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27.変容(2)
「あ」
一度アパートに戻って、アルバイトに向かうために再度部屋を出たタイミングだった。
ちょうど階段を上がってきた笹原と遭遇して悠生の心臓はドキリと跳ねる。同じアパートに住んでいるのに、ここで会うのはあの夜以来だった。
気まずそうに短く一言発した笹原が、取り繕うように笑顔を浮かべる。そのぎこちなさに以前にはなかった距離を感じて、悠生は視線を足元に外した。
「なんか、ひさしぶりだね。俺、夏休み、急遽頼まれて、長期のバイトに出ててさ。ずっとここ空けてたから」
「……あぁ」
不在の理由を聞くことができて、悠生は知らずほっとした。気まずくなったからではない、という口実をもらえたようで。
「みたいだな」
「悠生は? どこか出かけるところだった?」
問われて、悠生はほんの少しだけ言い淀んだ。確かに夏休みに入る前までの自分は、家の中に引きこもってばかりだったから、当然の疑問だろう。
「えぇ、と……、俺も夏休みからバイト始めて。今から」
「そうなんだ。じゃあ忙しくなるね。帰りも遅くなるなら気を付けて」
アルバイトの種類を聞くことも、――もっとわかりやすいはずの、誰もが興味を持った悠生の見かけの変貌にも一切触れず、笹原はあっさりと笑って自室の部屋の鍵穴に鍵を差し込んだ。そしてそのまま部屋の中へと消えていく。
その横顔を見送って、悠生は指の先が冷えていくことを感じていた。誤魔化すようにぎゅっと手を握り締める。
――これが、普通の距離感なのかもしれない。
いや、きっと、そうなのだろう。言い聞かせて、頭を振る。階段を一歩一歩、段を数えるようにして降りて、外に出る。
道路に足を踏み出して、アパートの上階を見上げたのは半ば無意識だった。角部屋の自分の部屋の、その隣。カーテンが閉まったままのそこは、なにも見えなかった。
いったい、俺はなにを期待していたのだろう。
そう簡単にいくわけがない。言い聞かせている一方で、顔を合わせれば元通りになるのではないか。そんな淡く他人任せな期待を抱いていて、勝手にショックを受けている。そんな自分の身勝手さに嫌気が差して、また思い知るのだ。俺は、もうずっと笹原の優しさの上で胡坐をかいていたのだな、と。
「真木くん、今日もこの後、ごはん食べて帰らない?」
塾のアルバイトは終わる時間が遅い。おまけに一人暮らしの大学生がアルバイトの講師陣に多いことから、あがりの時間が重なると、こうして声をかけられることが多かった。
最初に受け入れてしまったせいか、コミュニケーションはこうして取っていくべきだという思い込みのなせる業か、悠生は基本的にその誘いを断らずに受けていた。
夏休み中、笹原がいなかったから、一人の家でなにかしらを作って食べることが面倒だという思いもあったのかもしれない。とにかく、少し前の悠生からすれば考えられないほどに、人との交流は増えていた。
「誰が行くの?」
「私と、あと榊も。それからたまちゃんも次のコマがラストだから終わったら合流するって」
「了解」
「じゃ、早く片付けちゃってよ。私、おなかすいちゃったな」
にこ、と笑う顔に、媚びるような悪意がないことも悠生の行動の後押しをしていた。そして、自分の視野の狭さもまた思い知っていた。すべての人間が自分の顔を知ったからといって、好意を持つわけではない。当たり前であるはずのことも、自分はわからなくなっていたと気がついた。
そして、人目を惹く容姿を持っていたとしても、本当にこちらを見てほしい人の目を惹くと限らない、ということも。
兄たちはどうだったのだろう。今まで気にしたこともなかったことをふと思った。悠生にとって、同じ血を分けた人間であるはずなのに、兄たちはどこか異次元な存在だった。
いつも前を向いて、自分の行きたい道を自分で決め、迷わずに歩いていく。わかりたいとも、知りたいとも思っていなかった。
けれど、悠生が今までずっと逃げ続けてきた対人関係の中心に居続けた彼らには、悠生とはまた違う悩みがあったのかもしれない。そういったことを話してみたいとはじめて思った。
