17 / 38
第17話 公爵様のやきもちと、二人だけの湖
しおりを挟む
騎士団の「女神」に祭り上げられてしまった私の日常は、さらに慌ただしくなった。
訓練の合間には、疲労回復に効く蜂蜜と生姜のドリンクを差し入れ、時には腹持ちの良い焼き菓子を大量に作って持っていく。
そのたびに屈強な騎士たちから熱狂的な感謝を捧げられ、私は戸惑いながらも、彼らの役に立てることに喜びを感じていた。
しかし、その一方で。
ヴィンセント様の眉間に刻まれる皺は、日増しに深くなるばかりだった。
そんなある日の午後、私が騎士団のための差し入れを乗せたワゴンを押していると、廊下の角からぬっと現れたヴィンセント様に、行く手を阻まれた。
「……どこへ行く」
地を這うような低い声。その声色だけで、彼の機嫌が地の底にあることがわかる。
「き、騎士団の皆さんに、差し入れを……」
「お前は……」
彼は私の言葉を遮り、一歩、距離を詰めてきた。見下ろしてくる深い青の瞳には、今まで見たことのない、暗い光が宿っている。
「誰の、料理番だ?」
以前も聞かれた、同じ質問。
けれど、その響きは全く違っていた。
「ヴィンセント様の、専属料理番です」
私がそう答えると、彼は私の手からワゴンの取っ手を奪い、近くにいた従者に押し付けた。
「ならば、他の男たちのためにうつつを抜かすな」
「えっ?」
「騎士団の食事は、明日から料理長に一任する。……お前は、俺の視察に同行しろ。二人きりでだ」
有無を言わさぬ、あまりにも理不尽な命令。
けれど、その言葉の裏にある独占欲のようなものに、私はようやく気づき始めていた。
(もしかして、ヴィンセント様……やきもち、を……?)
そんな考えに至った瞬間、私の顔に、じわりと熱が集まった。
翌日、私はヴィンセント様と二人きり、護衛もつけずに馬を並べて城を出た。向かった先は、領地の奥深くにあるという「水晶の湖」。
騎士団の喧騒から離れ、鳥のさえずりと風の音しか聞こえない静かな森の中を二人で進む時間は、どこかぎこちなく、けれど不思議と心地よかった。
ヴィンセント様はぶっきらぼうな口調ながらも、道端に咲く薬草の名前や、森に住む動物たちの習性について、詳しく教えてくれた。
それは私の知らない、領地を深く愛する領主としての、彼の横顔だった。
やがて森を抜けると、目の前に息を呑むような光景が広がった。
名前の通り、どこまでも透き通った水が空の青と森の緑を鏡のように映し出す神秘的な湖。
私たちはその湖畔で馬を降り、お昼にすることにした。
今日のお弁当は、二人きりのピクニックを意識して、いつもより少しだけ可愛らしく仕上げてみた。彩り野菜をたっぷり使った一口サイズのキッシュと、甘い果物を生クリームと一緒に柔らかいパンで挟んだフルーツサンド。
「……美味い」
キッシュを一口食べたヴィンセント様が、ぽつりと呟く。
このお弁当が「自分だけのため」に作られたのだと、彼にも分かったのだろうか。その表情は、ここ数日見せなかったほど穏やかだった。
「あの、ヴィンセント様。どうして、私を……?」
食事をしながら、私はずっと気になっていたことを尋ねた。
「料理番に、してくださったのですか?」
彼は少しの間、視線を湖に向け、ためらっているように見えた。やがて、諦めたように小さく息を吐くと、少しだけ照れたように、けれど真っ直ぐに私を見て言ったのだ。
「……腹の減る、いい匂いがしたからだ。それは本当だ」
「はい」
「だが、それだけではない。……あの夜会で、大勢の前で理不尽な仕打ちを受けながら、涙ひとつ見せず、毅然と背筋を伸ばしていたお前の姿が……目に、焼き付いた」
それは私が全く予期していなかった言葉だった。
料理だけじゃない。
私自身を、見ていてくれた。
その事実に、私の心臓が、とくん、と大きく跳ねた。
「そんなお前が作るものなら、きっと美味いだろうと思った。……ただ、それだけだ」
そう言ってそっぽを向く彼の耳が、少しだけ赤いことに、私は気づいてしまった。
湖の美しい景色と心地よい風。
二人の間に、甘く穏やかな空気が流れる。
