あいみるのときはなかろう

穂祥 舞

文字の大きさ
38 / 47
秋の匂い

8月⑰

しおりを挟む
 三喜雄は、札幌市が誇るコンサートホールの小リハーサル室に入り、予選で弾いてくれた関谷よりも若い男性ピアニストに挨拶した。ピアノより大型管楽器が似合いそうな、がっちりした体躯の林は、場馴れしていない高校生についてきたのが日本で5本の指に入るバリトンであることに、明らかに仰天した。
 林は藤巻に丁寧に挨拶する。関谷とも知り合いらしく、三喜雄が歌う2曲の楽譜を譜面置きに広げながら言った。

「『オンブラ・マイ・フ』からでいいですか? 関谷先生からね、スーパーボーイだからしっかり伴奏しろと言われまして……」
「あ、はい、何かすみません、別に大したことないので……」

 この業界の狭さに半ばおののきつつ、三喜雄はおずおずとピアノの傍に立つ。少し緊張していたが、気持ちは落ち着いていた。やるべきことをやるだけだ。4分の3拍子で優しい前奏が始まる。



 高崎は昨日、父親と共に学校に来て、担任や松倉、そして校長に会った筈である。三喜雄は彼の姿を見ていないが、おそらく伝えたのだろう……退学を希望していることを。
 その前夜、準本選前の最後のピアノ合わせができなくなったことを、高崎は連絡してきたのだった。帯広から出てきた両親が傍にいるので、電話では話せないと彼は伝えてきて、全てがメールでのやり取りになった。だが高崎の文章は彼の話し方と同様、明瞭でわかりやすかった。
 きみが退学することはないと三喜雄は訴えたが、高崎の決意が覆ることはなかった。須々木の両親が、謝罪と警察沙汰にしてほしくない旨を伝えてきて了承したが、学校で噂は立つだろう。それに悩まされたくない。また、須々木に怪我をさせたことは事実なので、その現場に卒業まで通い続けるのは心理的に負担だ。そう高崎は書いてきた。
 三喜雄は思いきって、帯広に帰るのは須々木のためもあるのかと尋ねた。それに対して高崎は、もう今はそんな気持ちは無いと答えた。彼は以前の歯切れの悪さとは打って変わって、須々木に対する自分の思いをはっきり述べたのだった。

「実家から札幌に出てきた僕を気遣い、初めて描き方の基礎を手取り足取り教えてくれた須々木先輩が好きになりました。すげない態度を取られるようになってからも、いつかまた以前のように接してくれるだろうと信じていたのですが、あの時心底失望しました。先輩は、『俺のことが好きなのはわかっている、俺もおまえが好きだから、卒業する俺のためと思って、コンペティションに出すのを辞めてくれないか』と僕に言いました。誰の作品が出るか決まっていないのに、そんなことはできないと答えると、先輩は逆上しました。後はご覧になった通りです。」

 三喜雄は呆れ、須々木を心から軽蔑した。そしてやはり、あんな男のせいで高崎が学校を去ろうとしていることが、腹立たしくなる。高崎はつけ足してきた。

「僕が札幌の高校に通うことを、父はずっと反対していました。だからここぞとばかりに、僕を帯広に連れ戻そうとしているのも事実です。ただ、今の僕は、父の猛反対を押し切ってまで札幌に残りたいと思っていません。僕は1年半、この高校で楽しく過ごしてきました。その思い出を、これから起こりうる苦々しい現実に汚されたくありません。」

 三喜雄は高崎が、本当は誰にも心を開いていないと知る。確かに嫌な噂は広まるだろうし、彼が他人を傷つけた事実は消えない。だが、そもそも彼は被害者であり、辛い時に支えてくれる者もいるはずだ。同居している祖父母、学校の教員、クラスや美術部の友人、グリーの連中もいる。そして、三喜雄も。でも高崎は、一切これらを当てにしていない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】年収三百万円台のアラサー社畜と総資産三億円以上の仮想通貨「億り人」JKが湾岸タワーマンションで同棲したら

瀬々良木 清
ライト文芸
主人公・宮本剛は、都内で働くごく普通の営業系サラリーマン。いわゆる社畜。  タワーマンションの聖地・豊洲にあるオフィスへ通勤しながらも、自分の給料では絶対に買えない高級マンションたちを見上げながら、夢のない毎日を送っていた。  しかしある日、会社の近所で苦しそうにうずくまる女子高生・常磐理瀬と出会う。理瀬は女子高生ながら仮想通貨への投資で『億り人』となった天才少女だった。  剛の何百倍もの資産を持ち、しかし心はまだ未完成な女子高生である理瀬と、日に日に心が枯れてゆくと感じるアラサー社畜剛が織りなす、ちぐはぐなラブコメディ。

【完結済】25億で極道に売られた女。姐になります!

satomi
恋愛
昼夜問わずに働く18才の主人公南ユキ。 働けども働けどもその収入は両親に搾取されるだけ…。睡眠時間だって2時間程度しかないのに、それでもまだ働き口を増やせと言う両親。 早朝のバイトで頭は朦朧としていたけれど、そんな時にうちにやってきたのは白虎商事CEOの白川大雄さん。ポーンっと25億で私を買っていった。 そんな大雄さん、白虎商事のCEOとは別に白虎組組長の顔を持っていて、私に『姐』になれとのこと。 大丈夫なのかなぁ?

煙草屋さんと小説家

男鹿七海
キャラ文芸
※プラトニックな関係のBL要素を含む日常ものです。 商店街の片隅にある小さな煙草屋を営む霧弥。日々の暮らしは静かで穏やかだが、幼馴染であり売れっ子作家の龍二が店を訪れるたびに、心の奥はざわめく。幼馴染としてでも、客としてでもない――その存在は、言葉にできないほど特別だ。 ある日、龍二の周囲に仕事仲間の女性が現れ、霧弥は初めて嫉妬を自覚する。自分の感情を否定しようとしても、触れた手の温もりや視線の距離が、心を正直にさせる。日常の中で少しずつ近づく二人の距離は、言葉ではなく、ささやかな仕草や沈黙に宿る。 そして夜――霧弥の小さな煙草屋で、龍二は初めて自分の想いを口にし、霧弥は返事として告白する。互いの手の温もりと目の奥の真剣さが、これまで言葉にできなかった気持ちを伝える瞬間。静かな日常の向こうに、確かな愛が芽吹く。 小さな煙草屋に灯る、柔らかく温かな恋の物語。

『続・聖パラダイス病院』

菊池昭仁
現代文学
『聖パラダイス病院』の続編です。こんな病院なら入院生活も悪くはありません。

一億円の花嫁

藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。 父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。 もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。 「きっと、素晴らしい旅になる」 ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが…… 幸か不幸か!? 思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。 ※エブリスタさまにも掲載

イケメン警視、アルバイトで雇った恋人役を溺愛する。

楠ノ木雫
恋愛
 蒸発した母の借金を擦り付けられた主人公瑠奈は、お見合い代行のアルバイトを受けた。だが、そのお見合い相手、矢野湊に借金の事を見破られ3ヶ月間恋人役を務めるアルバイトを提案された。瑠奈はその報酬に飛びついたが……

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。 カレンと晴人はその後、どうなる?

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

処理中です...