【完結】婚約者様、王女様を優先するならお好きにどうぞ

曽根原ツタ

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 民家がほとんど見当たらない山中の、精神科病院の診察室。
 丸い椅子に腰掛けた医者が、神妙な面持ちで向かいに座るオーガスタに問う。

「ご自分の名前が分かりますか?」
「オーガスタ・クレートです」
「では、家族構成は?」
「父と私……それから兄がふたりいます。母は他界しました」
「家族との関係は良好ですか?」
「はい。私の家系はみんな剣術に熱心でとても仲が良く、一緒によく旅行にも行きます」
「そうですか……。でも、本当はご家族の顔色をうかがって、自分の気持ちを我慢してきたことはなかったですか?」

 王宮での夜会のあと、オーガスタは郊外の精神病院に強制入院させられた。
 吸血鬼に洗脳された可能性があるという理由で、他の患者たちに危害を加えないようにと、鉄合子のついた隔離病棟に収容され、手足を拘束された状態でひと月近く過ごした。

「ありません」

 オーガスタは久しぶりに隔離病棟から出て、医者の診察を受けている。
 診察室内では、吸血鬼に洗脳されたオーガスタが暴れ出しても即座に対応できるように、体格のいい男性たち三人が待機している。

(こんなこと、する必要なんてないのに)

 人々が吸血鬼という存在をどれだけ恐れているのか、否応なく知らしめられ、オーガスタは落胆していた。この強烈な迫害では、吸血鬼であるネフィーテが生きやすくなる時代など、決して来ないだろう。

 医者は質問を続けた。

「では、ここ最近、大きな悩みはありましたか?」

 ふと、元婚約者のサミュエルの顔が浮かぶ。夜会のあと、クレート公爵家からマキシミルア侯爵家に対し、婚約解消の申し入れをした。そして、ふたりの婚約解消はあっさりと成立したのだった。

「元婚約者のことで色々と悩んでいましたが……もう解決したので大丈夫です」
「その悩みについて、もっと詳しくお聞かせいただけますか?」
「お断りします」
「?」

 オーガスタは額を手で押さえて、小さくため息を吐いた。

「どんなに話をしたところで無駄ですよ。私は吸血鬼に洗脳なんてされていないんですから。私はただ、その人を純粋に慕っているだけなんです」

 こちらの頑なな態度に、医者は呆れたような声で言う。

「分かりませんかね……。それを洗脳だと言っているのですよ」
「吸血鬼を好きになるのはおかしいことなんですか? 吸血鬼だって人と同じように心を持ってるのに……」
「おかしいから、あなたはここにいるんでしょう。襲われてからでは遅いんですよ。この傷を見てください。――吸血鬼にやられた傷です」

 医者は前髪を掻き上げ、古傷を見せてきた。幼いころに姉とふたりで森に出かけたとき、吸血鬼に遭遇し、姉は身代わりとなり命を落としたという。痛々しい傷跡に、オーガスタはひゅっと喉の奥を鳴らす。

「あなたのお姉さんを殺した吸血鬼と、あの方は同じじゃありません。同じじゃ……っ」 

 そのとき、診察室の扉の向こうから、激しい物音と患者の叫び声が響いてきた。

「うあああっ……っ、吸血鬼だっ、助けてくれ……! お、襲われる……っ」
「大丈夫ですよ、ここに吸血鬼はいませんからね。落ち着いてください」
「嫌だっ、ひっ……ぅ、うわあああっ!」

 患者と看護師の声を聞いた医者が、沈痛な面持ちで言った。

「ここには、吸血鬼に襲われたことがトラウマになり、心の傷を負った方が来られます。あなたにそうなってはほしくありません」
「…………っ」

 何を言ったところで、医者を説得することは不可能だろうと悟った。吸血鬼への恐怖は、人間の意識の奥深くに刻まれているのだ。
 吸血鬼は寿命があるものの、不死の存在である。どんなに傷を与えても、致命傷にはならない。彼らには苦手なものもあるが、今のところ命を奪う方法は見つかっていないのだ。

