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23 神経質な男 《利仁side》
しおりを挟む――ついに、僕は広瀬紬さんと出逢った。
悲しげな瞳が印象的で、その表情を見た瞬間、胸の奥が静かにざわめいた。
どこか守ってあげたいと思わせる、不思議な人だった。
僕を異性として意識していないこともあるのだろうが、広瀬さんと過ごす時間は驚くほど穏やかで、根の部分で他人を思いやれる人なのだと感じた。
弁当のお礼を伝えられない僕は、せめてもの償いにと、彼女にだけ少し特別な気遣いを向ける。
――そんな僕の様子を、目ざとく見ていたのが高坂凛音さんだ。
『今度、三人で食事に行きませんか?』
高坂さんもまた、僕には興味がないようで、むしろ広瀬さんの方を気にかけていた。
きっと、西橋の上司である僕がそばにいれば、彼女を守れると思ったのだろう。
――その役は、喜んで引き受けよう。
ただ、高坂さんはモデルのように人目を引く容姿で、僕と並ぶとどうしても注目を集めてしまう。
そのせいか、広瀬さんは「自分はおまけ」だと感じたようで、いつも少し離れたところを歩く。
僕はそのたび、手を伸ばして彼女の歩幅を合わせたくなった。
そんな彼女が、ふっと泣きそうな顔をするときがある。
僕が何か気に触ることを言ったのかと焦るが、彼女はどうやら“優しくされること”に慣れていないらしい。
ただ家まで送るだけでも、どこか申し訳なさそうに戸惑うのだ。
(いくら治安の良い街でも、夜中に女性をひとりで歩かせるわけない。当たり前のことなのに……)
彼女をそうさせたのは、西橋なのだろう。
家のことをすべて押しつけて、自分は仕事だと嘘をついて、遊び呆けていた。
彼の外面の良さの裏で、広瀬さんがどれほど支えてきたのかを思うと、胸の奥がざらついた。
怒り――というより、悔しさに近い感情だった。
◇ ◇ ◇
広瀬さんと別れてからの西橋は、どこか神経質になっていた。
声をかけても上の空で、「今ちょっと忙しいんで」と、冗談も通じなくなっている。
昼休みの雑談にも加わらず、書類を睨みながら何かを計算していることが増えた。
給料の前借りを申し出たり、柿谷に金を借りているという噂も耳にしている。
周囲から少しずつ人が離れていくことに、彼自身は気づいているのだろうか。
(……広瀬さんに、また迷惑をかけなければいいが)
そんな心配をしていた矢先、高坂さんから連絡が入った。
――西橋が、広瀬さんの自宅前で待ち伏せしているという。
明日は彼女と会う予定の日で、僕は部屋の掃除を念入りにしていた。
だがその知らせを聞いた瞬間、車の鍵を掴んでいた。
彼らがいるというファミレスへ、ためらいなく向かう。
夜風を切りながらハンドルを握る手に、わずかに力がこもる。
ただ――彼女をこれ以上傷つけさせたくなかった。
「……どうして、頼ってくれないんだろうな」
思わず、独り言のように漏れた言葉。
恋人ではない。
けれど、西橋の上司である僕には、きっと多少の“利用価値”があるはずだ。
それなのに、彼女は決して僕を頼ろうとはしなかった。
遠慮しているだけならいい。
けれど、もしかしたら彼女の中で、僕はまだ“頼れる存在”ではないのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が少し沈んだ。
――そのとき。
「おい、いい加減にしろよ? さっきから言ってるだろ。取引先の社長に、食事の席を強要されただけだって……。仕事だったんだよ!!」
ファミレスの奥から、西橋の怒号が響く。
普段の軽やかな様子とは打って変わって、高圧的な態度に僕は眉をひそめた。
本当なら「いい加減にするのはお前の方だ」と叱りつけたいところだが、深呼吸をして自分を落ち着かせる。
『取引先の社長に、食事の席を強要されたって聞こえたけど……。どこの会社の人のことかな?』
「「っ……」」
僕の姿を捉えた瞬間、西橋の顔色が一瞬で青ざめた。
今まで強気に振る舞っていたのに、上司である僕が現れたことで、嘘が露見する――。
その焦りが、表情や動作の端々から見て取れた。
僕は静かに一歩前に出て、西橋を見下ろす。
状況が自分に不利だと悟った西橋は、脱兎のごとくその場を離れていった。
――これで少しは、あの男も自分の行動を考え直すだろう。
広瀬さんを自宅まで送り届け、安心したのも束の間だった。
逃げ帰ったはずの西橋が、あろうことか建物の陰に潜んでいたのだ。
(……相当、執着しているな)
僕は自然と広瀬さんの手を握る。
守るべき相手を前にして、迷いなど、最初から存在しなかった。
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