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秋の匂い
8月⑱
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静かな悲しみが三喜雄を襲った。俺は、俺たちはそんなに頼りにならないか。そう打ち込もうか迷っていると、先に高崎から言葉が来た。
「片山先輩には本当に迷惑をかけ、大事な時なのに心を煩わせてしまいました。ごめんなさい。あの日、伴奏がとてもうまくいったことと、保健室まで背負ってくれ、夕方までずっと付き添っていてくれたこと、忘れません。須々木さんより先に片山さんと出会っていたら、違った高校生活があったかもしれません。などと言ったって、始まらないとは心得ています。けれど、それだけは伝えたかったのです。先輩の残りの高校生活と大学での日々が、良いものとなるよう祈っています。本当にごめんなさい。そして、ありがとうございました。」
「はなばかり、さくらよこちょう……」
鼻の奥が痛くなるのを堪えたせいで、音が少し揺れた。哀しく引きずる後奏が消えていく。
「どうですか? テンポとかフェルマータの長さは、僕はいいと思いましたけど」
林がこちらを見ながら言う。三喜雄も、初めて合わせるのによくついて来てくれたと感じた。これがプロの仕事だ。部屋の隅に座って聴いていた藤巻も、いいと思うよ、と言った。
「本番はそれ以上早くならないほうがいいな、三喜雄くんは緊張して走らないように」
藤巻の注意に頷き、林を振り返って礼を言った。林はにこにこしながら、日曜もよろしくお願いします、と応じてくれた。
「片山くん、このホールで歌うのは初めて?」
「はい、来るのも初めてです」
「大ホール覗いて帰るといいですよ、今夜コンサートあるから照明入ってるし、コンクールの下見だって言ったら入れてくれます」
林の勧めるままに、藤巻と大ホールの舞台袖に向かった。
「よく我慢した、泣いても構わないけど声は切らしちゃいけない、聴くほうが白けてしまうからね」
藤巻が小さく言う。
「心情が歌にマッチし過ぎて辛いこともあるし、悲しくても喜びの歌を歌わなきゃならないこともある……でも何があろうと最後まで歌い切るのが歌い手の使命だ」
三喜雄ははい、すみません、と呟いた。修羅、という言葉が脳内にぽっと浮かんだ。
暗い舞台袖では数人の係員がうろうろしており、藤巻が舞台に上がりたいと声をかけると、どうぞ、とあっさりと言ってくれた。
「足元気をつけて下さい」
「ありがとうございます」
木の床を踏みしめて、明るい場所に出る。三喜雄は会場の煌びやかさに息を飲んだ。予選のホールとは違ってほぼ目の高さに客席があり、後方の席からは舞台を軽く見下ろされる感じになる。背後にパイプオルガンが構えて、その周りにも席があった。天井が高く、見上げると吸い込まれそうだ。
藤巻が凄いな、と感心して、客席を指差す。
「声楽のコンクールは舞台より後ろの席やバルコニーにお客さんを入れないと思う、でもここの席数は2000だ」
その数に三喜雄は一瞬、息を止めた。藤巻はちらっと笑う。
「満席にはならないだろうけど、2000人に聴かせるつもりで思いきり歌え」
三喜雄はしばらく言葉を失くして、ホールを見渡した。こんなところで歌うのか。
「大声は出さなくていい、反響板が助けてくれるから、いい響きさえ作れたら予選のホールより楽に歌える筈だ」
ホールの人たちが親切なのをいいことに少し歌わせてもらい、藤巻と響きを確認した。すり鉢タイプのホールは、音の通りかたが独特らしいことが何となくわかる。だからどうすればいいのかちょっとよくわからないが、とにかく残響が心地良いので、歌いながら少し高揚するのを三喜雄は感じた。
