29 / 39
28.変容(3)
しおりを挟む
結局、アルバイト先の同僚と別れ、自宅のドアを開けたのは、日付が変わったころになってからだった。幸い、明日は二限からなので、この時間の帰宅でもそこまでの負担はない。隣の部屋からは物音一つしなかった。あまり早く寝るタイプでもなかったはずだから、もしかすると笹原もどこかに遊びに行っているのかもしれない。悠生の比ではなく誘いの多い男だから、そうであってもなんら不思議ではなかった。
溜息を吐いて鞄を置く。夏の湿気で衣服がじんわりと汗ばんでいた。シャワーを浴びて、寝てしまおう。
そう思った矢先に、スマートフォンにメッセージが届いていたことに気が付いた。期待しないように意識して、画面をスライドさせる。表示された名前に、悠生は自制していたことに感謝した。一番上の兄だった。
夏休みも地元に帰らなかったらしいけど、元気にやってるのか。母さん、寂しがってたよ。
当たり障りのない文面だった。いつもだったら、また表面上だけ良い兄貴ぶっている、と穿った見方で一蹴していただろうメッセージ。
それなのに、なぜか指先は、滅多に自分からは押さない番号を探していた。鼓膜に響く呼び出し音に、鼓動が騒めく。やっぱり切ろうかとの考えがよぎったのとほぼ同時に、繋がる。
「はい?」
自分と似た静かな声に、スマートフォンを握る指先から知らず力が抜けた気がした。
「悠生だよね? どうした、珍しい。もしかして誰かと間違えた?」
「べつに」
驚いているのは事実だろうが、悠生を拒絶していなければ、いきなりの電話を面倒に思っている声でもない。そのことに、ほっとした。
「間違ってはない、けど。メールくれてただろ、だから」
「あぁ」
納得したように、スマートフォン越しに兄が笑ったことが分かった。それ以外に声も騒音も聞こえない。もう家の中なのだろうか。そういえば、悠生は兄がどこに住んでいるのかさえ知らない。
「おまえ、夏休み、一日も地元に戻らなかったんだって?」
「……兄貴たちだって、ほとんど帰ってきてなかっただろ」
悠生がまだ実家にいたころに、兄たちは大学進学で家を離れていたのだ。どのくらいの頻度で戻ってきていたかなんて、よくよく知っている。
「俺たちとおまえとじゃ違うだろ」
「なにが違うんだよ」
「末っ子は母親にとっちゃ、いつまでも手がかかってかわいいもんなんだよ。特におまえは、いろいろと手間がかかってたから」
「べつに」
あんたたちの所為で、俺が最後の希望になっただけだろう。堪えないのだから言ってもいいだろうと常々思っていた嫌味は、なぜか音にならななかった。
「アルバイトも始めたから。帰る暇がなかっただけ。ゴールデンウイークには一日戻ってたし、良いかなって」
「正月には戻ってやれよ」
一応と言わんばかりに宥める台詞を挟んで、質問が続く。
「アルバイト、なに始めたんだ?」
「個人塾の講師」
「そうか。教育学部だもんな。ちょうど良いじゃないか。楽しいか?」
少し考えてから、悠生は「うん」と頷いた。
たぶん、楽しいと思うべきなのだろう。教えることは難しいけれど、生徒が少しでも理解してくれるとほっとする。肩ひじ張って疲れるけれど、授業内容の悩みなどを話すことができるアルバイト仲間もいる。
「そうか、良かったな。俺も安心した、その話を聞いて」
和やかに兄と話していることが少し不思議で、据わりの悪い感情も確かにある。けれど、切りたいとは思わなかった。
「他は? なにか変わったことはあったか?」
真っ先に思い浮かんだ顔を押し込んで、悠生は淡々と変化を並べ立てた。
「コンタクトにした」
「へぇ、ずっと嫌がってたのに」
「髪も切った」
「へぇ、意外」
「服とかも買ってみた」
「すごいな。大学デビューだ。写真送れよ。母さんにも見せてやったら喜ぶ……」
「なぁ、兄貴。どうしたら、好きになってもらえるの」
笹原は、兄のどこに惹かれたのだろう。顔かたちではなく、夢に向かって邁進している姿勢だったのだろうか。人当たりもよく優しいところだったのだろうか。
自分は、なりそこないのレプリカだ。見た目を取り繕っても、意味がない。そんなことも気づけなかった。
あの日からの変化を羅列しても、どれも表面上の物事だけだ。俺は、なにも変わっていない。変われない。
