかな声で言った。
「はい。……俺の、自慢の仲間たちです」
俺は前を向いた。懐には、トーマスさんがくれた黒い土の重みがある。
ランドールでは、エレナ様たちが待っている。少しの間、留守にしてしまった。帰ったら、たくさん話をしよう。この土を見せて、荒野で起きた奇跡の話を。
そんな穏やかな再会を夢見て、俺たちは馬を走らせた。
だが、その時の俺はまだ知らなかった。
ランドールで俺を待っているのが、穏やかな日常だけではないことを。
そして、遠い故郷に、静かに、しかし確実に、不吉な影が忍び寄っていることを。
【読者へのメッセージ】
第九十一話、お読みいただきありがとうございました!
校閲者様のアドバイスを受け、新参者たちの覚悟と、トーマスさんからのささやかな贈り物(黒い土)のエピソードを追加しました。彼らの自立と絆が、より深く伝われば幸いです。
「トーマス村長、最高!」「黒い土のプレゼント、泣ける…」「嵐の前の静けさが怖い…」など、皆さんの感想や応援が、次の展開への活力になります。下の評価(☆)やブックマークも、ぜひよろしくお願いいたします!
次回、舞台は再びランドール、そして……。つかの間の日常を引き裂く、故郷からの凶報。物語は新たな緊張感へと包まれていきます!どうぞお見逃しなく!
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