あいみるのときはなかろう

穂祥 舞

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秋の匂い

8月⑰

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 三喜雄は、札幌市が誇るコンサートホールの小リハーサル室に入り、予選で弾いてくれた関谷よりも若い男性ピアニストに挨拶した。ピアノより大型管楽器が似合いそうな、がっちりした体躯の林は、場馴れしていない高校生についてきたのが日本で5本の指に入るバリトンであることに、明らかに仰天した。
 林は藤巻に丁寧に挨拶する。関谷とも知り合いらしく、三喜雄が歌う2曲の楽譜を譜面置きに広げながら言った。

「『オンブラ・マイ・フ』からでいいですか? 関谷先生からね、スーパーボーイだからしっかり伴奏しろと言われまして……」
「あ、はい、何かすみません、別に大したことないので……」

 この業界の狭さに半ばおののきつつ、三喜雄はおずおずとピアノの傍に立つ。少し緊張していたが、気持ちは落ち着いていた。やるべきことをやるだけだ。4分の3拍子で優しい前奏が始まる。



 高崎は昨日、父親と共に学校に来て、担任や松倉、そして校長に会った筈である。三喜雄は彼の姿を見ていないが、おそらく伝えたのだろう……退学を希望していることを。
 その前夜、準本選前の最後のピアノ合わせができなくなったことを、高崎は連絡してきたのだった。帯広から出てきた両親が傍にいるので、電話では話せないと彼は伝えてきて、全てがメールでのやり取りになった。だが高崎の文章は彼の話し方と同様、明瞭でわかりやすかった。
 きみが退学することはないと三喜雄は訴えたが、高崎の決意が覆ることはなかった。須々木の両親が、謝罪と警察沙汰にしてほしくない旨を伝えてきて了承したが、学校で噂は立つだろう。それに悩まされたくない。また、須々木に怪我をさせたことは事実なので、その現場に卒業まで通い続けるのは心理的に負担だ。そう高崎は書いてきた。
 三喜雄は思いきって、帯広に帰るのは須々木のためもあるのかと尋ねた。それに対して高崎は、もう今はそんな気持ちは無いと答えた。彼は以前の歯切れの悪さとは打って変わって、須々木に対する自分の思いをはっきり述べたのだった。

「実家から札幌に出てきた僕を気遣い、初めて描き方の基礎を手取り足取り教えてくれた須々木先輩が好きになりました。すげない態度を取られるようになってからも、いつかまた以前のように接してくれるだろうと信じていたのですが、あの時心底失望しました。先輩は、『俺のことが好きなのはわかっている、俺もおまえが好きだから、卒業する俺のためと思って、コンペティションに出すのを辞めてくれないか』と僕に言いました。誰の作品が出るか決まっていないのに、そんなことはできないと答えると、先輩は逆上しました。後はご覧になった通りです。」

 三喜雄は呆れ、須々木を心から軽蔑した。そしてやはり、あんな男のせいで高崎が学校を去ろうとしていることが、腹立たしくなる。高崎はつけ足してきた。

「僕が札幌の高校に通うことを、父はずっと反対していました。だからここぞとばかりに、僕を帯広に連れ戻そうとしているのも事実です。ただ、今の僕は、父の猛反対を押し切ってまで札幌に残りたいと思っていません。僕は1年半、この高校で楽しく過ごしてきました。その思い出を、これから起こりうる苦々しい現実に汚されたくありません。」

 三喜雄は高崎が、本当は誰にも心を開いていないと知る。確かに嫌な噂は広まるだろうし、彼が他人を傷つけた事実は消えない。だが、そもそも彼は被害者であり、辛い時に支えてくれる者もいるはずだ。同居している祖父母、学校の教員、クラスや美術部の友人、グリーの連中もいる。そして、三喜雄も。でも高崎は、一切これらを当てにしていない。
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