 しかし、オーガスタの記憶にはネフィーテの微笑みも刻まれている。

「それでもやっぱり、私は信じたいです」

 拳をぎゅっと握り締め、椅子から立ち上がろうとするオーガスタを見て、医者は男性スタッフたちと目配せを交わす。

「彼女には治療が必要なようだ。病室に連れて行ってください」
「「はい」」

 オーガスタは男性ふたりに腕を拘束され、引きずられるように隔離病棟へ戻された。
 そして再び、手足を拘束され、寝台に寝かされてるのである。



 ◇◇◇



 この隔離病棟で天井を眺める生活も、もうひと月になろうとしている。
 吸血鬼を憎むようになるまで、隔離は終わらないのだろう。しばらく剣の稽古もできていないから、身体も鈍ってきている。早く家に帰りたいが、その目処は立ちそうにない。

 オーガスタのわがままのせいで、家族や周りを振り回してしまった。だが、治療を続けたところで、ネフィーテを慕う気持ちを抑えることなどできないだろう。

(ネフィーテ様は、どうしてるんだろう)

 この独房のような病室でできることと言えば、天井のシミを数えるか、彼の心配をするくらいだった。

 ネフィーテは王子という肩書きを与えられてから、長らく王宮に縛られてきた。人間の血を分けてもらう代わりに、王家に危難が訪れた際には力を貸して、平和な国家運営の一助となってきた。
 オーガスタがノエとして生きていた時代、ネリア王国は隣国と領土をめぐって戦争の真っ只中だった。ちょうど戦に駆り出されていたネフィーテに、オーガスタは拾われた。

 戦争においてのネフィーテの活躍は素晴らしいものだった。
 けれど彼の献身は誰にも評価されず、怪物呼ばわりされたまま。そしてネフィーテも、吸血鬼としての自分が疎まれるのが当たり前だと思っている。ノエは彼に、『あなたは愛されるべき存在だ』と、伝えたかったが、最後まで伝えられなかった。ノエはネフィーテを愛していた。

 ぼんやりと天井を見つめていると、病室の重厚な扉がゆっくりと開き始めた。そちらに視線を向け、目を見開く。

 病室に入ってきたのは、元婚約者のサミュエルだった。

「情けない姿だな、オーガスタ嬢」
「……! どうしてここに……」

 隔離病棟の患者は面会が禁じられているし、部屋は外鍵がかかっているため、簡単に立ち入ることができないはず。

「なに、看護師を買収しただけだ」

 サミュエルはそう言ってからこちらに歩み寄り、オーガスタの腕の拘束具のみを外した。そして、寝台の横の椅子に座り、足を組む。
 オーガスタは自由になった半身を起こして、彼の方を見た。

「吸血鬼に洗脳されたと聞いたが、本当か?」
「違っ、洗脳なんて……」

 されていないと、断言することができなかった。
 もし、父が言うようにオーガスタの中にあるノエとしての記憶が、全て吸血鬼の洗脳で作られたものだったとしたら。オーガスタの胸の中に根付く温かな感情さえも、嘘だというのだろうか。

(もし、ノエとしての記憶が全部、偽物だったら)

 父や医者に洗脳されていると言われ続けているせいで、オーガスタは自信を失っていた。しかし、首を横に振る。

(信じよう。泣いている私にハンカチを貸してくれたネフィーテ様のことを)

 そう自分に言い聞かせて、唇を引き結ぶ。

「まともに話ができるなら、なんでもいい。第四王子……いや、あの怪物のことが、気になるか?」
「!」

 第四王子の正体が吸血鬼であることは、公式には秘密だ。
 だが、サミュエルは王女と交際していた際に、王子の正体をひそかに聞かされたそうだ。

「……サミュエル様に話す義理はない」
「まぁ、構わん。王家の者たちは吸血鬼を恐れている。どうして君は、あの吸血鬼にこだわる?」
「そんなことを、わざわざ聞きに来たの?」
「いや、取引のためだ」
「――取引?」

 サミュエルは頬杖をつき、不敵に口角を持ち上げる。

「君がどうして吸血鬼にこだわるのか、俺は知らないし興味もない。だが、もしあの吸血鬼のところに行きたいなら、力を貸してやろうか」

 彼から告げられた言葉に、オーガスタは思わずごくんと唾を飲んだ。
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