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第一章
52話:2人きりの出張(1日目)④
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熱海駅からはJR伊東線に乗り、伊豆多賀に向かった。病院は駅からタクシーで20分の場所にあるらしかったが、2人は病院へ向かう前に一度宿に寄り、フロントで荷物を預かってもらった。ビジネスホテルを想定していたから、案外綺麗な旅館に到着して驚いた。経理部が許す範囲内だからと、谷口が予約していた旅館なんだそうだ。それを聞くと、来られなくなった谷口が余計に気の毒になる。
そしてやっぱり、本当に谷口にはこの出張にいてほしかった。チェックイン手続きを行ってくれている神永の後ろ姿は無駄に脚が長く、フロントの人と話している顔は斜め後ろのこの角度から見ても完璧に美しい。……とかなんとか心の中で思ってしまうくらい、どうしても視線が吸い寄せられてしまう。だから、谷口にはいてほしかった。
『今の久遠って改めてあいつのことが好きなの?』。
不意に霧島からのLINEが想起されてしまった。
早く一派遣社員モードになれますようにとギュッと目を瞑ってから、手続きを終えた神永を追いかける。
病院へ向かうタクシーの車窓からは、時々海が見えた。都内では見慣れない、静かで広い青。
今でこそ都内で暮らしているけれど、久遠の地元の横浜だけじゃなく、高校で通っていた岬ケ浜も海が見える学校だった。だから、海にはなにかと愛着がある。こうして海を見ていると、放課後に2人で浜まで下りて遊んだ日もあったな、なんて、今思い出すべきではない思い出も顔を出してしまうのだけれど。
病院に到着すると、神永と並んで挨拶をし、ブリッジノート導入担当であるという心理士のスタッフに案内された。自己紹介と、簡潔な説明。導入の経緯と見通し、現在の使用状況、今日から数日間で一緒の行っていきたいこと。仕事の内容は、ブリッジノートを試験的に使用している子どもや、その家族、医療スタッフからの使用感のヒアリングと、データの共有だった。
久遠は、その中でも特に、ある少年との交流を任されるみたいだった。小児病棟の一室に入り、神永が先に声をかけ、久遠も続けて挨拶をする。
「來くん、こんにちは。小島久遠です。今日はお時間ありがとうね」
小学5年生であるというその少年は、ちらりとこちらを見ただけで、すぐに視線を逸らした。すぐにスマホをいじり出し、話しかけるなというメッセージを全身で示してくれる。
「……」
圧倒的無視。久遠は一瞬言葉に詰まるが、神永は動じた様子もなく、穏やかに囁く。
「大丈夫。今日は顔合わせだけだから」
そのまま、少年の声を一言も聞かないまま病室を出て、久遠は気まずい思いで少し唇を内側に巻き込む。
「すいませんね、來くん、少しふさぎ込みやすい子で」
心理士の高橋先生は、來から聞こえないところまで来ると、困ったように笑って言った。久遠が「いえいえ!」と顔の前で手を振ると、神永も久遠に声をかけてくれる。
「今後なかなか苦戦するかもしれないけど、く――小島さんならきっと大丈夫だよ。そんな顔しないで」
慰めるようなその言葉に、久遠も頷いた。けれど胸の奥では、前途多難なスタートにどうしても不安を感じざるを得なかった。この先4日間で、彼の心を開けるだろうか。
役に立てずに終わったらどうしよう、という焦りもあった。でも、仕事の成果うんぬんという懸念以上に、久遠の胸に引っかかっていたのは別の思いだった。小児科入院という現状が彼をふさぎ込ませているとしたら、彼が今抱えている思いはどのようなものなのだろう。大きな孤独があるんだとしたら、4日間しかここにいない自分に、それを受け止めることはできるんだろうか。彼は、外から見れば、ただ不機嫌で扱いづらい子どもかもしれない。だけどその奥に渦巻いている思いは外側からは測り知れない。もしかしたら、病気で何をを諦めなくてはいけないという試練が、あの小さな背中には重過ぎるのかもしれない。來の態度を見て久遠が思い出していたのは、かつての自分ではなかった。病室で見た最後の姿である、医師と対立し激しい怒りをあらわにしていた一織のことを思い出していた。
