マンドラゴラの王様

ミドリ

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第一章 観察日記

15 いざ、帰宅

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 あちこちに泥が付着した私の背中に、同じく泥が付着しまくった浴衣姿のゴラくんが覆い被さる様にしてくっついている。歩きにくいことこの上なかった。

「ゴラくん、あのね、歩きにくいから……!」

「みそら、こわい……っ」

 ゴラくんは、思わず笑ってしまいたくなるくらい怯えた表情でキョロキョロと余裕なく辺りを見回している。若干目が血走り気味で、それにより彼の中には人間と同じ様に血液が循環していることが推測された。

 それにしても歩きにくい。下手をすると、足を滑らせ二人とも転びかねない。そうなった時のゴラくんの驚き方を考えると、なるべく転倒は避けたかった。多分だけど、滅茶苦茶びっくりする。

「怖くないから。私、いつも一人で来てるでしょ?」

 山からの下り道。ゴラくんは、見事に怯え切っていた。冷静に考えれば、地面から生えてきたマンドラゴラが歩き始めた事実の方が怖いけど。

 何故言葉を当たり前の様に喋っているかは、本当に謎だった。考えても分からないので、それは元々遺伝子か何かに備わっていた知識なのだと思うことにする。歩いたり泣いたりする様な、元々持っている生物としての記憶だ。あの蔓延った根のどこかに、さながら遺伝子情報と同じ様な螺旋があったのかもしれない。

 だけど、物事に対する知識は備わっていないらしい。あの明るい空間から一歩山の中に入った途端、鬱蒼とした雰囲気に呑まれたのか、こうして怯えてしがみつき始めた、という訳だ。

「ほら、危ないから、じゃあ手を繋ごう! ね?」

「う、うん……っ」

 涙目で頷かれ、私の中は現在母性で満ち溢れている。それはもう恐ろしく擽られている母性は、私にもこんなにもあったのかと思わせる量だ。

 何とかゴラくんを背中から引き剥がすことに成功すると、慌てて私の手を探し両手で握り締める。その手は大きく温かい。ひと月以上もの間あそこに生えていた彼が、今確かに足を得て私と共にこれから過ごす場所へと移動出来ているという事実に、私の心は感動で震えていた。母性に感動にと溢れ返り過ぎて、私も半ば混乱状態にある。

 よく考えたら、知らない人が見たら、枯れ気味の私が滅茶苦茶格好いい外国人の男と手を繋いでいる様にしか見えないだろう。内情は、保護者と孵りたてのマンドラゴラな訳だけど。

「ここはね、私の散策コースなんだ。ええと、お散歩」
「おさんぽ」
「そうそう」

 少しずつ外界に慣れてきたのだろう。時折鳥達が立てる羽音にビクッとする時はあったけど、表情が大分和らいできている。私が笑い掛けると、ゴラくんの顔にもようやく笑みが浮かんだ。

「今から、私……私達のお家に行くからね」
「おうち」
「そう、お家。なんて言うかな……家族で住む所?」

 ゴラくんは、口の中でおうち、かぞく、と呟いている。分かってくれたらしい。

「今日から一緒に住もう。……いいかな?」

 果たして本当に意味を理解しているのかと疑問に思ったけど、にこにこして頷いているのできっと大丈夫だろう。言語の理解度は高いので、発信する際の言葉の選択がまだ辿々しいだけの様にも思える。

 これからは、一つずつ色んなものを見せてあげよう。父の部屋にある絵付きの図鑑もいいし、テレビでやっている自然番組もいいかもしれない。ゴラくんの姿を見るまでは絶望に打ちひしがれていたというのに、今ではすっかりワクワクしてしまっている。自分の浮き沈みの酷さに呆れざるを得ないけど、安心してしまったのだから仕方ない。でも。

