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第二部「風薫る港町と、新たな胎動」
第1話:風薫る港町と、新たな胎動
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潮風が、頬を撫でた。
目の前には、紺碧の海と白く続く砂浜。
王都から馬車で三日、さらに小舟で半日。地図にも名の載らない港町“ティレル”は、まるで時の流れから取り残されたように静かな場所だった。
「……アレクシス様、本当にここで良かったのですか?」
「君が選んだんだろう? “静かで、美しい場所”」
私の肩に毛布をかけながら、彼はいつもの柔らかな声で応じる。
戦いの日々を経て、私たちは今、“名を伏せた夫婦”としてこの町の宿に滞在している。
どこにでもいる、旅人のように。
「名前を呼ばれるの、まだ慣れませんわ。“グランデ侯爵夫人”とばかり言われていたから……」
「だったら今だけは、名前だけで呼ぼうか。レイナ」
その名を、優しく囁かれるだけで心がふわりとほどけていく。
私はうなずき、空を見上げた。
王都では見えなかった星々が、無数に瞬いている。
「アレクシス様。……私、あなたとこうして旅をしているのが、まだ夢みたいです」
「僕も。だけど夢ではない。ほら」
彼がそっと私の手を握る。
そこには、あの日の指輪が光っていた。
政略でも契約でもない、本物の“誓い”の印。
* * *
港町での暮らしは、驚くほど穏やかだった。
朝は漁船の鐘の音で目を覚まし、昼は市場で果物を選び、夜は宿の暖炉の前でふたり並んで本を読む。
名乗る必要も、警戒する必要もない。ただ、“夫婦”としての時間だけが、静かに過ぎていく。
だが、ある日。
町外れの診療所をふと訪れた帰り道。医師の言葉が、私の世界を変えた。
「……レイナさん、お身体にご負担はありませんか? 食事は摂れていますか?」
「ええ、最近少し眠くて、食欲も落ちていて……でも疲れが出ただけかと」
医師は微笑みながら首を振った。
「いいえ、それは――おめでたい兆候ですよ。……おそらく、妊娠なさっています」
私はその場で言葉を失った。
子を――
私とアレクシスの間に、新しい命が?
診療所の外に出た瞬間、潮風の香りがいつもより甘く感じられた。
涙が一粒、頬をつたう。
* * *
その夜。
宿の部屋に戻った私は、彼のもとへ歩み寄り、そっとその手を取った。
「……アレクシス様」
「ん? どうした、そんな顔で」
私は、深く息を吸い込んでから、静かに言った。
「……赤ちゃん、できたみたいです」
彼の瞳が、大きく見開かれる。
「……え?」
「まだ確定ではないけれど、医師がそう……」
言い終わる前に、彼が私を抱き締めた。
その腕は震えていた。
どんな戦場に立っても決して揺るがなかった男が、今、小さく震えていた。
「……ありがとう、レイナ。……ありがとう」
耳元でそう呟かれたとき、私はようやく“すべての戦いが報われた”のだと実感した。
争いも、裏切りも、血塗られた陰謀も――
すべては、この命に辿り着くための試練だったのかもしれない。
* * *
夜。
眠る私のお腹に手を添えながら、アレクシスは静かに囁いた。
「……この命は、守り抜く。どんなことがあっても」
その声は小さく、けれど確かな決意に満ちていた。
こうして、平穏な日々の中で始まった新たな命。
だが、この命が生まれるまでには――
まだ語られるべき物語が、幾つも待っていた。
目の前には、紺碧の海と白く続く砂浜。
王都から馬車で三日、さらに小舟で半日。地図にも名の載らない港町“ティレル”は、まるで時の流れから取り残されたように静かな場所だった。
「……アレクシス様、本当にここで良かったのですか?」
「君が選んだんだろう? “静かで、美しい場所”」
私の肩に毛布をかけながら、彼はいつもの柔らかな声で応じる。
戦いの日々を経て、私たちは今、“名を伏せた夫婦”としてこの町の宿に滞在している。
どこにでもいる、旅人のように。
「名前を呼ばれるの、まだ慣れませんわ。“グランデ侯爵夫人”とばかり言われていたから……」
「だったら今だけは、名前だけで呼ぼうか。レイナ」
その名を、優しく囁かれるだけで心がふわりとほどけていく。
私はうなずき、空を見上げた。
王都では見えなかった星々が、無数に瞬いている。
「アレクシス様。……私、あなたとこうして旅をしているのが、まだ夢みたいです」
「僕も。だけど夢ではない。ほら」
彼がそっと私の手を握る。
そこには、あの日の指輪が光っていた。
政略でも契約でもない、本物の“誓い”の印。
* * *
港町での暮らしは、驚くほど穏やかだった。
朝は漁船の鐘の音で目を覚まし、昼は市場で果物を選び、夜は宿の暖炉の前でふたり並んで本を読む。
名乗る必要も、警戒する必要もない。ただ、“夫婦”としての時間だけが、静かに過ぎていく。
だが、ある日。
町外れの診療所をふと訪れた帰り道。医師の言葉が、私の世界を変えた。
「……レイナさん、お身体にご負担はありませんか? 食事は摂れていますか?」
「ええ、最近少し眠くて、食欲も落ちていて……でも疲れが出ただけかと」
医師は微笑みながら首を振った。
「いいえ、それは――おめでたい兆候ですよ。……おそらく、妊娠なさっています」
私はその場で言葉を失った。
子を――
私とアレクシスの間に、新しい命が?
診療所の外に出た瞬間、潮風の香りがいつもより甘く感じられた。
涙が一粒、頬をつたう。
* * *
その夜。
宿の部屋に戻った私は、彼のもとへ歩み寄り、そっとその手を取った。
「……アレクシス様」
「ん? どうした、そんな顔で」
私は、深く息を吸い込んでから、静かに言った。
「……赤ちゃん、できたみたいです」
彼の瞳が、大きく見開かれる。
「……え?」
「まだ確定ではないけれど、医師がそう……」
言い終わる前に、彼が私を抱き締めた。
その腕は震えていた。
どんな戦場に立っても決して揺るがなかった男が、今、小さく震えていた。
「……ありがとう、レイナ。……ありがとう」
耳元でそう呟かれたとき、私はようやく“すべての戦いが報われた”のだと実感した。
争いも、裏切りも、血塗られた陰謀も――
すべては、この命に辿り着くための試練だったのかもしれない。
* * *
夜。
眠る私のお腹に手を添えながら、アレクシスは静かに囁いた。
「……この命は、守り抜く。どんなことがあっても」
その声は小さく、けれど確かな決意に満ちていた。
こうして、平穏な日々の中で始まった新たな命。
だが、この命が生まれるまでには――
まだ語られるべき物語が、幾つも待っていた。
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