神永が、他科にもブリッジノートを知ってもらうための資料を配布しに行くと言ってナースステーションを回っている間、久遠は一人で、再度少年の病室を訪ねた。
「來くん」
声をかけても、反応はない。視線すら向けられない。彼の担当者は女である自分ではなく、同性の神永の方が適任だったかもしれない。一日目の訪問は、見事なまでの空振りだった。
病室を出た久遠は、肩を落としたままカンファレンスに向かう。会議室の場所はナースステーションの奥にあるそうで、心理士に案内されて中を歩いていった。そこは人の行き交う音で満ちていた。
看護師は誰も彼も忙しそうで、それを見ていると、昔病室では決まって久遠に笑いかけてくれていたあの看護師たちは、忙しない現場から自分自身を切り取り、久遠が不安にならないように踏ん張っていてくれたのだという背景が今さら見えてくる。当時からお世話になっている自覚はあったけれど、より強くその有難みを感じた。
高橋、神永、久遠が、看護師の邪魔にならないように避けながら歩く移動中、高橋から、試験導入中の患者リストが渡された。貴重な個人情報を共有してくださることに感謝を伝えながら、手を伸ばしたその瞬間だった。
「!」
差し出された紙を取ろうとして、神永の手と久遠の手が同時に伸び、互いの指先が触れてしまった。それだけで久遠の体は過剰に反応し、手を引っ込めてしまった。その拍子に、紙の束がばらばらと床に散る。
「あっ……!」
ナースステーションの床に白い紙が舞い落ちる。周囲の視線が一斉に集まるのが分かって、久遠の頭は真っ白になった。
「すみません!ごめんなさい!」
久遠は慌ててしゃがみ込み、紙を拾い集める。神永もすぐにしゃがみ、一緒に紙を拾ってくれた。
個人情報をぞんざいに扱ったとして、ブリッジノート全体の印象が悪くなったらどうしよう。久遠は胸が締め付けられて、神永の顔を見ることができなかった。
神永は紙を拾いつつ、その視線は久遠をとらえていた。慌てている、というより、怯えているように見える久遠のことを。
熱海駅からはJR伊東線に乗り、伊豆多賀に向かった。病院は駅からタクシーで20分の場所にあるらしかったが、2人は病院へ向かう前に一度宿に寄り、フロントで荷物を預かってもらった。ビジネスホテルを想定していたから、案外綺麗な旅館に到着して驚いた。経理部が許す範囲内だからと、谷口が予約していた旅館なんだそうだ。それを聞くと、来られなくなった谷口が余計に気の毒になる。
そしてやっぱり、本当に谷口にはこの出張にいてほしかった。チェックイン手続きを行ってくれている神永の後ろ姿は無駄に脚が長く、フロントの人と話している顔は斜め後ろのこの角度から見ても完璧に美しい。……とかなんとか心の中で思ってしまうくらい、どうしても視線が吸い寄せられてしまう。だから、谷口にはいてほしかった。
『今の久遠って改めてあいつのことが好きなの?』。
不意に霧島からのLINEが想起されてしまった。
早く一派遣社員モードになれますようにとギュッと目を瞑ってから、手続きを終えた神永を追いかける。
病院へ向かうタクシーの車窓からは、時々海が見えた。都内では見慣れない、静かで広い青。
今でこそ都内で暮らしているけれど、久遠の地元の横浜だけじゃなく、高校で通っていた岬ケ浜も海が見える学校だった。だから、海にはなにかと愛着がある。こうして海を見ていると、放課後に2人で浜まで下りて遊んだ日もあったな、なんて、今思い出すべきではない思い出も顔を出してしまうのだけれど。
病院に到着すると、神永と並んで挨拶をし、ブリッジノート導入担当であるという心理士のスタッフに案内された。自己紹介と、簡潔な説明。導入の経緯と見通し、現在の使用状況、今日から数日間で一緒の行っていきたいこと。仕事の内容は、ブリッジノートを試験的に使用している子どもや、その家族、医療スタッフからの使用感のヒアリングと、データの共有だった。
久遠は、その中でも特に、ある少年との交流を任されるみたいだった。小児病棟の一室に入り、神永が先に声をかけ、久遠も続けて挨拶をする。