一度アパートに戻って、アルバイトに向かうために再度部屋を出たタイミングだった。
ちょうど階段を上がってきた笹原と遭遇して悠生の心臓はドキリと跳ねる。同じアパートに住んでいるのに、ここで会うのはあの夜以来だった。
気まずそうに短く一言発した笹原が、取り繕うように笑顔を浮かべる。そのぎこちなさに以前にはなかった距離を感じて、悠生は視線を足元に外した。
「なんか、ひさしぶりだね。俺、夏休み、急遽頼まれて、長期のバイトに出ててさ。ずっとここ空けてたから」
「……あぁ」
不在の理由を聞くことができて、悠生は知らずほっとした。気まずくなったからではない、という口実をもらえたようで。
「みたいだな」
「悠生は? どこか出かけるところだった?」
問われて、悠生はほんの少しだけ言い淀んだ。確かに夏休みに入る前までの自分は、家の中に引きこもってばかりだったから、当然の疑問だろう。
「えぇ、と……、俺も夏休みからバイト始めて。今から」
「そうなんだ。じゃあ忙しくなるね。帰りも遅くなるなら気を付けて」
アルバイトの種類を聞くことも、――もっとわかりやすいはずの、誰もが興味を持った悠生の見かけの変貌にも一切触れず、笹原はあっさりと笑って自室の部屋の鍵穴に鍵を差し込んだ。そしてそのまま部屋の中へと消えていく。
その横顔を見送って、悠生は指の先が冷えていくことを感じていた。誤魔化すようにぎゅっと手を握り締める。
――これが、普通の距離感なのかもしれない。
いや、きっと、そうなのだろう。言い聞かせて、頭を振る。階段を一歩一歩、段を数えるようにして降りて、外に出る。
道路に足を踏み出して、アパートの上階を見上げたのは半ば無意識だった。角部屋の自分の部屋の、その隣。カーテンが閉まったままのそこは、なにも見えなかった。
いったい、俺はなにを期待していたのだろう。
そう簡単にいくわけがない。言い聞かせている一方で、顔を合わせれば元通りになるのではないか。そんな淡く他人任せな期待を抱いていて、勝手にショックを受けている。そんな自分の身勝手さに嫌気が差して、また思い知るのだ。俺は、もうずっと笹原の優しさの上で胡坐をかいていたのだな、と。
「真木くん、今日もこの後、ごはん食べて帰らない?」
塾のアルバイトは終わる時間が遅い。おまけに一人暮らしの大学生がアルバイトの講師陣に多いことから、あがりの時間が重なると、こうして声をかけられることが多かった。
最初に受け入れてしまったせいか、コミュニケーションはこうして取っていくべきだという思い込みのなせる業か、悠生は基本的にその誘いを断らずに受けていた。
夏休み中、笹原がいなかったから、一人の家でなにかしらを作って食べることが面倒だという思いもあったのかもしれない。とにかく、少し前の悠生からすれば考えられないほどに、人との交流は増えていた。
「誰が行くの?」
「私と、あと榊も。それからたまちゃんも次のコマがラストだから終わったら合流するって」
「了解」
「じゃ、早く片付けちゃってよ。私、おなかすいちゃったな」
にこ、と笑う顔に、媚びるような悪意がないことも悠生の行動の後押しをしていた。そして、自分の視野の狭さもまた思い知っていた。すべての人間が自分の顔を知ったからといって、好意を持つわけではない。当たり前であるはずのことも、自分はわからなくなっていたと気がついた。
そして、人目を惹く容姿を持っていたとしても、本当にこちらを見てほしい人の目を惹くと限らない、ということも。
兄たちはどうだったのだろう。今まで気にしたこともなかったことをふと思った。悠生にとって、同じ血を分けた人間であるはずなのに、兄たちはどこか異次元な存在だった。
いつも前を向いて、自分の行きたい道を自分で決め、迷わずに歩いていく。わかりたいとも、知りたいとも思っていなかった。
けれど、悠生が今までずっと逃げ続けてきた対人関係の中心に居続けた彼らには、悠生とはまた違う悩みがあったのかもしれない。そういったことを話してみたいとはじめて思った。
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