その時、ヴィンセント様が「あ」と小さく声を上げた。
「髪に、花びらが」
そう言って彼が不意に、私の顔に手を伸ばす。大きな、騎士らしいごつごつした指先が私の髪にそっと触れた。
二人の距離が、ぐっと縮まる。
視線が絡み合い、私は彼の深い青の瞳から目が逸らせなくなっていた。
訓練の合間には、疲労回復に効く蜂蜜と生姜のドリンクを差し入れ、時には腹持ちの良い焼き菓子を大量に作って持っていく。
そのたびに屈強な騎士たちから熱狂的な感謝を捧げられ、私は戸惑いながらも、彼らの役に立てることに喜びを感じていた。
しかし、その一方で。
ヴィンセント様の眉間に刻まれる皺は、日増しに深くなるばかりだった。
そんなある日の午後、私が騎士団のための差し入れを乗せたワゴンを押していると、廊下の角からぬっと現れたヴィンセント様に、行く手を阻まれた。
「……どこへ行く」
地を這うような低い声。その声色だけで、彼の機嫌が地の底にあることがわかる。
「き、騎士団の皆さんに、差し入れを……」
「お前は……」
彼は私の言葉を遮り、一歩、距離を詰めてきた。見下ろしてくる深い青の瞳には、今まで見たことのない、暗い光が宿っている。
「誰の、料理番だ?」
以前も聞かれた、同じ質問。
けれど、その響きは全く違っていた。
「ヴィンセント様の、専属料理番です」
私がそう答えると、彼は私の手からワゴンの取っ手を奪い、近くにいた従者に押し付けた。
「ならば、他の男たちのためにうつつを抜かすな」
「えっ?」
「騎士団の食事は、明日から料理長に一任する。……お前は、俺の視察に同行しろ。二人きりでだ」
有無を言わさぬ、あまりにも理不尽な命令。
けれど、その言葉の裏にある独占欲のようなものに、私はようやく気づき始めていた。
(もしかして、ヴィンセント様……やきもち、を……?)
そんな考えに至った瞬間、私の顔に、じわりと熱が集まった。
翌日、私はヴィンセント様と二人きり、護衛もつけずに馬を並べて城を出た。向かった先は、領地の奥深くにあるという「水晶の湖」。
騎士団の喧騒から離れ、鳥のさえずりと風の音しか聞こえない静かな森の中を二人で進む時間は、どこかぎこちなく、けれど不思議と心地よかった。
ヴィンセント様はぶっきらぼうな口調ながらも、道端に咲く薬草の名前や、森に住む動物たちの習性について、詳しく教えてくれた。
それは私の知らない、領地を深く愛する領主としての、彼の横顔だった。
やがて森を抜けると、目の前に息を呑むような光景が広がった。
名前の通り、どこまでも透き通った水が空の青と森の緑を鏡のように映し出す神秘的な湖。
私たちはその湖畔で馬を降り、お昼にすることにした。
今日のお弁当は、二人きりのピクニックを意識して、いつもより少しだけ可愛らしく仕上げてみた。彩り野菜をたっぷり使った一口サイズのキッシュと、甘い果物を生クリームと一緒に柔らかいパンで挟んだフルーツサンド。
「……美味い」
キッシュを一口食べたヴィンセント様が、ぽつりと呟く。
このお弁当が「自分だけのため」に作られたのだと、彼にも分かったのだろうか。その表情は、ここ数日見せなかったほど穏やかだった。
「あの、ヴィンセント様。どうして、私を……?」
食事をしながら、私はずっと気になっていたことを尋ねた。
「料理番に、してくださったのですか?」
彼は少しの間、視線を湖に向け、ためらっているように見えた。やがて、諦めたように小さく息を吐くと、少しだけ照れたように、けれど真っ直ぐに私を見て言ったのだ。
「……腹の減る、いい匂いがしたからだ。それは本当だ」
「はい」
「だが、それだけではない。……あの夜会で、大勢の前で理不尽な仕打ちを受けながら、涙ひとつ見せず、毅然と背筋を伸ばしていたお前の姿が……目に、焼き付いた」
それは私が全く予期していなかった言葉だった。
料理だけじゃない。
私自身を、見ていてくれた。
その事実に、私の心臓が、とくん、と大きく跳ねた。
「そんなお前が作るものなら、きっと美味いだろうと思った。……ただ、それだけだ」
