【完結】僕ら二度目のはじめまして ~オフィスで再会した、心に残ったままの初恋~

葉影

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第一章

58話:2人きりの出張(5日目)①

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┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

 "あの時はごめんなさい"。

 その言葉は、久遠の喉に上ってきては、体の外に出てこないまま奥へと帰っていく。

 ちょうど、浜辺に寄せては返す波のように。神永とネクサイユで再会してからずっとそうだ。

 この言葉を出してしまったら、終わってしまう気がする。ぎりぎりバランスを保っているものがとうとうダメになってしまう気がする。

 "ごめん"は、"私は忘れられていません" を意味する。
 それをわざわざ口にして掘り返すことは、"あなたも思い出してください" を意味する。
 だから、今日も喉まで寄せたごめんは、深い海に向かって帰っていくのだった。
  
 ざざん。

 大きな海は、どこから音を出しているのか、深くて小さな音をずっと響かせている。久遠が滞在している旅館は高台にあり、深い青色をした海と砂浜は、見下ろせるものの少し遠い。それでも聞こえてくる海の声は、きっと風がここまで運んでくれているのだろう。

 伊豆5日目――最終日の朝、久遠は必要以上に早く目覚めてしまい、浴衣のまま外に出ていた。

 最終日の今日は、ブリッジノートを担当してくれている高橋たちには他のカンファレンスの予定があるそうで、神永と久遠が病院に向かったとて担当できる人がいないそうなのだ。だから今日だけは、午後から病院を訪問することになっていた。

 旅館の入館口からちょうど反対側にある、ベランダのような広場。その淵にある柵から海が見えるのだった。

「やばいやばい!そっち!荷物!」

 遠くの方で、緊迫感のあるはしゃいだ声が聞こえてきた。海の方へ目を凝らすと、浜辺にビニールシートを敷いてくつろいでいたらしい女性たちが、大笑いしながら陣地を解体しようとしている。

 いつの間にか、満潮になっていたみたいだ。

 片方の女性のカゴが、すんでのところで波を免れている。その女性の子どもたちが作っていたらしい砂の城の大作に波が到達してしまったかと思うと、次の波であっという間に飲み込まれてぐしゃぐしゃになってしまったのが見えた。子どもの泣き声も聞こえてくる。

 しばらくすると、子どもをなだめていた女性たちの声も聞こえなくなった。浜辺にいた人は皆、退散したらしい。
 人は去り、砂のお城も、犬が楽しそうに散歩していた海藻の道も、満ちた海が全部飲み込んでしまった。

 そこにはただ、満潮した海だけが一人残されて、空しくキラキラ輝いていた。
  

 ざざん。
 ――だめだ。
 ざざん。
 ――止まって。

 寄せては返す波。――返る、はずだった波。

 浜で遊んでいたあの人たちも、あの海が満潮になると分かっていてあの浜辺で遊んでいたんだろうか。きっと、分かっていたはずだ。それなのにあそこで遊んでいた。そこにいる時間が幸せで、後ろ髪引かれて、名残惜しかったから。いつか満潮になると分かっていても、そこから離れられなかった。

 寄せては返ってくれるはずだった波。いつの間にか久遠の心の波の先端は、ずいぶん迫ってきていたみたいだ。

 ――彼の近くにいたらいつかは満潮になるとどこかで分かっていたのに、いつまでもネクサイユに留まっているから。

 ざざん。

 これ以上満ちたら、ぎりぎりを保っていたものが全部失われてしまう。

 久遠が我慢出来ていれば、昔のような関係でなくても、そばにいることは出来る。一人で気持ちが抑えられなくなってすべてを失ってしまうより、その方がずっといい。それなのに。

 ざざん。

 大人になった彼から、どうしても目が離せない。彼のことが、日に日に久遠の心を占領していく。

 チームで的確な指示をする彼。

 ナンパから守ってくれた彼。雨から守るようにかけてくれたジャケットの温もり。水溜まりから跳ねた水から守ってくれて、試着室で近づいた体。

 2人きりの設営で目と鼻の先に迫った彼の顔。展示会の日の帰り、久遠に感謝を伝えるために戻ってきたと思ったら、靴擦れに気づいて絆創膏を買ってくれていた彼。
 霧島に絡まれていると思って止めに入ってくれた彼の表情。
 駅でキャリーケースを持ってくれたこと。新幹線で隣に座らせてくれたこと。伊豆での久遠の行動を、上司として謙遜するどころか承認し続けてくれたこと。

 嫌われていると思ってやり過ごすには、魅力を感じてしまう場面が多すぎた。くれる優しさが、膨らんで重たくなり、久遠の胸を押し潰していく。

 ――近づきたい。

 昔みたいに触れたい。あの人が愛おしそうに呼ぶのは自分の名前がいい。久遠が先を歩いて、前を見たまま手を後ろに伸ばして待っていたら、当たり前のように指を絡めてきてくれるのは、あの白い指がいい。

 ぎゅっと胸が締めけられる。自分が失ったものの大きさへの後悔は飽きるほどしたはずなのに、再会してから、その後悔は日に日に膨張し続けている。
 その圧を逃がしたくて、久遠は柵を握る手に力を込めた。

 ――戻れ。戻って。波のように、引いて。
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