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27、思い出さなければ良かったのに

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 透けていく。
 彼の身体の向こう側に、キャンドルの揺らめく灯りが、キッチンが、部屋の壁が見えている。

「嫌だ! 雄大、行かないで!」

 駄目っ! 駄目だよ。
 やっと帰って来たのに、誕生日のお祝いだってまだなのに。

 忘れろ、忘れろ、忘れてしまえ!

 もう一度全てを忘れて、私といるためだけに、この場にとどまり続ければいい。

ーーだってあなたは、私との約束を果たしに帰って来てくれたんでしょう?





『俺の写真が大賞を取った。帰る』

 突然届いた彼からのメール。
 ほんの短いその一文が、どんな長文よりも価値あるラブレターだった。

『おめでとう、待っています』

 震える指で打ち込んで、涙で顔をクシャクシャにしながら送った返事。
 今の私の顔を見たら、きっと雄大は「ブサイクだな」と笑うだろう。

 それでもいい、早く会いたい……と思った。

ーーもうすぐ会えるんだ……。

 もっと顔がグシャグシャになった。

 雄大に涙を拭いてもらう姿を想像したら、とうとう感情が決壊した。
 両手で顔を覆って、声を上げて泣いた。


『もうすぐ帰るから』
『うん、待ってる』

 成田空港からメールが来た。

 ドキドキしながらアパートで待機する。
 
 この日のために半日のお休みをもらった。
 昨日美容院に行って毛先だけカットした。お洒落なワンピースを着て、化粧は濃すぎず薄すぎず。
 3年ぶりに会ったらいい女になってたって言わせてやる。


 だけど……。

 次に届いたのは、雄大の母親から聞かされた悲報だった。




「姉ちゃん、本当に大丈夫なのかよ」
「うん、大丈夫」

 葬式の帰り、必要ないと言うのに晴人がアパートまでついて来た。

 雄大が座るはずだったローソファーの定位置に弟がいる。
 どうしてこんな事になっているんだろう。

「晴人、ありがとう。もう帰りなよ」
「でも……」

 それでも晴人は動こうとしない。

「俺も母さん達も姉ちゃんが心配なんだよ。 こんな事は言いたくないけどさ……雄大の後を追おうとするんじゃないかって考えちゃって……」

「しないよ」

 即答したら、晴人が驚いた顔をした。
 驚くことないのに。死のうだなんてこれっぽっちも考えてない。

 だって明日も午後から仕事が入っている。
 雄大は一生懸命に仕事をする私が好きだと言っていた。 頑張れって、応援するって言ってくれた。

ーーいい加減な事をしたら嫌われちゃうじゃん。

「雄大のことを想いながら、1人で静かに誕生日を過ごしたいの。 お願い、そうさせてもらえないかな」

 絶対に大丈夫だから、また電話するからと力強く頷いて見せたら、晴人は何度も心配そうに振り返りつつ帰って行った。


ーーやっと1人になれた……。

 一昨日から散々泣き続けて、もう涙も枯れ果てた。
 頭がぼんやりして身体が重い。 今は何も考えたくない。


 フラリと立ち上がり、キッチンに向かう。
 冷蔵庫から誕生日ケーキを取り出して、ガラステーブルに置いた。
 29の数字のキャンドルに自分で火を灯す。
 本当なら雄大の役目だったのに。

 一緒にケーキ入刀して、『2度目の共同作業だね』って言って、『3度目は本当のウエディングケーキがいいな』って言ってやろうと思っていて……。

 雄大の遺品のカメラをケーキの隣に置いた。出発する少し前に買ったカメラは、既にあちこち傷付いている。
 3年間頑張ったんだね、御苦労様。

 キャドルの薄明かりの中、 カメラをジッと眺めて、左手の薬指の指輪を灯にかざして見つめて。

ーー雄大はちゃんと約束を果たそうとしてくれてたんだ。

 最高の1枚を撮って凱旋帰国して、 最高のプロポーズをしようと準備してくれていた。

 あとは帰って来るだけだったのに……。

ーー雄大、一番大事な約束を果たしてないよ!
 帰って来てよ! 一緒に29歳の誕生日を祝ってくれるって言ったでしょ!



