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第一部「ブレナード反逆編」
第4話:新婚初夜(契約だけど)
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婚姻契約書への署名を終えたその日の夕方、私は正式にグランデ侯爵夫人となった。
といっても、それは書面上だけの話であって、愛情も誓いの言葉も交わしていない。ただの形式――そう、自分に言い聞かせていた。
「本日より、レイナ様には東棟の主寝室をご用意しております。ご希望により、閣下の寝室とは完全に分離されておりますのでご安心くださいませ」
侍女の穏やかな声が、どこかくすぐったい。
この屋敷で“夫人”と呼ばれる日が来るとは、数週間前の私には想像もつかなかった。
――新婚初夜とは名ばかりの、静かな夜。
私は、深紅の天蓋つきベッドに腰を下ろし、ふと自分の手を見つめた。
指輪はない。もちろんドレスも、白ではなく、グレーを基調とした落ち着いた色合いのものだ。契約結婚という距離感を象徴するかのように。
それでも、心のどこかが落ち着かない。
「契約だから」と自分に言い聞かせるたびに、妙なざわめきが胸をくすぐっていく。
* * *
ノックの音が響いたのは、夜も深まりかけた頃だった。
「入って」
ドアを開けたのは、当の本人――アレクシスだった。
変わらず無表情、だが手には一冊の本を持っている。
「……お休み前に、話がしたくて」
彼の言葉に私は警戒しつつも頷いた。彼は遠慮がちに部屋の片隅のソファに腰を下ろす。
「契約違反では?」
「“最低限の連絡”は許可されているだろう」
……抜け目ないわね。
私はベッドから降り、向かいの椅子に腰を下ろす。テーブルを挟んで座る私たちは、まるで小さな戦を前に睨み合う将軍同士のようだった。
「レイナ。今日からここでの生活が始まるが、何か困っていることはあるか?」
「特にありませんわ。執事も侍女も有能ですし。……むしろ、閣下の方こそ困っていません?」
「……ひとつだけ」
「え?」
「君の寝室が遠すぎて、“おやすみ”を言いに行くのに時間がかかる」
私は思わず口を開けたまま、数秒固まった。
「……おやすみ、は必要最低限の連絡ですの?」
「“日常の挨拶”に含まれると思っている」
この人、真面目なのか天然なのか。
だがその顔は至って本気で、どこにも冗談の気配はなかった。
「……仕方ありませんわ。では、今日だけ特別に許可します。“おやすみ”をどうぞ」
「……おやすみ、レイナ」
淡々とした声なのに、何か柔らかい熱がこもっていて、胸の奥がくすぐったくなる。
「おやすみなさい、閣下」
そう返すと、彼は小さく頷き、扉へ向かう……かと思いきや、途中でふと振り返った。
「……そうだ。本を一冊、枕元に置いておく。寝つけない夜に読んでくれ」
「……わざわざ持ってきてくださったんですの?」
「初日だからな。“契約相手”がよく眠れるように、配慮した」
“契約相手”という言葉を強調するように言う彼。だが、その視線はどこか優しくて、不器用な思いやりが滲んでいた。
私はその本――古くて丁寧に綴じられた詩集を手に取った。
「……これは?」
「母が昔、読んでくれたものだ。言葉は古いが、優しい」
私の胸の奥がふと温かくなった。
彼にとって、大切な記憶なのだろう。そんなものを、他人である私に託すなんて。
「ありがとう、閣下。大切に読ませていただきますわ」
「……無理に読まなくてもいい。“お守り”のつもりで置いただけだ」
そのまま彼は、静かに部屋を出ていった。
* * *
扉が閉まったあと。
私はベッドの上で、彼から渡された詩集をそっと開く。ページをめくると、そこには柔らかく優しい言葉たちが並んでいた。
――「愛とは、隣に座る沈黙の心地よさ」
――「冷たい指先に、そっと手を重ねること」
それはまるで、今の私たちを予言するような一節だった。
“契約”から始まったこの関係に、本当に“感情”は不要なのか。
彼の瞳にあったあの静かな熱が、ページの奥からも感じられる気がして、私はそっと本を閉じた。
「……まったく、ずるい方ですこと」