溜息を吐いて鞄を置く。夏の湿気で衣服がじんわりと汗ばんでいた。シャワーを浴びて、寝てしまおう。
そう思った矢先に、スマートフォンにメッセージが届いていたことに気が付いた。期待しないように意識して、画面をスライドさせる。表示された名前に、悠生は自制していたことに感謝した。一番上の兄だった。
夏休みも地元に帰らなかったらしいけど、元気にやってるのか。母さん、寂しがってたよ。
当たり障りのない文面だった。いつもだったら、また表面上だけ良い兄貴ぶっている、と穿った見方で一蹴していただろうメッセージ。
それなのに、なぜか指先は、滅多に自分からは押さない番号を探していた。鼓膜に響く呼び出し音に、鼓動が騒めく。やっぱり切ろうかとの考えがよぎったのとほぼ同時に、繋がる。
「はい?」
自分と似た静かな声に、スマートフォンを握る指先から知らず力が抜けた気がした。
「悠生だよね? どうした、珍しい。もしかして誰かと間違えた?」
「べつに」
驚いているのは事実だろうが、悠生を拒絶していなければ、いきなりの電話を面倒に思っている声でもない。そのことに、ほっとした。
「間違ってはない、けど。メールくれてただろ、だから」
「あぁ」
納得したように、スマートフォン越しに兄が笑ったことが分かった。それ以外に声も騒音も聞こえない。もう家の中なのだろうか。そういえば、悠生は兄がどこに住んでいるのかさえ知らない。
「おまえ、夏休み、一日も地元に戻らなかったんだって?」
「……兄貴たちだって、ほとんど帰ってきてなかっただろ」
悠生がまだ実家にいたころに、兄たちは大学進学で家を離れていたのだ。どのくらいの頻度で戻ってきていたかなんて、よくよく知っている。
「俺たちとおまえとじゃ違うだろ」
「なにが違うんだよ」
「末っ子は母親にとっちゃ、いつまでも手がかかってかわいいもんなんだよ。特におまえは、いろいろと手間がかかってたから」
「べつに」
あんたたちの所為で、俺が最後の希望になっただけだろう。堪えないのだから言ってもいいだろうと常々思っていた嫌味は、なぜか音にならななかった。
「アルバイトも始めたから。帰る暇がなかっただけ。ゴールデンウイークには一日戻ってたし、良いかなって」
「正月には戻ってやれよ」
一応と言わんばかりに宥める台詞を挟んで、質問が続く。
「アルバイト、なに始めたんだ?」
「個人塾の講師」
「そうか。教育学部だもんな。ちょうど良いじゃないか。楽しいか?」
少し考えてから、悠生は「うん」と頷いた。
たぶん、楽しいと思うべきなのだろう。教えることは難しいけれど、生徒が少しでも理解してくれるとほっとする。肩ひじ張って疲れるけれど、授業内容の悩みなどを話すことができるアルバイト仲間もいる。
「そうか、良かったな。俺も安心した、その話を聞いて」
和やかに兄と話していることが少し不思議で、据わりの悪い感情も確かにある。けれど、切りたいとは思わなかった。
「他は? なにか変わったことはあったか?」
真っ先に思い浮かんだ顔を押し込んで、悠生は淡々と変化を並べ立てた。
「コンタクトにした」
「へぇ、ずっと嫌がってたのに」
「髪も切った」
「へぇ、意外」
「服とかも買ってみた」
「すごいな。大学デビューだ。写真送れよ。母さんにも見せてやったら喜ぶ……」
「なぁ、兄貴。どうしたら、好きになってもらえるの」
笹原は、兄のどこに惹かれたのだろう。顔かたちではなく、夢に向かって邁進している姿勢だったのだろうか。人当たりもよく優しいところだったのだろうか。
自分は、なりそこないのレプリカだ。見た目を取り繕っても、意味がない。そんなことも気づけなかった。
あの日からの変化を羅列しても、どれも表面上の物事だけだ。俺は、なにも変わっていない。変われない。
4
あなたにおすすめの小説
僕は何度でも君に恋をする
すずなりたま
BL
由緒正しき老舗ホテル冷泉リゾートの御曹司・冷泉更(れいぜいさら)はある日突然、父に我が冷泉リゾートが倒産したと聞かされた。
窮地の父と更を助けてくれたのは、古くから付き合いのある万里小路(までのこうじ)家だった。
しかし助けるにあたり、更を万里小路家の三男の嫁に欲しいという条件を出され、更は一人で万里小路邸に赴くが……。
初恋の君と再会し、再び愛を紡ぐほのぼのラブコメディ。
完結|好きから一番遠いはずだった
七角@書籍化進行中!