「……ただいま」

 肩がピクンと跳ねる。

ーーああ……。

 聞きたくて聞きたくて、聞きたくてたまらなかった、 懐かしい声。

 ほらね、 あなたはちゃんと帰って来てくれた。

 後ろから前に回された腕。
 冷んやりとしている。

 だけど大丈夫、ちゃんと触れられる。 感じられる。

 
「ごめんな、ずっと待たせて」
「遅いよ……バカ」

 涙がこみ上げて来た。 あんなに泣いたのに、まだ出るのか。
 でも泣いちゃダメだ。雄大が気付いてしまう。絶対に思い出させてはいけない。 絶対に。

 彼は幽霊なのだろうか。 私が作り出した幻なのだろうか。
 何でもいい。 彼はここにいる。 手で触れて、口づけて、 抱き合って……。

 冷たい指先で髪を梳き、 氷のような唇で言葉を紡ぐ。
 それで十分。 他には何もいらない。

 だからずっと、ここにいて……。

 
「もういいよ、考えなくて」
「何も考えないで。思い出さなくていいから」
「もういいじゃない、何も考えなくて」


 なのにあなたは思い出してしまった。



「彩乃、写真を撮ってやるよ」

 ずっとスマホでしか撮ろうとしなかったあなたが、初めて自分のカメラを構えてくれた。

 最高の笑顔を見せたいのに、バカヤロー、思いっきりブサイクじゃん。

「ハハッ、最初で最期なのに、ブサイクな顔してるぞ」

 ほらみろ、やっぱり言い放った。
 だけどその後でいっぱい褒めてくれた。
 そんな不意打ち、卑怯だよ。 やっぱり笑顔が作れないじゃん。

 でもいいや。
 あなたのモデルにやっとなれた。やっと……やっとだ……。

 ありがとう。嬉しいよ、雄大。

ーー愛してるよ。


 カシャッ!


 あなたの手が、足が、どんどん透けていく。
 身体の向こう側に、キャンドルの揺らめく灯りが、キッチンが、部屋の壁が見えている。

 フワリと微笑むあなたの瞳が潤んでいて、そこには濃紺と紫とオレンジ色の美しい空が写っていた。
 私の涙も、この景色と共に、あなたの記憶に残ってくれるだろうか。


「彩乃、ごめんな……ありがとう。愛してる。幸せになって……」

 最後の言葉は、そよ風のように耳元を通り過ぎて消えて行った。


 私はまたテーブルの前に座り、ケーキを見て、カメラを見て、薬指を見る。

 だけどいくら待ってももう、「ただいま」の声は聞こえてくれなかった。

 もう一度、左手の薬指を見る。
 そこにはもう指輪は無く、血の滲む歯型が残るだけ。
 そこに口づけながら、一生消えないで……と願った。

 
ーー雄大のバカ……。

 指輪くらい置いていけ。
 私が他の人を好きになったら絶対に悔しがるくせに。
 最期までカッコつけのヘタレを発揮してるんじゃないわよ!
  
 雄大……私は『花嫁さん』になりたかったんじゃない。『雄大のお嫁さん』になりたかったんだよ……。

「馬鹿……バカ雄大……」

 私との約束だけを覚えていれば良かったのに……こんな時だけちゃっかり全部思い出しちゃって……。


「馬鹿ね……思い出さなければ良かったのに」


 1LDKのアパート。
 電気のついていない部屋のガラステーブルには丸いケーキ。
 29の数字の形をしていたキャンドルは、すっかり溶けて消えていた。

 朝の淡い光が差し込む幻想のような部屋に、1人きり。
 私は傷だらけのカメラを胸に抱えたまま、声を上げて泣いた。




Fin
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