「來くん、こんにちは。小島久遠です。今日はお時間ありがとうね」
小学5年生であるというその少年は、ちらりとこちらを見ただけで、すぐに視線を逸らした。すぐにスマホをいじり出し、話しかけるなというメッセージを全身で示してくれる。
「……」
圧倒的無視。久遠は一瞬言葉に詰まるが、神永は動じた様子もなく、穏やかに囁く。
「大丈夫。今日は顔合わせだけだから」
そのまま、少年の声を一言も聞かないまま病室を出て、久遠は気まずい思いで少し唇を内側に巻き込む。
「すいませんね、來くん、少しふさぎ込みやすい子で」
心理士の高橋先生は、來から聞こえないところまで来ると、困ったように笑って言った。久遠が「いえいえ!」と顔の前で手を振ると、神永も久遠に声をかけてくれる。
「今後なかなか苦戦するかもしれないけど、く――小島さんならきっと大丈夫だよ。そんな顔しないで」
慰めるようなその言葉に、久遠も頷いた。けれど胸の奥では、前途多難なスタートにどうしても不安を感じざるを得なかった。この先4日間で、彼の心を開けるだろうか。
役に立てずに終わったらどうしよう、という焦りもあった。でも、仕事の成果うんぬんという懸念以上に、久遠の胸に引っかかっていたのは別の思いだった。小児科入院という現状が彼をふさぎ込ませているとしたら、彼が今抱えている思いはどのようなものなのだろう。大きな孤独があるんだとしたら、4日間しかここにいない自分に、それを受け止めることはできるんだろうか。彼は、外から見れば、ただ不機嫌で扱いづらい子どもかもしれない。だけどその奥に渦巻いている思いは外側からは測り知れない。もしかしたら、病気で何をを諦めなくてはいけないという試練が、あの小さな背中には重過ぎるのかもしれない。來の態度を見て久遠が思い出していたのは、かつての自分ではなかった。病室で見た最後の姿である、医師と対立し激しい怒りをあらわにしていた一織のことを思い出していた。
神永が、他科にもブリッジノートを知ってもらうための資料を配布しに行くと言ってナースステーションを回っている間、久遠は一人で、再度少年の病室を訪ねた。
「來くん」
声をかけても、反応はない。視線すら向けられない。彼の担当者は女である自分ではなく、同性の神永の方が適任だったかもしれない。一日目の訪問は、見事なまでの空振りだった。
病室を出た久遠は、肩を落としたままカンファレンスに向かう。会議室の場所はナースステーションの奥にあるそうで、心理士に案内されて中を歩いていった。そこは人の行き交う音で満ちていた。
看護師は誰も彼も忙しそうで、それを見ていると、昔病室では決まって久遠に笑いかけてくれていたあの看護師たちは、忙しない現場から自分自身を切り取り、久遠が不安にならないように踏ん張っていてくれたのだという背景が今さら見えてくる。当時からお世話になっている自覚はあったけれど、より強くその有難みを感じた。
高橋、神永、久遠が、看護師の邪魔にならないように避けながら歩く移動中、高橋から、試験導入中の患者リストが渡された。貴重な個人情報を共有してくださることに感謝を伝えながら、手を伸ばしたその瞬間だった。
「!」
差し出された紙を取ろうとして、神永の手と久遠の手が同時に伸び、互いの指先が触れてしまった。それだけで久遠の体は過剰に反応し、手を引っ込めてしまった。その拍子に、紙の束がばらばらと床に散る。
「あっ……!」
ナースステーションの床に白い紙が舞い落ちる。周囲の視線が一斉に集まるのが分かって、久遠の頭は真っ白になった。
「すみません!ごめんなさい!」
久遠は慌ててしゃがみ込み、紙を拾い集める。神永もすぐにしゃがみ、一緒に紙を拾ってくれた。
個人情報をぞんざいに扱ったとして、ブリッジノート全体の印象が悪くなったらどうしよう。久遠は胸が締め付けられて、神永の顔を見ることができなかった。
神永は紙を拾いつつ、その視線は久遠をとらえていた。慌てている、というより、怯えているように見える久遠のことを。
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