不遇の花詠み仙女は後宮の華となる

松藤かるり

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4章 呪詛、虚ろ花(前)

3.深き蒼緑の宮にて(2)

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 その色は、木々が鬱蒼と茂った山を思い出す。森林の奥にいるような心地になる深い蒼緑だ。

(これが、坤母宮)

 門の前に立って見上げれば、花詠みで見たものと同じ場所である。人がいないからか庭は手入れをされず、閑散としている。陰鬱とした気が流れていた。

「……華妃様、あの」

 藍玉がおずおずと歩み出て耳打ちをした。視線は少し離れた、通路の角に向けられている。
 その気配については紅妍も察していた。誰かがつけてきている。しかし血のにおいはしていないので鬼霊ではない。おそらく生者だ。

「放っておこう」

 紅妍はそう告げて、坤母宮の門をくぐる。

 一歩踏み出せば、そこに漂ういやな気が足に絡みついた。どんよりと重たく、粘ついた気だ。聡い者でなければ気づかないのだろう。藍玉や宮女たちは特に気にしていない様子である。
 その気は光乾殿のものと似ていた。身が重たくなり、胸を潰すような悪気。長く留まっていれば患ってしまいそうなほどである。

(藍玉たちに影響がでる前に、早く事を終わらせなければ)

 紅妍は庭に向かう。伸びた草を避けながら歩くと、白百合の茂みが見えた。そばには花詠みで見た渡り廊下も見えている。百合の鬼霊が持ってきた白百合はここで摘んだものだろう。

(だとするなら、ここで呪詛を施したはず)

 あの妃が誰であったのかはわからない。もう一度ここにある花を詠めばわかるかもしれない。
 紅妍は白百合の茂みに寄る。昨晩花詠みをした百合とは違う位置で、呪術師が摘んだ百合と同じ茂みである。ここの記憶を詠めば、妃の顔がわかるかもしれない。

「華妃様……」

 後ろに控える藍玉が不安げな声をあげた。紅妍は百合を一輪摘んだ後、藍玉に微笑む。

「心配しなくていい。わたしは、この花詠みを聞くだけだから」
「どうか、無理されませんよう」

 紅妍は頷き、百合に向き直る。瞳を閉じ、手に乗せた白百合に意識を傾ける。
 昨日は百合の心がよく開いていた。しかしこの百合は違う。頑なで、何かを畏れているようにも感じる。

(あなたが視てきたものを、教えてほしい)

 少しずつ解いていくように。いやな汗がじわりと浮かんだ。それでも花詠みを止めない。

 花が持つ記憶の糸は数多で、そこから欲しいものを探す。感覚を研ぎ澄ませ、絹糸のように細く千切れそうなものから選び抜く。紅妍の手が、それを掴んだ。
 白百合は詠みあげる。広がるその景色を、華仙術師は聞くのみ。


『ならば構わん。やれ』

 その言葉は妃らしき者が言った。呪術師が白百合を摘む。
 昨日見た花詠みと同じ場面だろう。しかし今回は別の位置に咲く白百合を詠んでいる。呪術師の面布に書かれた墨字も、妃の顔もよく見えた。
 呪術師は木箱に花を収めながら告げる。

『この呪詛は強いものです。必ずや願いを叶えてくれるでしょう』

 木箱に札を貼る。それは見ているだけで禍々しさの伝わる札だ。いずれそれは溶けて、木箱の中にある百合を黒く染め上げるのだろう。

『しかし代償として何かを失います。おそらくは指かと』
『十本もあるのだから一本ぐらい欠いたとて構わん』
『……であれば良いのですが』

 呪術師の語りから察するに、代償として失う指は一本だけではないのだろう。それを妃は気づいていないようだった。

『呪詛は黒花となり呪い殺します。呪詛返しも然り。願望成就の暁には、黒花がその指を覆うでしょう』
 呪術師は顔をあげた。妃を見上げている。妃もまた冷えた瞳で呪術師を見下ろしていた。
『このことは口外せぬようにな』
『わかっておりますとも――

 その名に、紅妍がたじろいだ。集中が乱れ、花詠みの景色も揺らいでいる。

 すると、辛皇后がこちらを向いた。百合ではなく、百合を通じてこちらを見ている紅妍に気づいているような素振りである。
 おかしい。花詠みで見るのは過去である。過去の存在がこちらに気づくことはない。だというのに辛皇后は茂みをかきわけてこちらに手を伸ばす。

(な、なぜ――)

 少しずつ辛皇后の姿が変わっていく。気づけば、辛皇后は瓊花を縫い付けた面布を付けていた。もうその顔は見えていない。指には小さな黒百合が無数に咲き、その隙間から爪が長く伸びる。肌は土気色をし、胸には黒く塗られた瓊花が咲いている。

 血のにおいがした。これは鬼霊だ。

「華妃よ」

 鬼霊と成った辛皇后が百合を摘む。これは花詠みではない。花詠みは妨げられ、瓊花の鬼霊に介入されているのだ。紅妍は百合と同化したままである。されるがまま持ち上げられ、鬼霊の眼前に晒された。

「じゃまをするな。このうらみは消えぬ」

 爪が食い込む。身が強く締め上げられ、内側からじりじりと焼き尽くされていくようだ。あまりの痛みに紅妍は悲鳴をあげていた。だが紅妍の視界には鬼霊しかいない。周囲は色あせている。誰も人の気配がしない。

「このうらみは、かえさなければ、きがすまぬ」

 その言葉と共に鬼霊が百合を握りつぶす。紅妍も激痛に襲われた。骨がきしんで、痛む。
 鬼霊が手から百合を落とし、地に落ちていく。花詠みを中断され、百合に溶けたままの紅妍も、身が落下していくのを感じた。

(鬼霊が介入するなんて知らなかった……それに、この鬼霊は自我がある)

 言葉を発するということは強い自我を持つ鬼霊。強い目的を持ってこの世にすがりついているのだ。瓊花の鬼霊――辛皇后はそれほどに何かを恨んでいるのか。

 この花詠みから抜け出さなければと思うも、うまく動けない。視界は黒に落ちていく。

 いまにも落ちそうな意識が最後に捉えるは百合の茂み。
 そして、その奥に、咲くもの。

(ここにも……黒い花がある)

 その不自然な場所に、どんよりと黒い色を放つ木香茨があった。木があるのではない。木香茨の小枝が急に土から伸びている。自然の理を曲げて存在しているのだと一目でわかった。
 虚ろ花だ。呪詛に使われた木香茨もっこうばらがここにある。それはつまり――考えようとした時、ついに紅妍の意識が落ちた。
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