【完結】僕ら二度目のはじめまして ~オフィスで再会した、心に残ったままの初恋~

葉影

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第一章

53話:2人きりの出張(1日目)⑤

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 伊豆出張初日は、何ひとつうまくいかなかった。

 來とは結局一言も交わせなかったし、取扱に最大限の注意を払うべき個人情報のリストを床にばらまくという大失態までやらかしてしまった。思い出すだけで、胃がぎゅっと縮むような心地がする。

 忙しい臨床の現場に入らせてもらっている立場で迷惑をかけた。きっと、今日指が触れた相手が谷口だったらあんなふうに狼狽えたりしなかった。だから、あのミスはただの不注意ではなくて、私情の乱れのせいなのだ。

 久遠は大浴場の湯船に肩まで沈みながら、天井を見つめた。
 湯は熱すぎず、ぬるすぎず、体を包む感触は心地いいはずなのに、気持ちはまるで浮かばない。むしろ、頭の中だけがやけに冴えてしまって、今日の出来事が次々に再生される。紙が散った瞬間の視界。周囲の視線。しゃがみ込んだ時に見えた、神永の真っ白な指先――。多分、彼の視線は久遠に注がれていた。どんな表情をしていたかはわからないけれど。

 だめだ、と久遠は小さくつぶやいた。これ以上ぐるぐる考えてしまうと、上がるタイミングを逃してのぼせてしまう。
 思い切って浴場を出て、簡単に浴衣を着て、廊下に出た。のぼせかけた肌を柔らかく冷やしてくれる廊下の温度が心地よく、ほっと息を吐いて肩の力を抜く。

 ――明日からも業務は続くんだ。一人でこんなふうに自責して、明日の調子にまで悪影響を及ぼしてしまったらよくない。

 そう思いながら角を曲がった瞬間だった。廊下に2つ並んだ自販機のそばに、見慣れたシルエットを認めてしまう。

 神永だった。

 神永は、自販機横の缶ゴミ箱にガコンとカラらしい缶を捨てていた。そして今度は自販機のボタンを押し、出てくる飲み物を取る。彼の手に包まれたのは、缶チューハイだった。
 そんな彼は普段のスーツ姿ではなく、彼も浴衣に身を包んでいて、その襟元はわずかに緩んでいる。いつもはワックスで自然にセットされている髪も、今は少し無造作だ。彼も風呂上がりだということが分かった。

 まさか、入浴時間がかぶるだなんて。神永とは宿泊のフロアも違うため、旅館内で会うことはそうないだろうと信じてしまっていた。

 飲み物を取って踵を返した神永も、つい立ち止まってしまっていた久遠に気がつき、目が合った。照明の下で、彼の色白の頬はほんのりと蒸気して見える。

 内心、しまったと思った。私の髪はまだ濡れている。タオルドライはしたけれど、完全には乾いていない。部屋でドライヤーを使えばいいと横着してしまったけれど、脱衣所で乾かしてくればよかった。だらしないと思われるだろうか。仕事ができない上に身だしなみも緩いとか。……いや、どうしてこんな時に、こんなことを気にしてしまうんだろう。

「お疲れさまです」

 声が上擦らないようにだけ注意して、やや足早にすれ違おうとした。

 けれど、「ねえ」と呼び止められた。

 そして、久遠の背中を、予期せぬ声が追いかけてきたのだった。



「――いつまで知らないフリしないといけないの?」



 久遠の世界が、音を失って止まった。耳を疑った。

 久遠は、振り返れないまま立ち尽くす。心臓が急に近くで鳴り始めたみたいにうるさくなった。

 今、なんて?どうして、今?

 "知らないフリ"。私たちの間に忘れ難い過去があること。互いに何もなかったフリを貫いてきたこと。それをついに、彼の方から今、口にした。

 それに、その言葉は、高校の時にあなたが――。

 彼が、あの時のことを覚えていてその言葉を発したのかはわからない。けれど、覚えていないで言っているのだとしたら不自然なほどに、高校の踊り場で初めて久遠を呼び止めた一織のセリフと、一言一句同じだった。
『いつまで知らないふりしてないといけないの?』

 久遠はそのことに混乱してしまい、何も言葉が出てこなかった。頭の中で砂嵐のように思考が錯綜し、言葉にできるほど形になる前に次の思考に追いやられて消えてしまう。その繰り返しに眩暈のような感覚すら覚えていて、何も言えなかった。さっき湯でのぼせかけた感覚が今さらぶり返したみたいに頭の中も足元もグラグラと揺れて、言葉が喉に張りつき、息も浅くなる。

 そんな久遠に追い打ちをかけるように、背後からもっと鋭い言葉が続いた。目の前が真っ暗になる。


「――俺たち、もうあんまり会いたくなかったよね」
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