きっと世界は美しい

木原あざみ

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 大学生活の四年間は、人生で一番、自由で楽しい時間だと思うよ。
 電話の向こうで、一番上の兄貴が笑っている。だから、おまえも楽しめよ、なんて。人生の先輩面で。

 ……あぁ、そりゃ楽しかったんだろうよ。

 心の中で悠生は盛大に毒づいた。そりゃ、楽しかったんだろうよ、あんたは。
 なんせ、大学在学中に出会った演劇にのめり込んで、それまでのエリートコースからドロップアウトして。それで、そのまま演劇の世界にどぶんと飛び込んだんだもんな。
 あんたが好き勝手に人生を謳歌したおかげで、俺がどれだけ面倒を被ったと思ってるんだ。
 そんなことを考えていたら無性に腹が立ってきて、無言で通話を打ち切った。
 どうせ、義理でかけてきた電話だ。一人暮らしを始めた末弟に、大学の入学祝いも兼ねて一声かけておこうと考えただけ。
 あいつが可愛がっているのは俺ではなく、二番目の、これまた俺に重しを押し付けて出ていった兄貴だけ。

 案の定、それ以降、電話は一度も鳴らなかった。


「えーと、真木くん、だったよね」

 躊躇いがちの呼びかけに、机の上を片付けていた手を止めて顔を上げる。視界の半分以上を覆い隠す前髪の隙間から、女子学生の愛想笑いが見えた。
 入学ガイダンスが終わって講義が始まるようになって一週間強。三十名ほどしかいない小規模な学科で、必修の講義もほとんど同じ顔触れであるのだが、悠生は同期生の名前も顔も、ほとんど覚えていなかった。
 なんと答えていいのかわからず黙っていると、彼女が再び気まずそうに口を開く。

「あのさ。真木くん、今週末の飲み会どうする? まだ真木くんだけ、うちの科のライングループ入ってないからさ」
「あぁ」

 そういうことか、と悠生は小さく頷いた。大学に進学しても、学級委員のような役割は自然と生まれるものらしい。

「ごめん。今週末は用事があって」
「そうなんだ、残念」

 台詞とは裏腹に、彼女の顔がほっと綻ぶ。分厚い眼鏡の奥からその笑顔を眺めて、まぁ、そうだろうな、と悠生は思った。
 せっかくの和やかな飲み会に、俺みたいな根暗で不愛想な人間に参加してほしくはないだろう。

「じゃあ、あの。よかったら、ラインのグループ登録だけでも」

 集まりごとがあるたびに別途で声をかけるのは面倒に違いない。誘われる理由はわかったが、悠生は首を横に振った。

「ごめん。俺、ラインやってない」
「えっ、そうなんだ。アプリ入れるだけだから、すぐできるよ? もしわからないなら、教えてあげようか」
「そういうの嫌いなんだ、ごめん」

 机上のものを鞄に適当に詰め込んで席を立つと、幾人かが入れ替わりにに女子学生の周囲に集まり出す。様子を窺っていたのだろう。

「なんだよ、あいつ。入学早々、感じ悪いな」
「本当、なに考えてんだろ。せっかく波音が声かけてあげたのに」
「ね、気にすることないよ、波音。それにしても、マジで協調性ないよね。あんな調子で教師になるつもりなのかな」

 こんな男がいたら、自分でも間違いなく感じが悪いと判断する。ついで、できることなら関わり合いになりたくないと思うだろう。
 だから、悠生は取り立てて気にせず講義室を突っ切った。今日の講義はこれが最後だ。早く家に帰ろうと扉に手をかけた瞬間。背中に届いたのは、ギスギスとし始めた空気を吹き飛ばすような声だった。

「大丈夫、大丈夫。もし、重要な連絡事項があったら、俺が伝えるから」
「えー、……でもぉ」
「実は下宿先が隣なんだよね、俺」

 だから任せて。あるいは、いいでしょ、と言わんばかりの明るい調子に、詰めていた息をそっと吐き出す。場違いな声の主が誰か、やっとわかったのだ。
 止まっていた指先に力を入れて扉を引く。廊下に出る直前、ちらりと振り返った講義室の中心で、笑っている華やかな顏。それは、つい二週間ほど前。隣に引っ越してきたのだと今時珍しく粗品を持って挨拶に来た男のものだった。
 笹原葵。唯一、この学科の中で覚えている男の名前を胸中で呟く。根暗な自分の対極にいる、太陽のような男の名前を。
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