つかれやすい殿下のために掃除婦として就くことになりました

樹里

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第230話 エルベルト殿下の恋愛観(後)

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「それではそろそろロザンヌ様をお迎えに上がります」

 うず高く積まれた書類を見てため息をついていると、夕方頃になって再び執務室に入ってきたジェラルドがそう言った。

 先ほどのことがあるから少し気まずい。
 しかし彼は全くの通常通りで悔しい部分がある。それは彼が大人だからなのか、公私混同をせずしっかり切り替えることができる真面目な性格だからなのか。

「ありがとう。頼む」
「お体は大丈夫でしょうか」

 ああ、なるほど。
 ジェラルドは酷いようなら、一緒に迎えに行った方が早く影祓いできると考えたのかもしれない。

 一瞬行こうかと思ったが、すぐにその考えを却下した。
 あまり目立った行動はしたくない。せっかくロザンヌ嬢に触れられるのに、馬車の中で影祓いとなると、手を握るだけで終わってしまうからなどという不純な思いでは……。

「座っていれば問題ないし、ご覧の通りこの仕事量だ」

 うんざりした様子を見せながら私は書類の山の頂に手をぽんと置いた。

「少しでも早く減らしたい。君だけで行ってくれ」
「そうですか。承知いたしました。それでは行って参ります。何かあれば副官にお申し付けください」
「分かった。気をつけて」
「ありがたきお言葉でございます」

 ジェラルドは小さく笑むと礼を取って出て行った。

 本人は無自覚だろうが、最近のジェラルドは何だか色気が出ていないか? ロザンヌ嬢が彼の色気に当てられないといいが。特に彼女はジェラルドのことを初対面から信頼しているようだったしな。

 ――信頼の延長線上にも恋愛感情の好きはあると思われますか。

 ジェラルドの問いと自分の答えを思い出して、ぞっとする。
 いや。笑いごとではない。
 余裕で笑っていた自分をすぐさま反省し諌めた。


 処理済みの書類が小さな山を作った頃、ジェラルドの部屋を繋ぐ扉がノックされる。いつもより早いが、ロザンヌ嬢の出仕だ。

 返事をすると、左肩の上にネロを乗せた彼女が礼を取って入ってきた。
 ネロは尻尾をしなやかにくねらせている。時折、ふさふさしていそうな尻尾が彼女の顔を撫でているが、知らぬは本人ばかりである。……いや。知っているのは私ばかりか。

 ロザンヌ嬢は普通のご令嬢とは少々異なって活発な所はあるが、さすがに貴族令嬢と言ったところか、あるいはクロエの指導の成果が出たのか、所作は美しい。
 いつもは屈託ない笑顔を浮かべているが、本日は眉を落として気遣うような表情を見せている。

「ただいま戻りました。殿下、影が憑いているとお聞きいたしました」
「ああ。悪いが、こちらに来てくれるか」

 座ったままで片手を伸ばすと彼女はかしこまりましたと素直に頷いた。
 今朝ほどは私から逃げようとしていたが、影が憑いているとなれば話は別のようだ。
 無防備に近付いてきた彼女の手を取ると強く引き寄せる。

「え。でんっ」

 体勢を崩して目を丸くする彼女が抗議する前に唇を奪った。
 昨日は彼女の唇の熱さや柔らかさ、甘さをほんの一瞬感じた直後、脱力感に倒れてしまったが、今日は昨日の分まで取り返すように存分に貪る。

「っっっ」

 今、彼女の頭の中は私のことでいっぱいになっていることだろう。溢れてこぼれ落ちた震えるような吐息すら逃したくなくて全てを飲み込む。
 
 抱き寄せた彼女の硬直していた体が緩み、さらに深く口づけようとした時――弾けるような痛みの直後、体中を走る痺れとめまいが来た。

 ちっ。限界か。

 力が抜けた隙を狙って、ロザンヌ嬢は脱兎のごとく私の腕の中から抜け出した。唇の熱さと腕の中にあった温もりは瞬く内に消え失せる。

 忌々しく思いながら私から離れたロザンヌ嬢を見ると、彼女の頬は真っ赤に熟れており、瞳は潤んでいた。ただしその目は吊り上げられて怒っているということが分かる。

「な、なななっ。いきなり何をなさるのですか!」
「予告してからが良かったか?」
「そういう問題ではありません!」

 真っ赤になった状態で怒られても可愛さしかない。

「もう! わたくしは怒っているのですよ。何を笑っていらっしゃるのですか」
「悪い悪い。あまりに可愛いすぎて」
「っ!」

 ロザンヌ嬢は言葉を失って、さらに顔を紅潮させたが、すぐに臨戦態勢に入った。

「な、なっ。ま、またそんなことをおっしゃって! お、お言葉が軽すぎますよ」

 やっとのことでどもりつつ紡いだ彼女の言葉に、どうしようもなく笑みが零れてしまう。

「本当のことだから仕方がない」
「うーうーうっ」

 彼女お得意の反撃話術を行使できず、ただ真っ赤になりつつ低く唸る姿は、毛を逆立たせて威嚇している子猫のようで愛らしい。

「と、ともかく! 殿下と言えども、相手の同意を得ずに口っ、口づけすることは、ゆ、許されないのですからね」
「じゃあ、キスしていいか。――と尋ねてからならばいいのか?」
「うっ」

 彼女はなぜか目を見開いてよろけた。

「ロザンヌ嬢!」
「大丈夫です。わたくしは大丈夫。ですが、しばしお時間を」

 手を伸ばそうとした私を軽く制止し、顔に片手をかざしながら視線を逸した。
 何度か深呼吸を繰り返しているようだ。彼女の小さな肩が上下する。やがて落ち着いたのか、こちらに振り返り、キッと私を睨みつけて人差し指をびしりと突きつけてきた。

「殿下! この神聖なる執務室にて、不純異性交遊をしてはいけません。ええ。そうですとも!」
「……神聖なる?」
「と、とにかくいつ来客がいらっしゃるかもしれませんし、執務室ではいけません」
「まあ、確かに」

 キスの最中に来客が現れて中断させられたら、その人物に八つ当たりしてしまう自信がある。

「分かった。ここでは不純異性交遊とやらは無しにしよう」
「はい。ありがとうございます」

 頷くとロザンヌ嬢はようやくほっとしたように肩を下ろした。

 お礼まで言われてしまったが、さて、彼女はどこまでが不純異性交遊と考えているのだろうか。

 まあ、私と多少の見解の違いがあっても許されるだろう。
 私は嘘は言っていないのだから。
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