そう言ってそっぽを向く彼の耳が、少しだけ赤いことに、私は気づいてしまった。
湖の美しい景色と心地よい風。
二人の間に、甘く穏やかな空気が流れる。
その時、ヴィンセント様が「あ」と小さく声を上げた。
「髪に、花びらが」
そう言って彼が不意に、私の顔に手を伸ばす。大きな、騎士らしいごつごつした指先が私の髪にそっと触れた。
二人の距離が、ぐっと縮まる。
視線が絡み合い、私は彼の深い青の瞳から目が逸らせなくなっていた。
632
あなたにおすすめの小説
『完璧すぎる令嬢は婚約破棄を歓迎します ~白い結婚のはずが、冷徹公爵に溺愛されるなんて聞いてません~』
鷹 綾
恋愛
「君は完璧すぎる」
その一言で、王太子アルトゥーラから婚約を破棄された令嬢エミーラ。
有能であるがゆえに疎まれ、努力も忠誠も正当に評価されなかった彼女は、
王都を離れ、辺境アンクレイブ公爵領へと向かう。
冷静沈着で冷徹と噂される公爵ゼファーとの関係は、
利害一致による“白い契約結婚”から始まったはずだった。
しかし――
役割を果たし、淡々と成果を積み重ねるエミーラは、
いつしか領政の中枢を支え、領民からも絶大な信頼を得ていく。
一方、
「可愛げ」を求めて彼女を切り捨てた元婚約者と、
癒しだけを与えられた王太子妃候補は、
王宮という現実の中で静かに行き詰まっていき……。
ざまぁは声高に叫ばれない。
復讐も、断罪もない。
あるのは、選ばなかった者が取り残され、
選び続けた者が自然と選ばれていく現実。
これは、
誰かに選ばれることで価値を証明する物語ではない。
自分の居場所を自分で選び、
その先で静かに幸福を掴んだ令嬢の物語。
「完璧すぎる」と捨てられた彼女は、
やがて――
“選ばれ続ける存在”になる。
婚約破棄されて捨てられたのですが、なぜか公爵様に拾われた結果……。
水上
恋愛
「単刀直入に言おう。フローラ、君との婚約は破棄させてもらう」
婚約者であるエドワード様の言葉を聞いて、心臓が早鐘を打ちました。
いつか言われるかもしれないと、覚悟していた言葉。
けれど、実際に投げつけられると、足元が崩れ落ちるような感覚に襲われます。
「……理由は、私が至らないからでしょうか」
「それもある。だが決定的なのは、君のその陰湿な性格だ!」
さらに私は、やってもいない罪を着せられそうになりました。
反論しようにも、喉が震えて声が出ません。
しかし、その時、一人の人物が現れました。
「この温室の管理責任者は私だ。私の庭で無粋な真似をするのは、どこのどいつだ」
「あ、あなたは……アルフレッド・フォン・リンネ公爵!?」
エドワード様の素っ頓狂な声に、私は息を呑みました。
「彼女のアリバイなら、そこにある花が証明している」
その言葉が、私の運命を変える一言となりました。
顔も知らない旦那様に間違えて手紙を送ったら、溺愛が返ってきました
ラム猫
恋愛
セシリアは、政略結婚でアシュレイ・ハンベルク侯爵に嫁いで三年になる。しかし夫であるアシュレイは稀代の軍略家として戦争で前線に立ち続けており、二人は一度も顔を合わせたことがなかった。セシリアは孤独な日々を送り、周囲からは「忘れられた花嫁」として扱われていた。
ある日、セシリアは親友宛てに夫への不満と愚痴を書き連ねた手紙を、誤ってアシュレイ侯爵本人宛てで送ってしまう。とんでもない過ちを犯したと震えるセシリアの元へ、数週間後、夫から返信が届いた。
※この作品は、『小説家になろう』様『カクヨム』様にも投稿しています。
※全部で四話になります。
追放された悪役令嬢、規格外魔力でもふもふ聖獣を手懐け隣国の王子に溺愛される
黒崎隼人
ファンタジー
「ようやく、この息苦しい生活から解放される!」
無実の罪で婚約破棄され、国外追放を言い渡された公爵令嬢エレオノーラ。しかし彼女は、悲しむどころか心の中で歓喜の声をあげていた。完璧な淑女の仮面の下に隠していたのは、国一番と謳われた祖母譲りの規格外な魔力。追放先の「魔の森」で力を解放した彼女の周りには、伝説の聖獣グリフォンをはじめ、可愛いもふもふ達が次々と集まってきて……!?
