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――雨のにおいがした。
季節は初夏。あの夜と同じように、空は淡いグレーをまとっている。
小さな雲の切れ間から夕陽が差し込み、コンクリートの屋上をやわらかく染めていた。
俺は校舎の鉄の階段を上がる。
足音が響くたびに、心の奥で昔の自分が顔を出す。
汗ばむような気温なのに、胸の奥はひどく静かだった。
――ここが、俺と蓮が「全部」を始めた場所。
あの夜、震える声で好きと叫んだ。
抱きしめた体温。ぶつけ合った不安。
何度もすれ違って、それでも手を離さなかった。
今、目の前に広がる風景は、何も変わっていないのに――
俺たちだけが少し、大人になった。
「……早ぇよ、蓮」
風に揺れるフェンスの向こう。
屋上の隅に、蓮は立っていた。
背中越しに見えるシルエットは、昔よりもほんの少しだけ広く、たくましい。
黒いシャツの裾を風がふわりと撫でる。
髪も少し伸びた。
でも振り返ったときの笑顔は、何一つ変わっていなかった。
「お前こそ、いつもギリギリに来るじゃん」
「……はは、相変わらずうるせぇな」
「うるさいの、好きなくせに」
軽口を交わすと、胸の奥にじんわりとした熱が広がった。
その温度が、懐かしさと安心をいっぺんに運んでくる。
蓮は大学を卒業して、もうすぐ社会人になる。
俺も、自分の道を歩き始めたところだ。
夢とか、現実とか、昔よりずっといろんなことを考えるようになった。
それでも――この屋上に来ると、全部が一度、最初に戻る。
俺と蓮の“原点”だ。
「なあ、覚えてる?」
蓮がフェンスに肘をつきながら、少し遠くを見る。
「何を」
「雨の夜。お前が俺にキレた日」
「……忘れるわけねぇだろ」
「びしょ濡れで、キスして、泣きながら“もう逃げねぇ”って言ったお前の顔、今でも覚えてる」
「やめろ、マジで」
「かわいかったよ」
蓮がいたずらっぽく笑う。
くそ、こいつ、ほんと昔から変わんねぇ。
「でも、あの夜がなかったら、今の俺たちいないんだろうな」
「……ああ。あそこで踏ん張ってなかったら、きっと途中で壊れてた」
「壊れなくてよかったな」
「壊せなかったんだろ、俺たち」
沈黙の間に、風が通り抜ける。
遠くから、部活の声とボールの音が響いていた。
それだけで胸がきゅっとなる。
過去と今が、ちゃんとつながっている音がした。
蓮が少し歩み寄ってきて、俺の髪をくしゃっと撫でる。
昔は背丈が同じくらいだったのに、今はほんの少し、蓮の方が高い。
「お前、髪伸びたな」
「うるせぇ」
「大人になったって感じ」
「お前もな」
「俺はずっと匠の隣にいるから」
その言い方が、あまりにも自然で、まっすぐで、胸に落ちた。
あの頃みたいに、無理に確かめ合わなくてもいい。
それでも、互いの手を伸ばせば、ちゃんと届く距離にいる。
「なあ、蓮」
「ん?」
「未来の話、していいか」
「もちろん」
「俺、お前と一緒にいたい。
この先、どこに行っても、何をしてても、お前がいる毎日がいい」
蓮は驚いた顔をしたあと、すぐに目を細めた。
雨雲の切れ間から差した光が、その笑顔を金色に縁取る。
「……ずりぃよ、先に言うなんて」
「言いたかったんだよ。ずっと」
「じゃあ、俺も言わせろ」
蓮が俺の手を握る。
大きくて、少し固くなった手。
昔みたいに震えていない。
「匠。俺、お前と一緒に未来を歩きたい」
「……バカ」
「俺たち、いろんな雨をくぐってきたじゃん。
だから、これからも――どんな雨でも、一緒に濡れて、笑って、キスして……」
「うるせぇ。キスとか真顔で言うな」
「じゃあ、実践してみる?」
蓮がにやっと笑う。
フェンスの影、柔らかい光の中で、俺たちは唇を重ねた。
少し湿った風が頬を撫でる。
遠くで雷が小さく鳴ったけれど、怖くなかった。
だって、俺たちはもう――逃げない。
息が混ざり合って、心臓が跳ねた。
でも、あの頃のような不安はない。
手を離す理由も、もうどこにもなかった。
「なあ、蓮」
「ん?」
「“好きなわけ”、あるだろ」
「……あるよ。めちゃくちゃある」
「俺も」
蓮の笑い声が、少しだけ滲んだ空の下で弾けた。
雨のにおいはあの日と同じなのに、心の景色はまるで違う。
――これは始まりじゃなくて、続いていく物語の“途中”だ。
俺と蓮は、肩を並べたまま空を見上げる。
いつかこの街を出ても、この夜を思い出せば、きっと何度でも帰ってこられる。
そんな確信が、胸の奥に灯っていた。
「行こうぜ、蓮」
「うん。未来へ」
握った手は、あの日よりもずっと――強く、温かかった。
─── END ───
季節は初夏。あの夜と同じように、空は淡いグレーをまとっている。
小さな雲の切れ間から夕陽が差し込み、コンクリートの屋上をやわらかく染めていた。
俺は校舎の鉄の階段を上がる。
足音が響くたびに、心の奥で昔の自分が顔を出す。
汗ばむような気温なのに、胸の奥はひどく静かだった。
――ここが、俺と蓮が「全部」を始めた場所。
あの夜、震える声で好きと叫んだ。
抱きしめた体温。ぶつけ合った不安。
何度もすれ違って、それでも手を離さなかった。
今、目の前に広がる風景は、何も変わっていないのに――
俺たちだけが少し、大人になった。
「……早ぇよ、蓮」
風に揺れるフェンスの向こう。
屋上の隅に、蓮は立っていた。
背中越しに見えるシルエットは、昔よりもほんの少しだけ広く、たくましい。
黒いシャツの裾を風がふわりと撫でる。
髪も少し伸びた。
でも振り返ったときの笑顔は、何一つ変わっていなかった。
「お前こそ、いつもギリギリに来るじゃん」
「……はは、相変わらずうるせぇな」
「うるさいの、好きなくせに」
軽口を交わすと、胸の奥にじんわりとした熱が広がった。
その温度が、懐かしさと安心をいっぺんに運んでくる。
蓮は大学を卒業して、もうすぐ社会人になる。
俺も、自分の道を歩き始めたところだ。
夢とか、現実とか、昔よりずっといろんなことを考えるようになった。
それでも――この屋上に来ると、全部が一度、最初に戻る。
俺と蓮の“原点”だ。
「なあ、覚えてる?」
蓮がフェンスに肘をつきながら、少し遠くを見る。
「何を」
「雨の夜。お前が俺にキレた日」
「……忘れるわけねぇだろ」
「びしょ濡れで、キスして、泣きながら“もう逃げねぇ”って言ったお前の顔、今でも覚えてる」
「やめろ、マジで」
「かわいかったよ」
蓮がいたずらっぽく笑う。
くそ、こいつ、ほんと昔から変わんねぇ。
「でも、あの夜がなかったら、今の俺たちいないんだろうな」
「……ああ。あそこで踏ん張ってなかったら、きっと途中で壊れてた」
「壊れなくてよかったな」
「壊せなかったんだろ、俺たち」
沈黙の間に、風が通り抜ける。
遠くから、部活の声とボールの音が響いていた。
それだけで胸がきゅっとなる。
過去と今が、ちゃんとつながっている音がした。
蓮が少し歩み寄ってきて、俺の髪をくしゃっと撫でる。
昔は背丈が同じくらいだったのに、今はほんの少し、蓮の方が高い。
「お前、髪伸びたな」
「うるせぇ」
「大人になったって感じ」
「お前もな」
「俺はずっと匠の隣にいるから」
その言い方が、あまりにも自然で、まっすぐで、胸に落ちた。
あの頃みたいに、無理に確かめ合わなくてもいい。
それでも、互いの手を伸ばせば、ちゃんと届く距離にいる。
「なあ、蓮」
「ん?」
「未来の話、していいか」
「もちろん」
「俺、お前と一緒にいたい。
この先、どこに行っても、何をしてても、お前がいる毎日がいい」
蓮は驚いた顔をしたあと、すぐに目を細めた。
雨雲の切れ間から差した光が、その笑顔を金色に縁取る。
「……ずりぃよ、先に言うなんて」
「言いたかったんだよ。ずっと」
「じゃあ、俺も言わせろ」
蓮が俺の手を握る。
大きくて、少し固くなった手。
昔みたいに震えていない。
「匠。俺、お前と一緒に未来を歩きたい」
「……バカ」
「俺たち、いろんな雨をくぐってきたじゃん。
だから、これからも――どんな雨でも、一緒に濡れて、笑って、キスして……」
「うるせぇ。キスとか真顔で言うな」
「じゃあ、実践してみる?」
蓮がにやっと笑う。
フェンスの影、柔らかい光の中で、俺たちは唇を重ねた。
少し湿った風が頬を撫でる。
遠くで雷が小さく鳴ったけれど、怖くなかった。
だって、俺たちはもう――逃げない。
息が混ざり合って、心臓が跳ねた。
でも、あの頃のような不安はない。
手を離す理由も、もうどこにもなかった。
「なあ、蓮」
「ん?」
「“好きなわけ”、あるだろ」
「……あるよ。めちゃくちゃある」
「俺も」
蓮の笑い声が、少しだけ滲んだ空の下で弾けた。
雨のにおいはあの日と同じなのに、心の景色はまるで違う。
――これは始まりじゃなくて、続いていく物語の“途中”だ。
俺と蓮は、肩を並べたまま空を見上げる。
いつかこの街を出ても、この夜を思い出せば、きっと何度でも帰ってこられる。
そんな確信が、胸の奥に灯っていた。
「行こうぜ、蓮」
「うん。未来へ」
握った手は、あの日よりもずっと――強く、温かかった。
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