きっと世界は美しい

木原あざみ

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28.変容(3)

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 結局、アルバイト先の同僚と別れ、自宅のドアを開けたのは、日付が変わったころになってからだった。幸い、明日は二限からなので、この時間の帰宅でもそこまでの負担はない。隣の部屋からは物音一つしなかった。あまり早く寝るタイプでもなかったはずだから、もしかすると笹原もどこかに遊びに行っているのかもしれない。悠生の比ではなく誘いの多い男だから、そうであってもなんら不思議ではなかった。

 溜息を吐いて鞄を置く。夏の湿気で衣服がじんわりと汗ばんでいた。シャワーを浴びて、寝てしまおう。
 そう思った矢先に、スマートフォンにメッセージが届いていたことに気が付いた。期待しないように意識して、画面をスライドさせる。表示された名前に、悠生は自制していたことに感謝した。一番上の兄だった。

 夏休みも地元に帰らなかったらしいけど、元気にやってるのか。母さん、寂しがってたよ。

 当たり障りのない文面だった。いつもだったら、また表面上だけ良い兄貴ぶっている、と穿った見方で一蹴していただろうメッセージ。
 それなのに、なぜか指先は、滅多に自分からは押さない番号を探していた。鼓膜に響く呼び出し音に、鼓動が騒めく。やっぱり切ろうかとの考えがよぎったのとほぼ同時に、繋がる。

「はい?」

 自分と似た静かな声に、スマートフォンを握る指先から知らず力が抜けた気がした。

「悠生だよね? どうした、珍しい。もしかして誰かと間違えた?」
「べつに」

 驚いているのは事実だろうが、悠生を拒絶していなければ、いきなりの電話を面倒に思っている声でもない。そのことに、ほっとした。

「間違ってはない、けど。メールくれてただろ、だから」
「あぁ」

 納得したように、スマートフォン越しに兄が笑ったことが分かった。それ以外に声も騒音も聞こえない。もう家の中なのだろうか。そういえば、悠生は兄がどこに住んでいるのかさえ知らない。

「おまえ、夏休み、一日も地元に戻らなかったんだって?」
「……兄貴たちだって、ほとんど帰ってきてなかっただろ」

 悠生がまだ実家にいたころに、兄たちは大学進学で家を離れていたのだ。どのくらいの頻度で戻ってきていたかなんて、よくよく知っている。

「俺たちとおまえとじゃ違うだろ」
「なにが違うんだよ」
「末っ子は母親にとっちゃ、いつまでも手がかかってかわいいもんなんだよ。特におまえは、いろいろと手間がかかってたから」
「べつに」

 あんたたちの所為で、俺が最後の希望になっただけだろう。堪えないのだから言ってもいいだろうと常々思っていた嫌味は、なぜか音にならななかった。

「アルバイトも始めたから。帰る暇がなかっただけ。ゴールデンウイークには一日戻ってたし、良いかなって」
「正月には戻ってやれよ」

 一応と言わんばかりに宥める台詞を挟んで、質問が続く。

「アルバイト、なに始めたんだ?」
「個人塾の講師」
「そうか。教育学部だもんな。ちょうど良いじゃないか。楽しいか?」

 少し考えてから、悠生は「うん」と頷いた。
 たぶん、楽しいと思うべきなのだろう。教えることは難しいけれど、生徒が少しでも理解してくれるとほっとする。肩ひじ張って疲れるけれど、授業内容の悩みなどを話すことができるアルバイト仲間もいる。

「そうか、良かったな。俺も安心した、その話を聞いて」

 和やかに兄と話していることが少し不思議で、据わりの悪い感情も確かにある。けれど、切りたいとは思わなかった。

「他は? なにか変わったことはあったか?」

 真っ先に思い浮かんだ顔を押し込んで、悠生は淡々と変化を並べ立てた。

「コンタクトにした」
「へぇ、ずっと嫌がってたのに」
「髪も切った」
「へぇ、意外」
「服とかも買ってみた」
「すごいな。大学デビューだ。写真送れよ。母さんにも見せてやったら喜ぶ……」
「なぁ、兄貴。どうしたら、好きになってもらえるの」

 笹原は、兄のどこに惹かれたのだろう。顔かたちではなく、夢に向かって邁進している姿勢だったのだろうか。人当たりもよく優しいところだったのだろうか。
 自分は、なりそこないのレプリカだ。見た目を取り繕っても、意味がない。そんなことも気づけなかった。
 あの日からの変化を羅列しても、どれも表面上の物事だけだ。俺は、なにも変わっていない。変われない。
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