静かに灯るランプの下、私は布団に身を沈める。
そしてほんの少しだけ、心のどこかが、柔らかくほどけていった。
といっても、それは書面上だけの話であって、愛情も誓いの言葉も交わしていない。ただの形式――そう、自分に言い聞かせていた。
「本日より、レイナ様には東棟の主寝室をご用意しております。ご希望により、閣下の寝室とは完全に分離されておりますのでご安心くださいませ」
侍女の穏やかな声が、どこかくすぐったい。
この屋敷で“夫人”と呼ばれる日が来るとは、数週間前の私には想像もつかなかった。
――新婚初夜とは名ばかりの、静かな夜。
私は、深紅の天蓋つきベッドに腰を下ろし、ふと自分の手を見つめた。
指輪はない。もちろんドレスも、白ではなく、グレーを基調とした落ち着いた色合いのものだ。契約結婚という距離感を象徴するかのように。
それでも、心のどこかが落ち着かない。
「契約だから」と自分に言い聞かせるたびに、妙なざわめきが胸をくすぐっていく。
* * *
ノックの音が響いたのは、夜も深まりかけた頃だった。
「入って」
ドアを開けたのは、当の本人――アレクシスだった。
変わらず無表情、だが手には一冊の本を持っている。
「……お休み前に、話がしたくて」
彼の言葉に私は警戒しつつも頷いた。彼は遠慮がちに部屋の片隅のソファに腰を下ろす。
「契約違反では?」
「“最低限の連絡”は許可されているだろう」
……抜け目ないわね。
私はベッドから降り、向かいの椅子に腰を下ろす。テーブルを挟んで座る私たちは、まるで小さな戦を前に睨み合う将軍同士のようだった。
「レイナ。今日からここでの生活が始まるが、何か困っていることはあるか?」
「特にありませんわ。執事も侍女も有能ですし。……むしろ、閣下の方こそ困っていません?」
「……ひとつだけ」
「え?」
「君の寝室が遠すぎて、“おやすみ”を言いに行くのに時間がかかる」
私は思わず口を開けたまま、数秒固まった。
「……おやすみ、は必要最低限の連絡ですの?」
「“日常の挨拶”に含まれると思っている」
この人、真面目なのか天然なのか。
だがその顔は至って本気で、どこにも冗談の気配はなかった。
「……仕方ありませんわ。では、今日だけ特別に許可します。“おやすみ”をどうぞ」
「……おやすみ、レイナ」
淡々とした声なのに、何か柔らかい熱がこもっていて、胸の奥がくすぐったくなる。
「おやすみなさい、閣下」
そう返すと、彼は小さく頷き、扉へ向かう……かと思いきや、途中でふと振り返った。
「……そうだ。本を一冊、枕元に置いておく。寝つけない夜に読んでくれ」
「……わざわざ持ってきてくださったんですの?」
「初日だからな。“契約相手”がよく眠れるように、配慮した」
“契約相手”という言葉を強調するように言う彼。だが、その視線はどこか優しくて、不器用な思いやりが滲んでいた。
私はその本――古くて丁寧に綴じられた詩集を手に取った。
「……これは?」
「母が昔、読んでくれたものだ。言葉は古いが、優しい」
私の胸の奥がふと温かくなった。
彼にとって、大切な記憶なのだろう。そんなものを、他人である私に託すなんて。
「ありがとう、閣下。大切に読ませていただきますわ」
「……無理に読まなくてもいい。“お守り”のつもりで置いただけだ」
そのまま彼は、静かに部屋を出ていった。
* * *
扉が閉まったあと。
私はベッドの上で、彼から渡された詩集をそっと開く。ページをめくると、そこには柔らかく優しい言葉たちが並んでいた。
――「愛とは、隣に座る沈黙の心地よさ」
――「冷たい指先に、そっと手を重ねること」
それはまるで、今の私たちを予言するような一節だった。
“契約”から始まったこの関係に、本当に“感情”は不要なのか。
彼の瞳にあったあの静かな熱が、ページの奥からも感じられる気がして、私はそっと本を閉じた。
「……まったく、ずるい方ですこと」
静かに灯るランプの下、私は布団に身を沈める。
そしてほんの少しだけ、心のどこかが、柔らかくほどけていった。
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