思い出さなければ良かったのに

田沢みん

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26、ありがとう、愛してる

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 俺たちは沢山キスをして、抱き合って、いろんな話をした。

 恋心も自覚せずに、ただただ一緒にいた幼い頃のこと。

 異性として意識し始めた時のこと。

 写真部の部室。
 窓から流れ込んでくる軽快な音楽と楽しそうな笑い声。
 見下ろせば彩乃が手を振って、俺も振り返して。
 あの時間が大好きだった。

『ただの幼馴染だよ』
 学校でみんなに聞かれるたびに声を揃えて否定して。
 好きなのに好きと言えずにカッコつけて。
 だけど両想いで付き合えることになって。

 横浜と東京に離れてたまにしか会えなくなって。
 頑張って乗り越えて同棲して。

 喧嘩をしたこともあったけど、夜になって布団の中でどちらともなく手を握り合って。
『ごめんな』、『ごめんね』。同時に謝ってキスをして。それですぐに仲直り出来た。

 前に進むために離れることを決めた。
 会えない3年間は辛かったけれど、帰って来たら今度こそずっと一緒にいられると思っていた。

 そうなるはずだった。

ーーそう思っていたのにな。



 外が明るくなって来た。
 シャッとカーテンを開けて、眩しさに目を細める。
 濃紺と紫とオレンジ色が、見事なグラデーションを描いている。

 もう見ることもないであろう景色を、ゆっくりと目に焼き付けた。

「良かった。朝日を浴びても身体が溶けなかった」
「それはドラキュラでしょ」
「ハハッ」

 俺には分かる、まだ大丈夫だ。

ーーだけど、もうすぐ……。

「俺は……何なんだろうな。地縛霊?」
「雄大は雄大だよ。私の彼氏だよ」
「………。」

「雄大は……私の彼氏で、未来の夫。そうでしょ?」

 それには何も答えることが出来なくて。


「彩乃、写真を撮ってやるよ」
「えっ……」

 テーブルに手を伸ばし、ケーキの横に置かれていたカメラを手に取る。
 Nikon D850。俺と苦楽を共にした愛機。

「彩乃がもらってくれたんだな」
「……うん、真理子さんが、私がもらってくれたら雄大も喜ぶだろうって」

「ハハッ、大正解。 彩乃が持ってて。いらなくなったら質屋に持ってけ。 こんな傷だらけの、売れないけどな」
「売らないよ……絶対」

 彩乃は俺の手にあるカメラをジッと見つめる。
 細かい傷がいっぱいついてるけど、これは旅の途中で少しずつ増えていったもの。
 俺の3年間の闘いの証だ。

 幸いにも事故の時は無事だったらしい。壊れていなさそうだ。

 手にしっくり馴染んだその重みと硬質な感触を噛み締めながら、俺は生まれて初めて、そして最期に、愛する女にカメラを向ける。

「俺さ、ちゃんと女性の写真を撮るのは、お前が一番最初だって決めてたんだよな……」
「うん……そして、私だけね」
「……そうだな」


「彩乃、笑って」……レンズを覗き込めば、そこに写っているのは泣き笑いの微妙な表情かお

「ハハッ、最初で最期なのに、ブサイクな顔してるぞ」
「馬鹿っ……」

「嘘だよ。お前はめちゃくちゃ可愛い。美人、世界一綺麗。千年に一度の天使」
「ふふっ……もう天使って歳じゃなくなっちゃった」

「お前は天使だよ。俺の大事な、大好きな……」
「雄大……」

 カシャッ!

ーーうん、やっぱりいいな、カメラのシャッター音は。

 幽霊が撮った写真ってちゃんと残るのかな……そう言いながら俺が差し出したカメラを、彩乃は両手で大切そうに、そっと受け取った。

「雄大、もう一度キスして」

 柔らかくて温かい唇が触れる。

 キスをしながら彩乃の手を取って、薬指から指輪を抜き取る。
 それは関節にちょっと引っ掛かっただけで、少し力を入れたらスルリと抜けた。
 
「雄大?」
「彩乃、この指輪は俺がもらって行くよ」
「駄目っ!」

 彩乃が取り返そうとするのを、手を高く上げて避ける。

「返してっ! お願いだからそれは持って行かないで!」
「駄目だっ! こんなのがあったらお前はいつまで経っても俺を忘れられないだろ!」

 だってお前って情の深い女じゃん。
 こんな馬鹿な男を何年も待っちゃうようなお人好しじゃん。
 俺に操を立てて、指輪を外さないだろう?
 そんな事してたら、この先ずっと新しい男を作れないに決まってる。

 だってお前、俺のことが大好きだろ?
 俺だってお前のことが大好きだけどな!


