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しおりを挟む帰りのホームルームが終わると、静は誰よりも早く席を立ち、教室を出た。
背中に突き刺さる軽蔑や嘲笑の視線から、ようやく逃げ出せる時間だった。
廊下に出た瞬間、肺いっぱいに空気を吸い込む。
それだけで少し、生き返ったような気がする。
学校から一キロほど離れる頃、ようやく心臓の鼓動が落ち着いてきた。
人の気配が薄れ、聞こえるのは自分の足音と、遠くを走る車の音だけ。
この距離が、静にとっての“安全圏”だった。
二十分ほど歩くと、自宅のアパートが見えてくる。
築四十年以上経った、古びた二階建ての一K。外壁の色はところどころ剥げ、階段はきしむ。
静は高校生になってから、このアパートで一人暮らしをしている。
一人暮らし、というより、追い出されたという表現の方が正しい。
中学生になった頃、父と母は離婚した。
生まれた時からどちらからも十分な愛情を注がれることはなく、書面上では母が引き取ることになったものの、結局は新しい男との生活の邪魔になるからと、この部屋を与えられただけだった。
だが、家族と同じ屋根の下で肩身の狭い思いをするよりは、よほど気が楽だった。
静はそれなりに、静かな生活を受け入れていた。
部屋に入ると電気をつける。
誰もいない暗い部屋に明かりが灯る瞬間が、少しだけ好きだった。
洗面所で手を洗い、うがいをする。
顔を上げると、鏡の中で醜い自分と目が合った。
丸い輪郭、細い目、小さな鼻と口。
どこをどう見ても、褒められる要素なんて一つもない。
それでも玲だけは、自分を“普通の人間”として扱ってくれる。
その事実だけが、静の心を満たしていた。
玲のことを思い出すと、自然と胸の鼓動が早くなる。
買い物に行こうとしたところで、ふと引き出しに目が止まり、通帳を取り出した。
今月の残高を確認して、小さく息を吐く。
母は企業の役員で、世間一般から見れば裕福な家庭だ。
だが静の口座に振り込まれるのは、最低限の生活費だけ。
食費だけは、なんとか助かっていた。
近所に住む高齢の大家が、高校生で一人暮らしをする静を心配し、娘夫婦が大量に食材を送ってくるため食べきれないということで静に分けてくれるのだ。
そのおかげで、食べることには困らなかった。
むしろ、中学生の頃より体重は大きく増えた。日常のストレスを食べている時だけ忘れることができたのだ。
風呂から上がると、髪も乾かさないまま床に寝転がり、天井を見つめる。
明日も、玲に会えたらいい。
そんな淡い期待を胸に抱いたまま、静は目を閉じた。
***
翌日。
登校して靴箱を覗くと、再び上履きが消えていた。
初めて玲と出会った日のことが、ふと頭をよぎる。
どうせ教室のゴミ箱に、汚れた状態で捨てられているのだろう。
そう思うだけで、胸が重くなった。
もう、このまま家に帰ってしまいたい。
この学校なんて、二度と来なくてもいい。
けれど、そうすれば母がすぐにこちらへ押しかけてくる。
不登校になるより、その方がよほど負担だった。
静の足は、教室ではなく屋上へ向かっていた。
あの時と同じように、裸足のままで。
この時間に玲がいないことは、わかっている。
それでも、二人で過ごした場所にいるだけで、心が少し和らいだ。
ゆっくりと階段を上る。
白い靴下は次第に黒ずんでいくが、そんなことはどうでもよかった。
重たい屋上の扉を押し開けて、扉の奥が見えた瞬間、静は息を飲んだ。
そこには、見覚えのある背中があった。
柵に肘をつき、体重を預けて、遠くの空を見つめている。
静は、そっと近づく。
触れたら気持ち悪いと思われるかもしれない。
汚いと、嫌われるかもしれない。
頭の中に聞こえる声を振り払うように、背後からそっと腕を伸ばし、脇腹あたりに触れた。
「……大丈夫?」
玲は勢いよく振り返った。
その瞬間、シトラスの香りが静の鼻先をかすめる。
「え!? 静!? なんでここにいんの?!」
「玲くんが、飛び降りちゃうんじゃないかと思って」
静はあの時と同じように冗談で言ったつもりだった。玲は「そんなわけないでしょ。」そんなふうに言って返してくれるかと思ったのに、玲は自嘲気味に笑った。
「そしたらさ……全部、どうでもよくなるってことだね」
その言葉に、胸がざわつく。
「玲くん、何か」
「静、上履きどうした?」
遮られた声と同時に、玲の視線が足元へ落ちる。
「あ、これは……忘れちゃって」
「……ふうん」
少しの沈黙のあと、玲は自分の上履きを脱ぎ、静の前に片膝をついた。
「え? どうしたの?」
「どうぞ、王子様」
冗談めかした声で言いながら、静の足首を掴み、上履きを履かせる。
その手つきは、驚くほど優しかった。
数センチ大きい上履きは、ぶかぶかで不格好だ。
もう片方も、同じように履かされる。
「なんで……それじゃ玲くんの足が汚れるよ…」
「いいの。とりあえず履いときな。
ちゃんとしたの持ってきたら、返してくれればいいから」
「でも……」
言葉を続けようとした瞬間、ひんやりとした手が静の手を包んだ。
「静の手、あったかいね」
太陽の光に照らされた玲の笑顔が、あまりにも眩しくて。
微笑み返した瞬間、静の視界が滲んだ。
泣いてはいけない。
そう思えば思うほど、涙が溢れて止まらなかった。
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