きっと世界は美しい

木原あざみ

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29.変容(4)

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「好きな人ができたのか」

 沈黙のあとに響いたのは、静かな声だった。その声に、心臓が掴まれたような気がした。好きな人。

「俺に電話しようと思ってくれたのも、その子の影響?」

 電話越しだ。伝わるわけもないのに、無言のまま首を縦に振る。変わろうと思ったのは、変わりたいと思ったのは、すべてたった一人の影響だった。
 けれど、うまくできない。

「悠生がねぇ」

 しみじみと兄が唸った。

「頑固で、人の言うことを素直に聞かなくて、世界の人間はみんな自分のことが嫌いなんだ、みたいな顔で拗ねてたうちの末っ子が」
「……なんだよ、それ」

 あまりと言えばあまり過ぎる評に、憮然とした声が喉を突いた。兄は笑っている。どこか楽しそうに。

「人を好きになるって言うのは、良いことだよ。頑なだったおまえを変えることができるような前向きなパワーのある子だったら、なおさら」
「……うん」
「好きになった人に絶対に振り向いてもらえるなんて保証はないよ。おまえが俺のことをどう思ってるのかは知らないけど、兄ちゃんだって、好きな人に告白して玉砕したこともあるし、付き合っても想像と違ったってあっというまに振られたこともあるよ」
「嘘だろ」
「なんでそんな自虐的な嘘をおまえに吐かなきゃならないのよ」

 一蹴されて、けれど、にわかには信じられなかった。悠生の中の兄は、なんでもできて、いつも輪の中心にいて。兄を嫌う人なんて、嫉妬心を抱いている人間以外にはいないと、どこかで妄信していた。

「だから、これはただの兄ちゃんの独り言みたいなものだけど。好きになってもらいたいなら素直になることだよ。本当の悠生を見せて、それでもし嫌われたとしても、だったら仕方がないって諦められるでしょ」

 正論に悠生は口をへの字に曲げた。それができれば苦労はしないし、そもそもとして、ありのままの自分が誰かに受け入れてもらえるはずがない。兄が言ったとおりのかわいげのかけらもない本質が。それなのに、あっけらかんと兄は続ける。

「でも、まぁ、俺の弟だからね。きっと好きになってもらえる。大丈夫」

 予想外だった励ましに言葉を失ったことが伝わったのか、兄がきまり悪く吐いた溜息が響く。

「あのね。俺は、おまえのこともかわいい弟だとは思ってるからね。それは、まぁ、母さんがおまえにかかり切りだった分、あっちの面倒は俺が見ていたというか。……まぁ、あいつは俺がわざわざ見なくても平気だったんだろうから、そういう意味では俺の勝手か。だから、どっちもかわいい弟だよ、俺にとっては」
「……、うん」

 さすがにそこで、「嘘だ」と頑なに突っぱねる子どものような真似はできなかった。けれど百パーセント信じることができたわけでもない。そんな宙に浮いた返事に、兄は「まぁいいけどね」と笑う。

「黙って待ってるだけで『好き』って言ってもらえることは、そうそうないよ。それにどんなに積極的な子でも女の子なんだろ? だったら、悠生がちゃんと言ってあげないと」

 さも当然と続いたそれに、気が付いたときには悠生は「あ」と短い声を上げていた。電話の向こうで兄が不思議そうに「どうした?」と問いかけてくる。誤魔化すべきなのだろうと分かっていながら、悠生は事実を口にしていた。

「男」
「え?」
「女の子じゃなくて、男」

 半ば開き直って伝えたそれに兄が小さく絶句したのが分かった。そして、溜息。

「それ、俺じゃなくて、基生に相談したほうがいい案件じゃなかった?」
「嫌だ」
「まだ喧嘩してんの、おまえら。止めてよ、仲良くしてよ、弟同士。というか、どうせ喧嘩にすらなってないだろ」

 弟たちの性格を把握している長兄は、悠生の主張を一刀両断する。おそらく、次兄も喧嘩ではなく、一方的に悠生に無視されていると認識しているだろうから、そういう意味でも喧嘩ではないとは思うけれど。

「まぁ、もう、おまえが男を好きだろうとなんでもいいけど、兄弟は仲良くな」

 黙り込んだ末弟を不貞腐れていると取ったらしい兄が、おざなりに続ける。同性を好きになろうが異性を好きになろうが、どうでもいい。そう言ってしまえる懐の広さを少しうらやましく思いながら、「うん」と頷く。
 自分は、そうできなかったから、仲の悪さに拍車をかけてしまった。そして、今、忌みしていたはずの自分が同性を好きになっている。ためらいもなく。

「最後にもう一度だけ言うけど。なにも言わなくても考えてることは分かってもらえるって考えるのは、傲慢な幻想だよ」
「……うん」
「おまえより長い人生を生きた兄ちゃんからのアドバイスだと思って、がんばりな」
「うん」
「あと、ちゃんと、経過と結果は報告するように」

 心配を忍ばせた軽口を最後に通話が切れる。物言わなくなったスマートフォンを一瞥して、悠生は息を吐いた。隣の部屋からは、やはり物音ひとつしない。悠生と笹原の関係は、いつも笹原が扉を開けてくれることで保たれていた。いうならば、笹原の積極性で生み出されていたものだったのだ。悠生はなにもしていなかった。
 だから、今、笹原が悠生に背を向けているのだとしたら、悠生が声をかけるしかない。待っているだけじゃ変わりがない。分かっている。兄に言われなくとも、本当は分かっていた。けれど、怖い。
 笹原にされるかもしれない拒絶を想像することが、恐ろしい。
 今まで、誰かに嫌われても仕方がないと思っていた。それでいいと思っていた。そのことに、ショックを受けることもあまりなかった。けれど。
 笹原にだけは、嫌われたくない。あわよくば好かれたい。そんな願望を持ってしまった瞬間に、特別になった瞬間に、笹原のことが恐ろしくなった。
 それが、変わらない自分の弱さだと分かってもいるけれど。
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