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14話 英雄の代償
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体育祭の翌日。
俺は、自分が完全に「過去の自分」ではなくなったことを痛感させられた。
「あ、アラン様だ……!」
「体育祭のMVPの……!」
「おい、道を開けろ!」
俺が廊下を歩くだけでモーセの奇跡のように人垣が割れる。
下級生たちは憧れの眼差しを向け、同級生たちは畏怖と好奇の入り混じった目で俺を遠巻きに見ている。昨日までの、ただの貧乏貴族の三男坊アラン・ウォルトンはどこにもいない。
そこにいたのは、「聖女の寵愛を受けし奇跡の子」「風を操りパンを口に召喚する伝説の英雄」という、とんでもない肩書を背負わされた一人の男だった。
「サインください、アラン様!」
「どうすれば、あなたのように神のご加護を賜ることができるのですか!?」
群がってくる生徒たちに、俺は引きつった笑顔を返すことしかできない。
匿名性。
それは、俺の『大脱走計画』における、最も重要な要素だったはずだ。それが、今や完全に失われてしまった。この名声は、俺の逃亡生活にとってあまりにも重い鎖だ。
そして、その鎖を、さらに太く、強固にする人物が、もちろん黙っているはずもなかった。
「アランくん。昨日のあなたの活躍、本当に素晴らしかったですわ」
放課後、リリシア様は満面の笑みで俺の前に現れた。その手には、羊皮紙の巻物が握られている。
「あなたの輝かしい功績を祝して、私から特別な褒美を授けます」
「ほ、褒美、ですか……?」
嫌な予感しかしない。金や物であるはずがない。この人が与える褒美は、いつだって俺の自由を奪うものだ。
「ええ。これからのあなたの学園生活は、この私が全て管理してさしあげることにしましたわ!」
リリシア様が、ファサッと羊皮紙を広げる。
そこには、びっしりと、恐ろしい文字が並んでいた。
【アラン様・英雄化計画書】
・起床時間、食事メニュー、トレーニング内容の指定
・授業態度の監視と放課後の補習(二人きり)
・週末の過ごし方(教会での奉仕活動、または私とのデート)
・学園祭における武術大会および夜会の演目、衣装の指定
「……これは、なんですか」
「あなたの英雄としての品位を保ち、さらなる高みへと導くための愛の道標ですわ。光栄に思いなさい」
俺の人生は、聖女様によって完全にパッケージ化されようとしていた。
◇
その日のうちに、俺は人気のない大講堂へと引きずられていった。
計画書の第一項目、『夜会に向けたダンスの練習』を実行するためだ。
「さあ、アランくん。私の手を取りなさい」
「……はい」
リリシア様に手を取られ、腰に手を回される。
近い。あまりにも、距離が近い。
彼女の甘い香りと柔らかな体の感触が、俺の理性をじわじわと蝕んでいく。
音楽が流れ始め、俺たちはゆっくりとステップを踏み始めた。
もちろん貴族の嗜みとはいえ、貧乏貴族の俺にまともなダンスが踊れるはずもない。俺の足は、もつれ、乱れ、無様にリリシア様の足を踏みつけた。
「いっ……!」
「す、すいません!」
「ふふっ。不器用ですことね、アランくん。本当に、私がいないと何もできない、ダメな子ですわ」
リリシア様は少しも怒る素振りを見せず、むしろ嬉しそうに囁いた。
「でも、ご安心なさい。私が手取り足取り……あなたの全てを、私の望む形へと導いてさしあげますから」
その言葉は、恋人への甘い囁きなどでは断じてない。
粘土をこねる陶芸家が、自らの作品に語りかけるような、絶対的な支配者の言葉だった。
俺は、彼女の腕の中で、ただただ無力だった。
練習が終わり、心身ともに疲れ果てた俺がふらふらと寮への道を歩いていた時だった。
「――アランくん」
呼び止められて顔を上げると、そこに立っていたのはエマさんだった。
彼女は、心配そうな顔で俺に小さな紙パックのジュースを差し出した。
「これ、よかったら……。なんだか、すごく疲れた顔してるから」
「エマ、さん……」
「……本当に、大丈夫なの?体育祭の時も、今も……あなた全然笑ってないよ」
その何の裏もない純粋な心配の言葉が、俺のささくれた心にじんわりと染み渡った。
そうだ。俺は、ずっと笑っていなかった。
聖女様のペットを演じるため、魂の抜けた顔を貼り付けていた。
本当のことを話すわけにはいかない。
だが、この優しさだけは、無下にしたくなかった。
俺は、差し出されたジュースを受け取ると、彼女の目をまっすぐ見て、ほんの少しだけ口の端を上げた。
完璧な偽りの笑顔じゃない。不器用で、ひきつった。しかし、ほんの少しだけ本当の感情がこもった笑みなのだ。
「……ありがとう」
それだけ言うのが精一杯だった。
エマさんは、俺のその表情に何かを感じ取ったのか少しだけ驚いた後、ふわりと微笑んだ。
「どういたしまして。……無理、しないでね」
彼女はそう言うと、ぱたぱたと走り去っていった。
俺は、その場に立ち尽くし、手の中のジュースを握りしめた。
そうだ。
俺が取り戻したいのは、こういう日常なんだ。誰かと気兼ねなく笑い合える当たり前の毎日。
「見てろよ、リリシア様……」
俺は夜空を睨みつけた。