「お前はもうこれ以上、時間を無駄にしなくてもいいんだ。お前の人生を生きてくれ」
「それでいい! 雄大以外にいらない!」

 駄目だよ。
 お前みたいないい女は幸せにならなきゃいけないんだ。

 馬鹿な男に振り回された分、これからは誰よりも最高の幸せを掴むんだ。

 悔しいけれど、寂しいけれど……お前はいつかまた、新しい恋をする。そうじゃなきゃいけないんだ。


「彩乃、お願いだから、幸せになって」
 
 俺がここに来る事が出来たのは、きっとお前にこれを伝えるためだったんだ。

 今までありがとう。愛してる。さようなら。
 絶対に幸せになって。


 だけど……そうだな。

「彩乃、指を貸して」
「えっ?」

「噛んでもいい?」
「……いいよ」

 彩乃が白い指先をこちらに差し出す。
 両手でそっと掴んで持ち上げると、薬指に唇を押し付ける。愛を込めて、想いを込めて。
 長い間そうしてから、その付け根に力任せに噛み付いた。

 ガリッと歯が肉に食い込む感覚と、コリッと当たる骨の硬さ。

 離れた時には、くっきりついた歯型から、ジンワリと血が滲んでいた。

「ごめん……痛いよな」
「ううん、嬉しい。もっと痕をつけて」

 オデコに、耳に、頬に口づけて、最後に首筋に吸い付いた。ジュッという音がして、赤紫の花びらが散る。

「ハハッ、本当に吸血鬼みたいだな」
「もう、吸血鬼でもなんでもいいよ。ここにいてくれるなら」
「ハハッ」

 彩乃、ごめんな。
 だけどそれは無理なんだ。

 一緒にいられないのに痕を残してごめんな。
 でもさ、俺はわがままだから……これが消えるまででいいから、俺を覚えていて欲しいな……なんて思ってしまうんだ。

「これが消えたらさ……俺のことなんて全部忘れて、新しい男を見つけろよ」
「嫌だよ、馬鹿」

 嫌だよ。本当は忘れてほしくなんか、ないんだよ。
 ずっと俺を思い続ければいい。
 一生1人でいればいい。

 だけど俺はカッコつけだからな。
 心にもないことだって言えちゃうんだぜ。

「大丈夫、彩乃はいい女だから、周りの男が放っておかないって」
「だったら雄大がそばにいて蹴散らせばいい」
「ハハッ、そうしたいけど……」

 そう言いながらも、彩乃の言葉に喜んでいる俺がいるんだ。
 この痕がずっと消えなければいいって思ってるんだ。
 
 俺ってホント、未練がましいな。
 ごめんな、勝手だよな。酷い奴だよな……。


 フッ……と身体が軽くなった感覚があった。

ーーあっ……。

 両手を見る。手のひらの向こう側に床が透けている。

ーーああ、そうか……。

 俺の手が、腕が、脚が透けていく。
 バッと顔を上げて彩乃を見た。

 両手で口元を覆い、目を見開いている。

 うん、そうなんだ。いよいよその瞬間ときが来たんだよ。

 彩乃が駆け寄って、抱きついて来た。
 だけど既に感覚が曖昧で……。

ーーうん、最期に会えて良かったな……。

 いや、違うか。最期のその時に会えなくて、未練がましくここに現れたんだ。
 俺ってやっぱり馬鹿だな。帰って来るのが遅過ぎたよな……。


「彩乃、ごめんな……ありがとう、愛してる。幸せになって……」

 ゆっくりと目蓋を閉じる、その刹那。
 最期に網膜に焼き付いたのは、アイツの泣き顔。

 そして……

 カシャッ!

 真っ白いフラッシュの閃光に目を瞑ると、そのあとは『無』になった。
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