「ゴラくん、もしね……」
「うん」

 これだけは言っておこう。いつか訪れるその日の為に。その時には、今日感じた恐怖を体験しなくても済む様に。

 ゴラくんを見上げ、紫の目を見つめる。

「もしこことは別のどこかに行きたくなった時は、私にも教えてくれる?」
「べつのところ?」

 ゴラくんが、キョトンとした顔になった。突然こんなことを言われても、分からないのだろう。他の言い方はないか。考え、言葉を紡ぐ。

「私に何も言わないでいなくならないで……かな?」

 ゴラくんは、私を見たまま何も答えない。難しかったか。

「ええと……さよならする時は、教えて……は分かるかな?」
「さよなら、しない」
「さよならは意味分かった……わぷっ」

 いきなり目の前にゴラくんが回り込んだかと思うと、進路に真っ直ぐ立ち、少し怒った様に私を見下ろしていた。

「ゴラくん? ほら、行こうよ」
「さよなら、しない。みそらといる」

 違う、これは怒っているんじゃない。悲しんでいる表情だ。私の不用意な言葉選びで、ゴラくんを悲しませてしまったのだ。慌てて首を横に振る。

「ごめんゴラくん、さよならするっていう意味じゃないの、そうじゃなくて、知らない間にいなくなったら悲しいから、それで」

 ああ、うまく言えない。相変わらず私の語彙力はポンコツで、コミュニケーション能力は著しく低い。母親代わりとしては、あまりいい先生とは言えなさそうだ。

「みそら、かぞく。ずっと、いっしょ」

 ゴラくんの悲しそうな紫色の瞳を見ていたら、罪悪感がぐわっと押し寄せてきた。慌ててコクコクと頷くと、ようやくゴラくんが安堵した様に小さく笑う。

「みそら、すき」
「えっ」

 むぎゅ、とその大きな身体に包まれる。ゴラくんは、これまで幾度もしてきた時と同様に、痛くはないけど逃げられない程度の拘束力を以って私を抱き締めた。そして、もにょ、と私のお腹に何かが当たっている。浴衣の下は、何も着ていない。

 ――風呂、下着、着衣。まずは基本中の基本の事柄を、今日だけは羞恥を堪えて教え込まねばならないことに、今になって気付いた私だった。



 家に到着すると、心頭滅却した上でゴラくんを剥き、風呂に入れ、頭の洗い方から身体の洗い方まで全て教えた。バスタオルの使い方も教えると、気分はすっかり母親だ。例え目の前に固い背中や引き締まったお尻があったとしても、これは教育の一環だ、と心を無にして挑んだ。ドライヤーの音にびっくりして飛びつかれた時は、さすがに無になることは出来なかったけど。

 歯磨きの仕方も教えたけど、どうしても上手く出来ないらしい。少々恥ずかしかったけど、膝枕をして仕上げ磨きをしてあげると、ゴラくんは心底安心した様に私をずっと見つめていた。母性とは、対象物の安堵した顔によって湧き起こるものなのかもしれない。

 どうなることかと一番危惧していた食事については、ゴラくんは普通に食べることが出来た。あっさりと難題をクリアし安心していたら、次に起きた問題の方が遥かにハードルが高かった。

 排泄だ。見ていいのか? いいのか? と何度も自問自答しながら男性用の排尿の仕方を教えた時は、顔から火が出るかと思った。排便については、申し訳ないけどどうしても実践の場を見るのは憚られ、図解で説明させてもらった。その後トイレでトイレットペーパーの存在もきちんと伝えたので、きっと何とかなるに違いないと思いたい。

 あっという間に夜になった。用意された部屋に一人で寝るのは嫌だと泣きそうな顔で訴えられたので、テレビのある居間で布団を並べて寝ることにする。寝るついでにテレビで平和そうなネイチャー番組を流してあげると、ゴラくんは目を輝かしてじっと眺めていた。

 ゴラくんは植物だ。植物は寝るのか? 実はこれも気になっていた。何故なら、夜に寝られるのと寝られないのとでは、大きな違いがあるからだ。あの山の中でずっと一人の夜を過ごしてきたゴラくんにとっては、もしかしたら大した問題ではないのかもしれない。だけど、周りが寝ているのに寝られないのは、寂し過ぎやしないか。

 だから、ゴラくんがちゃんと寝るのかを見届けようとした。したけど、そもそも夜更かし出来ない体質の上、今日は何かと刺激的なことが多過ぎた。つまりどういうことかというと、ゴラくんには申し訳ないけど先に寝てしまったのだ。

 はっと夜中に目が覚める。夢見の所為だ。私は自分が荊姫になった夢を見ており、がんじがらめに閉じ込められ逃げたい、苦しいと泣いていた。

 目を覚まし、何故そんな夢を見たかを理解する。隣の布団にいた筈のゴラくんは、いつの間にか私の布団の中にいた。そして、手も足も顎も使って私を後ろから羽交い締めにしている。今日、私をその腕の中に収めゴロゴロと心ゆくまま泥だらけになるまで地面を転がった時と同じ状態だ。

 何とか首を動かして、静かなゴラくんを見る。瞼はしっかりと閉じていた。どうやら寝ている様だ。

 植物は寝ることが出来る。私がこの日最後に学んだことだった。
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