きっと世界は美しい

木原あざみ

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35.衝突(6)

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 悠生たちの通う大学の周辺には、静かな住宅街が広がっている。飲み会の開催されていた繁華街と異なり夜は静かで、誰ともすれ違わない。無理に足を速めるでも、遅めるでもなく、並んで歩く。息が詰まりそうな沈黙は、いつのまにか鳴りを潜めていた。

「そういえばさ」

 変わらない調子のまま、笹原が言葉を発したのは、玉井の家から悠生たちの住むアパートまでの道のりの半分ほどを進んだころだった。

「流星群、見れなかったね」
「……あぁ」

 暇なら一緒に見るか。そう誘ったのが随分と昔の話に思えた。お盆の時期に極大日を迎えるペルセウス座流星群。毎年、どうにかして見ようとしていたはずのそれは、今年は知らないあいだに終わってしまった。

「どうせ、星座盤も探してないでしょ」

 笑いながら言われて、そういえばそんなことがあったと思い出した。きっと今もまだ部屋の中のどこかで眠っている。
 だって、あんなもの、ひとりで見ても、なんの意味もない。

「そういえば、そうかも」
「だと思った」

 前を見たまま、笹原が言う。

「探しておいてって、言ったのに」
「それは、おまえが」
「俺が、なに?」

 おまえが、顔を出さなくなったから。言うべきではない言葉が喉の奥で渦巻く。黙った悠生に、笹原がまた笑った。

「俺さ、おまえからも一回くらい連絡あるかなとか勝手に思ってた」

 だって、それは。

 ――それは、おまえが、夏休みはずっとこっちにいるって言ったのに、いつのまにかいないから。

 隣からなんの音もしなくなって、俺のことが嫌になって、距離を置きたくなって、だから。だから。
 そうだと言われるのが、怖かった。

「だから、ちょっと拗ねてたのかもしれない」

 その言葉に、知らずまた足元に落としてた視線を、はっと悠生は持ち上げた。

「ごめんね」

 優しい瞳が、悠生を見ていた。友人のはずなのに、年長者のような、包み込むようなそれ。嬉しくて、ほっとして、そして、たまらなくなった。

「違う」

 気が付いたときには足が止まっていた。幼い子どものような声が零れる。違う、違う。そうじゃなくて。悪いのは、悪いのは、ぜんぶ。

「違う」

 頑なに繰り返した悠生に、笹原も足を止めた。困ったように微笑む。けれど、その指先は伸びてこなかった。以前だったらば、あやすように撫ぜてくれたのだろうか。そんなことを思う。

「俺さ」

 おもむろに夜空を見上げて、笹原が言った。

「おまえと一緒にいないと星なんて見ねぇわ。きれいだとも思えない」
「……え?」
「おまえと会って、空を見ることが増えた。きれいだっておまえが思うかなって想像したら、一緒に見たいって思うようになった。お前の隣で、おまえと見たい」
「笹原」
「そういうの、なんでだと思う?」

 優しい声が諦めたように、二人しかいない夜道に響いた。生ぬるい風が吹き抜けていく。
 笹原が隣にいなくなってから、夜空を見上げることが減ったのは、間違いなく悠生も同じだった。自分の心を静めるはずだった星空は、そうでなくなってしまった。
 数を数えれば落ち着いたはずの星座は、以前とは反対に、悠生の心に落ち着かなさを植え付けた。一緒に星を見たときの笹原の顔ばかりが過って、だから駄目だった。

「俺は」
「……うん」
「おまえと一緒に、流星群をもう一度見たかった」
「ごめんね」
「謝るなよ、ばか」
「ごめん」
「だから、謝るなって」

 声に苛立ちが混ざる。勝手だと分かっていたけれど、抑えられなかった。なんで、そうやって、俺を許すんだ。さっきは、あんなふうに突き放したくせに、こうして、いきなり。

「だって、悠生が泣きそうな顔してるから」

 予想外だった台詞に、悠生は息を呑んだ。

「して、ない」
「してる、してる」

 精一杯の意地を、笹原はさらりと笑い飛ばす。

「だから、まぁ、仕方ないというか」

 苦笑を残して笹原が前を向いた。歩き出す。その速度につられて、悠生の足も勝手に動き出していた。慣れていたはずの、速度。

「好きな子がそんな顔してたら、謝るしかないでしょ」
「……え?」

 言葉の意味が、今度こそ分からなかった。笹原の目線は、隣を行く悠生を見てはいない。

「子どもみたいなこと言って、傷つけてごめん」
「ささ……」
「気持ち悪がらせて、ごめん」

 自嘲を含んだ声に、たまらなくなって、悠生は前ばかりを見ている男の腕を掴んだ。足が止まる。目が合う。いつもと変わらない微笑を浮かべていた表情が、確かに止まった。

「悠生?」
「謝るな」

 必死で言い募った。ここまで誰かに本気でなにかを伝えようと思ったのは、初めてだと、そんなことを思った。今までずっと、なにかをする前から諦めて、逃げてばかりだったから。

「謝るな」

 逃げてばかりで、おまえを傷つけたのは、俺じゃないか。それなのに、そのあとも理由を付けて謝りもせずに、おまえがいつもの顔で話しかけてくれることを期待していただけの、卑怯者じゃないか。

「気持ち悪くなんて、ない。俺は、ただ、……あの、ときは」

 兄貴と比べられているような気分に勝手に陥って、それが悲しくて。俺を見てくれていたと勝手に勘違いしていたそれが、崩れ落ちていくようで、たまらなくて。感情的になった、だけで。
 だから、それは、ぜんぶ、俺の所為で。
 ぐるぐるとうまく言葉にできない台詞が身体の中を渦巻く。いつもそうだ。いつも、そうやって、きちんと言葉にならない。

「うん」

 静かで優しい、笹原の声だった。腕を掴んでいた悠生の手をそっと外させて、その掌を握る。安心させるように。

「ありがとう」

 なんのお礼なのか、まったく分からなかった。けれど、笹原は言葉どおりの顔で悠生を見ていた。焦っていたなにかがすとんと落ちていって、肩から力が抜ける。

「悠生のペースでいいから、もし良かったら、ゆっくり話してくれたら嬉しい」
「……うん」
「ちゃんと最後まで聞くから」
「うん」

 そんなふうに言ってくれる誰かに出逢ったのは初めてだったのだ。ありがとうと言いたいのも、謝りたいのも、――好きだと言いたいのも、ぜんぶぜんぶ、自分の方だ。心の底から、そう思った。

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