「俺、あんたの人形なんかで、絶対に終わらない……!」
手の中のジュースは温かくなっていた。
俺は、自分が完全に「過去の自分」ではなくなったことを痛感させられた。
「あ、アラン様だ……!」
「体育祭のMVPの……!」
「おい、道を開けろ!」
俺が廊下を歩くだけでモーセの奇跡のように人垣が割れる。
下級生たちは憧れの眼差しを向け、同級生たちは畏怖と好奇の入り混じった目で俺を遠巻きに見ている。昨日までの、ただの貧乏貴族の三男坊アラン・ウォルトンはどこにもいない。
そこにいたのは、「聖女の寵愛を受けし奇跡の子」「風を操りパンを口に召喚する伝説の英雄」という、とんでもない肩書を背負わされた一人の男だった。
「サインください、アラン様!」
「どうすれば、あなたのように神のご加護を賜ることができるのですか!?」
群がってくる生徒たちに、俺は引きつった笑顔を返すことしかできない。
匿名性。
それは、俺の『大脱走計画』における、最も重要な要素だったはずだ。それが、今や完全に失われてしまった。この名声は、俺の逃亡生活にとってあまりにも重い鎖だ。
そして、その鎖を、さらに太く、強固にする人物が、もちろん黙っているはずもなかった。
「アランくん。昨日のあなたの活躍、本当に素晴らしかったですわ」
放課後、リリシア様は満面の笑みで俺の前に現れた。その手には、羊皮紙の巻物が握られている。
「あなたの輝かしい功績を祝して、私から特別な褒美を授けます」
「ほ、褒美、ですか……?」
嫌な予感しかしない。金や物であるはずがない。この人が与える褒美は、いつだって俺の自由を奪うものだ。
「ええ。これからのあなたの学園生活は、この私が全て管理してさしあげることにしましたわ!」
リリシア様が、ファサッと羊皮紙を広げる。
そこには、びっしりと、恐ろしい文字が並んでいた。
【アラン様・英雄化計画書】
・起床時間、食事メニュー、トレーニング内容の指定
・授業態度の監視と放課後の補習(二人きり)
・週末の過ごし方(教会での奉仕活動、または私とのデート)
・学園祭における武術大会および夜会の演目、衣装の指定
「……これは、なんですか」
「あなたの英雄としての品位を保ち、さらなる高みへと導くための愛の道標ですわ。光栄に思いなさい」
俺の人生は、聖女様によって完全にパッケージ化されようとしていた。
◇
その日のうちに、俺は人気のない大講堂へと引きずられていった。
計画書の第一項目、『夜会に向けたダンスの練習』を実行するためだ。
「さあ、アランくん。私の手を取りなさい」
「……はい」
リリシア様に手を取られ、腰に手を回される。
近い。あまりにも、距離が近い。
彼女の甘い香りと柔らかな体の感触が、俺の理性をじわじわと蝕んでいく。
音楽が流れ始め、俺たちはゆっくりとステップを踏み始めた。
もちろん貴族の嗜みとはいえ、貧乏貴族の俺にまともなダンスが踊れるはずもない。俺の足は、もつれ、乱れ、無様にリリシア様の足を踏みつけた。
「いっ……!」
「す、すいません!」
「ふふっ。不器用ですことね、アランくん。本当に、私がいないと何もできない、ダメな子ですわ」
リリシア様は少しも怒る素振りを見せず、むしろ嬉しそうに囁いた。
「でも、ご安心なさい。私が手取り足取り……あなたの全てを、私の望む形へと導いてさしあげますから」
その言葉は、恋人への甘い囁きなどでは断じてない。
粘土をこねる陶芸家が、自らの作品に語りかけるような、絶対的な支配者の言葉だった。
俺は、彼女の腕の中で、ただただ無力だった。
練習が終わり、心身ともに疲れ果てた俺がふらふらと寮への道を歩いていた時だった。
「――アランくん」
呼び止められて顔を上げると、そこに立っていたのはエマさんだった。
彼女は、心配そうな顔で俺に小さな紙パックのジュースを差し出した。
「これ、よかったら……。なんだか、すごく疲れた顔してるから」
「エマ、さん……」
「……本当に、大丈夫なの?体育祭の時も、今も……あなた全然笑ってないよ」
その何の裏もない純粋な心配の言葉が、俺のささくれた心にじんわりと染み渡った。
そうだ。俺は、ずっと笑っていなかった。
聖女様のペットを演じるため、魂の抜けた顔を貼り付けていた。
本当のことを話すわけにはいかない。
だが、この優しさだけは、無下にしたくなかった。
俺は、差し出されたジュースを受け取ると、彼女の目をまっすぐ見て、ほんの少しだけ口の端を上げた。
完璧な偽りの笑顔じゃない。不器用で、ひきつった。しかし、ほんの少しだけ本当の感情がこもった笑みなのだ。
「……ありがとう」
それだけ言うのが精一杯だった。
エマさんは、俺のその表情に何かを感じ取ったのか少しだけ驚いた後、ふわりと微笑んだ。
「どういたしまして。……無理、しないでね」
彼女はそう言うと、ぱたぱたと走り去っていった。
俺は、その場に立ち尽くし、手の中のジュースを握りしめた。
そうだ。
俺が取り戻したいのは、こういう日常なんだ。誰かと気兼ねなく笑い合える当たり前の毎日。
「見てろよ、リリシア様……」
俺は夜空を睨みつけた。
「俺、あんたの人形なんかで、絶対に終わらない……!」
手の中のジュースは温かくなっていた。
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