自由気ままなスローライフを満喫する元悪役令嬢と、彼女のありのままの姿に惹かれた「氷の王子」。二人の出会いが、やがて二つの国の運命を大きく動かすことになる。
窮屈な世界から解き放たれた少女が、本当の自分と最高の幸せを見つける、溺愛と逆転の異世界ファンタジー、ここに開幕!
十年間虐げられたお針子令嬢、冷徹侯爵に狂おしいほど愛される。
er
恋愛
十年前に両親を亡くしたセレスティーナは、後見人の叔父に財産を奪われ、物置部屋で使用人同然の扱いを受けていた。義妹ミレイユのために毎日ドレスを縫わされる日々——でも彼女には『星霜の記憶』という、物の過去と未来を視る特別な力があった。隠されていた舞踏会の招待状を見つけて決死の潜入を果たすと、冷徹で美しいヴィルフォール侯爵と運命の再会! 義妹のドレスが破れて大恥、叔父も悪事を暴かれて追放されるはめに。失われた伝説の刺繍技術を復活させたセレスティーナは宮廷筆頭職人に抜擢され、「ずっと君を探していた」と侯爵に溺愛される——
【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。
猫屋敷 むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で――
私の願いは一瞬にして踏みにじられました。
母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、
婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。
「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」
まさか――あの優しい彼が?
そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。
子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。
でも、私には、味方など誰もいませんでした。
ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。
白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。
「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」
やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。
それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、
冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。
没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。
これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。
※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ
※わんこが繋ぐ恋物語です
※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ
当て馬令息の婚約者になったので美味しいお菓子を食べながら聖女との恋を応援しようと思います!
朱音ゆうひ@11/5受賞作が発売されます
恋愛
「わたくし、当て馬令息の婚約者では?」
伯爵令嬢コーデリアは家同士が決めた婚約者ジャスティンと出会った瞬間、前世の記憶を思い出した。
ここは小説に出てくる世界で、当て馬令息ジャスティンは聖女に片思いするキャラ。婚約者に遠慮してアプローチできないまま失恋する優しいお兄様系キャラで、前世での推しだったのだ。
「わたくし、ジャスティン様の恋を応援しますわ」
推しの幸せが自分の幸せ! あとお菓子が美味しい!
特に小説では出番がなく悪役令嬢でもなんでもない脇役以前のモブキャラ(?)コーデリアは、全力でジャスティンを応援することにした!
※ゆるゆるほんわかハートフルラブコメ。
サブキャラに軽く百合カップルが出てきたりします
他サイトにも掲載しています( https://ncode.syosetu.com/n5753hy/ )
婚約破棄されたので聖獣育てて田舎に帰ったら、なぜか世界の中心になっていました
かしおり
恋愛
「アメリア・ヴァルディア。君との婚約は、ここで破棄する」
王太子ロウェルの冷酷な言葉と共に、彼は“平民出身の聖女”ノエルの手を取った。
だが侯爵令嬢アメリアは、悲しむどころか——
「では、実家に帰らせていただきますね」
そう言い残し、静かにその場を後にした。
向かった先は、聖獣たちが棲まう辺境の地。
かつて彼女が命を救った聖獣“ヴィル”が待つ、誰も知らぬ聖域だった。
魔物の侵攻、暴走する偽聖女、崩壊寸前の王都——
そして頼る者すらいなくなった王太子が頭を垂れたとき、
アメリアは静かに告げる。
「もう遅いわ。今さら後悔しても……ヴィルが許してくれないもの」
聖獣たちと共に、新たな居場所で幸せに生きようとする彼女に、
世界の運命すら引き寄せられていく——
ざまぁもふもふ癒し満載!
婚約破棄から始まる、爽快&優しい異世界スローライフファンタジー!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる