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32 ふり、じゃないですよ
しおりを挟む「ちょっと来いよ」
唐突に腕を掴まれた。
指が食い込むほど強い力。
逃げようにも、びくともしない。
「痛っ……やめてよっ!」
必死に振りほどこうとしても、倫太郎はさらに力を込めてくる。
ざわめく周囲の音が、遠く霞んでいく。
まるで世界に、私たち二人しかいないような閉塞感。
その中で、私の声だけが虚しく響いた。
「大袈裟だな。少し話すだけだろ」
「嫌! 私は話すことなんてない!」
「いいから、早くしろ」
聞く耳を持たない倫太郎は、そのまま私の腕を引いて歩き出そうとした。
その瞬間。
「――彼女が嫌がってるの、わからないかな?」
柔らかく、けれど底の見えない声が背後から落ちた。
振り返ると、群衆の向こうから神崎さんが歩いてきていた。
人混みのざわめきの中でも、彼の存在は一瞬で場の空気を変える。
穏やかな微笑みを浮かべながらも、瞳の奥は鋭く光っていた。
「紬さんから離れてください」
「っ、利仁さんっ!」
思わず名前を呼ぶ。
次の瞬間、周囲がざわめいた。
神崎さんを“名前で呼んだ”――
その一言だけで、職場の人々の視線が一斉に私に注がれる。
けれど、神崎さんはそんな視線など気にも留めず、静かに歩み寄ってきた。
笑みを浮かべたまま、倫太郎の手元へと視線を落とす。
「その手を、離してくれるかな」
その声は柔らかいのに、空気を一瞬で凍りつかせるほどの威圧を帯びていた。
倫太郎が一瞬たじろぎ、ためらうように指の力を緩める。
「紬さん、大丈夫ですか?」
その声は、先ほどまでの冷気をすべて溶かすように優しかった。
「……はい」
かすれた声で答えると、彼は短く頷く。
ただそれだけなのに、不思議と心が落ち着いていく。
自由になった腕を押さえる私の前に、神崎さんが立ちはだかるようにして庇う。
その一連の動作に、周囲の女性社員たちが息を呑んだ。
「彼女に無理やり手を出すのは、感心しませんね」
穏やかな口調のまま、低く響く声。
倫太郎は一瞬顔をしかめ、何か言いかけては飲み込んだ。
周囲の空気が静まり返る。
神崎さんが一歩前に出ただけで、誰もが息を潜めた。
(利仁さん、怒ってる……?)
神崎さんと倫太郎は、互いに一言も発さず、ただ無言で見据え合う。
神崎さんは一歩も引かず、穏やかな笑みを崩さないまま、目を逸らさない。
対する倫太郎は、最初こそ睨み返したものの、その瞳の奥にある静かな威圧を感じ取ったのか、わずかにまぶたを伏せた。
その刹那、張りつめた沈黙を破るように、周囲から小さな声が漏れた。
「ねえ、これってどういう状況?」
「もしかして、西橋くんの彼女が、神崎常務に乗り換えた……とか?」
女性社員たちのひそひそ声が、耳に刺さる。
彼女たちは興味津々で囁き合い、憶測だけで物語を作っていく。
「見た目大人しそうなのにね……」
「でもまあ、西橋くんと神崎常務なら、迷う余地はないけどさ」
軽い調子の笑い声が、あちこちで上がった。
けれど、私を貶めるためのその何気ない一言が、意図せず倫太郎のプライドを深く傷つけた。
「~~っ、ふざけるなよ」
みるみるうちに倫太郎の顔が赤くなり、口元がひきつる。
悔しさと屈辱が入り混じった表情だ。
しかし次の瞬間、倫太郎の視線が鋭く私を射抜く。
まるで、自分が恥をかいたのは私のせいだとでも言うように。
怒りの矛先は、彼女たちではなく、なぜか私へと向けられた。
「お前さ。俺が許せないからって、神崎さんまで巻き込むのは違うだろ」
何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
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でも、誰よりもそう思っていたのは、倫太郎自身だったのだ。
私はただ、言葉を失って立ち尽くす。
隣で、神崎さんがわずかに息を吐いた。
その瞳に、一瞬だけ見えた静かな怒り。
そして、彼はふっと笑みを浮かべる。
「――ふり、じゃないですよ」
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