おにいちゃんいい声だね、週末頑張って、と、父と祖父のあいだくらいの年齢の男性から声をかけられたのも気分が良かった。そう、やるべきことをやるだけだ。三喜雄はもう一度客席を振り返って、眩しい修羅の道に続く舞台から去った。
「片山先輩には本当に迷惑をかけ、大事な時なのに心を煩わせてしまいました。ごめんなさい。あの日、伴奏がとてもうまくいったことと、保健室まで背負ってくれ、夕方までずっと付き添っていてくれたこと、忘れません。須々木さんより先に片山さんと出会っていたら、違った高校生活があったかもしれません。などと言ったって、始まらないとは心得ています。けれど、それだけは伝えたかったのです。先輩の残りの高校生活と大学での日々が、良いものとなるよう祈っています。本当にごめんなさい。そして、ありがとうございました。」
「はなばかり、さくらよこちょう……」
鼻の奥が痛くなるのを堪えたせいで、音が少し揺れた。哀しく引きずる後奏が消えていく。
「どうですか? テンポとかフェルマータの長さは、僕はいいと思いましたけど」
林がこちらを見ながら言う。三喜雄も、初めて合わせるのによくついて来てくれたと感じた。これがプロの仕事だ。部屋の隅に座って聴いていた藤巻も、いいと思うよ、と言った。
「本番はそれ以上早くならないほうがいいな、三喜雄くんは緊張して走らないように」
藤巻の注意に頷き、林を振り返って礼を言った。林はにこにこしながら、日曜もよろしくお願いします、と応じてくれた。
「片山くん、このホールで歌うのは初めて?」
「はい、来るのも初めてです」
「大ホール覗いて帰るといいですよ、今夜コンサートあるから照明入ってるし、コンクールの下見だって言ったら入れてくれます」
林の勧めるままに、藤巻と大ホールの舞台袖に向かった。
「よく我慢した、泣いても構わないけど声は切らしちゃいけない、聴くほうが白けてしまうからね」
藤巻が小さく言う。
「心情が歌にマッチし過ぎて辛いこともあるし、悲しくても喜びの歌を歌わなきゃならないこともある……でも何があろうと最後まで歌い切るのが歌い手の使命だ」
三喜雄ははい、すみません、と呟いた。修羅、という言葉が脳内にぽっと浮かんだ。
暗い舞台袖では数人の係員がうろうろしており、藤巻が舞台に上がりたいと声をかけると、どうぞ、とあっさりと言ってくれた。
「足元気をつけて下さい」
「ありがとうございます」
木の床を踏みしめて、明るい場所に出る。三喜雄は会場の煌びやかさに息を飲んだ。予選のホールとは違ってほぼ目の高さに客席があり、後方の席からは舞台を軽く見下ろされる感じになる。背後にパイプオルガンが構えて、その周りにも席があった。天井が高く、見上げると吸い込まれそうだ。
藤巻が凄いな、と感心して、客席を指差す。
「声楽のコンクールは舞台より後ろの席やバルコニーにお客さんを入れないと思う、でもここの席数は2000だ」
その数に三喜雄は一瞬、息を止めた。藤巻はちらっと笑う。
「満席にはならないだろうけど、2000人に聴かせるつもりで思いきり歌え」
三喜雄はしばらく言葉を失くして、ホールを見渡した。こんなところで歌うのか。
「大声は出さなくていい、反響板が助けてくれるから、いい響きさえ作れたら予選のホールより楽に歌える筈だ」
ホールの人たちが親切なのをいいことに少し歌わせてもらい、藤巻と響きを確認した。すり鉢タイプのホールは、音の通りかたが独特らしいことが何となくわかる。だからどうすればいいのかちょっとよくわからないが、とにかく残響が心地良いので、歌いながら少し高揚するのを三喜雄は感じた。
おにいちゃんいい声だね、週末頑張って、と、父と祖父のあいだくらいの年齢の男性から声をかけられたのも気分が良かった。そう、やるべきことをやるだけだ。三喜雄はもう一度客席を振り返って、眩しい修羅の道に続く舞台から去った。
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