BL
大学生の石田陽は、石ころみたいな自分に自信がない。酒の力を借りて恋愛のきっかけをつかもうと意気込む。
しかしサークル歴代最高イケメン・星川叶斗が邪魔してくる。恋愛なんて簡単そうなこの後輩、ずるいし、好きじゃない。
なのにあれこれ世話を焼かれる。いや利用されてるだけだ。恋愛相手として最も遠い後輩に、勘違いしない。
…はずだった。
【完結】浮薄な文官は嘘をつく
七咲陸
BL
『薄幸文官志望は嘘をつく』 続編。
イヴ=スタームは王立騎士団の経理部の文官であった。
父に「スターム家再興のため、カシミール=グランティーノに近づき、篭絡し、金を引き出せ」と命令を受ける。
イヴはスターム家特有の治癒の力を使って、頭痛に悩んでいたカシミールに近づくことに成功してしまう。
カシミールに、「どうして俺の治癒をするのか教えてくれ」と言われ、焦ったイヴは『カシミールを好きだから』と嘘をついてしまった。
そう、これは───
浮薄で、浅はかな文官が、嘘をついたせいで全てを失った物語。
□『薄幸文官志望は嘘をつく』を読まなくても出来る限り大丈夫なようにしています。
□全17話
初恋ミントラヴァーズ
卯藤ローレン
BL
私立の中高一貫校に通う八坂シオンは、乗り物酔いの激しい体質だ。
飛行機もバスも船も人力車もダメ、時々通学で使う電車でも酔う。
ある朝、学校の最寄り駅でしゃがみこんでいた彼は金髪の男子生徒に助けられる。
眼鏡をぶん投げていたため気がつかなかったし何なら存在自体も知らなかったのだが、それは学校一モテる男子、上森藍央だった(らしい)。
知り合いになれば不思議なもので、それまで面識がなかったことが嘘のように急速に距離を縮めるふたり。
藍央の優しいところに惹かれるシオンだけれど、優しいからこそその本心が掴みきれなくて。
でも想いは勝手に加速して……。
彩り豊かな学校生活と夏休みのイベントを通して、恋心は芽生え、弾んで、時にじれる。
果たしてふたりは、恋人になれるのか――?
/金髪顔整い×黒髪元気時々病弱/
じれたり悩んだりもするけれど、王道満載のウキウキハッピハッピハッピーBLです。
集まると『動物園』と称されるハイテンションな友人たちも登場して、基本騒がしい。
◆毎日2回更新。11時と20時◆
【完結】通学路ですれ違う君は、俺の恋しい人
厘
BL
毎朝、通学路ですれ違う他校の男子同士。初めは気にも留めなかったのだが、ちょっとしたきっかけで話す事に。進学校優秀腹黒男子 高梨流水(たかなし りう)とバスケ男子 柳 来冬(やなぎ らいと)。意外と気が合い、友達になっていく。そして……。
■完結済(予約投稿済です)。
月末まで毎日更新。
【完結】言えない言葉
未希かずは(Miki)
BL
双子の弟・水瀬碧依は、明るい兄・翼と比べられ、自信がない引っ込み思案な大学生。
同じゼミの気さくで眩しい如月大和に密かに恋するが、話しかける勇気はない。
ある日、碧依は兄になりすまし、本屋のバイトで大和に近づく大胆な計画を立てる。
兄の笑顔で大和と心を通わせる碧依だが、嘘の自分に葛藤し……。
すれ違いを経て本当の想いを伝える、切なく甘い青春BLストーリー。
第1回青春BLカップ参加作品です。
1章 「出会い」が長くなってしまったので、前後編に分けました。
2章、3章も長くなってしまって、分けました。碧依の恋心を丁寧に書き直しました。(2025/9/2 18:40)
君の恋人
risashy
BL
朝賀千尋(あさか ちひろ)は一番の親友である茅野怜(かやの れい)に片思いをしていた。
伝えるつもりもなかった気持ちを思い余って告げてしまった朝賀。
もう終わりだ、友達でさえいられない、と思っていたのに、茅野は「付き合おう」と答えてくれて——。
不器用な二人がすれ違いながら心を通わせていくお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる