甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第一部一章 生還

友と眼

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 「え……永禄、……だと?」

 信豊の言葉に、信繁は唖然とし、思わず声を上ずらせた。
 が、同時に納得もできた。二年もの間、床で横になりっぱなしだったのであれば、今、指一本満足に動かすことも難しい事にも説明がつく。

「――そうか」

 信繁は、細く長く息を吐くと、顔を上に向け、天井を見た。――その天井の木目には、見覚えがある。
 間違いない。紛れもなく、ここは、甲斐府中にある己の屋敷だ。
 信繁はふっと目を閉じ、自分の記憶の糸を手繰る。
 あの日――永禄四年 (1561)九月の払暁、朝霧に霞む八幡原の事は、つい昨日のように、鮮やかに思い出せた。……とても、あの日から二年が経過しているとは信じられない。
 ……だが、目の前で自分の事を心配そうに見つめている信豊の成長ぶりが、過ぎた年月の長さを感じさせ、彼は否が応にも信じざるを得なかった。

「……まことの事、なのだな」

 信繁は、半ば自分に言い聞かせるように呟き、小さく息を吐いた。
 ――と、その時、
 彼の脳は、気を喪う直前の記憶を掘り出す。

 馬上で戦っていた自分の右半身に、三本の槍が深々と突き刺さった、あの瞬間を。
 負傷し、落馬した自分の首を狙って迫りくる、敵兵たちの殺気立った顔を。
 ――そして、自分の名を叫ぶ、彼の忠実な臣にして無二の親友の声を。

 信繁は目を開くと、傍らの信豊に目を向け、掠れた声で尋ねた。

「長老……、幸実は――」
「! ……」

 信繁の問いに、信豊は息を呑み、狼狽した顔で振り返って、母を見た。
 桔梗も、顔を青ざめさせながらも、口元をキュッと引き締め、息子に向かって小さく頷く。その仕草に、信豊もまた頷き返した。
 そして、ゆっくりと信繁に向き直ると、ごくりと唾を呑み込み、その重い口を開いた。

「父上……。幸実――山川上野介幸実は……気を喪った父上を、殺到する敵兵から守り、自分の馬に乗せて本陣の方へと逃がしたそうです。その後……、上杉方の追手を一身に引き受け――」
「……そう、か」

 信豊が紡ぐ、震える言葉の先を悟った信繁は、静かな声で遮り、そっと目を閉じた。
 瞼の裏に、在りし日の幸実の、野趣溢れる魁偉な顔が浮かんだ。――あの豪快な笑い声を、もう聞く事は能わない……。
 信繁は、もう一度小さく息を吐くと、上を向いた。――そうしないと、目から零れ落ちようとするものを、目尻に留める事ができなかったからだ。

「……最期に、大きな借りを作って逝きおったな、幸実よ――」
「……」

 目を閉じた信繁の傍らで、ふたりの嗚咽が聞こえてくる。
 信繁は思わず、瞑目したまま苦笑を浮かべた。

「……おいおい。お主たちが泣いてどうする。あやつの事だ、さぞかし天晴あっぱれな最期だったのであろう。せめて、笑って誇りとしてやってくれ」

 そう言って、閉じていた眼を開こうとしたが、そこで信繁は、目が覚めてから、一向に意のままにならない右眼の事を思い出した。

「……そうだ。――ところで」

 信繁は顔を顰めると、顔を廻らして信豊の方を見やる。
 声を掛けられた信豊は、右手の甲で涙を拭うと、父の方へ顔を寄せた。

「は。何でございましょう、父上」
「……先程から、右眼が妙なのだ。どうも引き攣れた感じがして、思う様に開かぬ……。どうなっているのか確かめたいのだが――手鏡か何か、無いか?」
「……」

 と、信豊は再び息を呑むと、先程と同じ様に振り返った。彼の視線を受けた桔梗は、小さく頷くと無言で立ち上がり、急ぎ足で廊下を去ってゆく。
 母の姿を見送った信豊は、信繁に振り返ると、やや強張った笑みを浮かべた。


 桔梗は、すぐに戻ってきた。その胸に、小さな漆塗りの手鏡を抱えて。

「……父上。失礼致しまする」

 信豊がにじり寄ると、横たわる信繁の背中に手を差し入れて、軽々と身を起こさせた。
 信繁は思わず、くっくっと笑い声を上げる。

「……父上?」

 怪訝な顔で首を傾げる信豊に、「いや……」と首を振りながら、彼は訊いた。

「長ろ……いや、六郎次郎か。お主、いくつになった?」
「は? ――あ、十五になりました」

 目を丸くして、戸惑いながら答えた信豊に、「そうか」と頷いた信繁は、ニコリと笑いかけた。

「……大きくなったな。もう、肩に担ぎ上げて、庭を駈ける事は出来そうもないのう。ハハハハ」
「……父上」

 父の軽口に、信豊も頬を緩ませたが、桔梗から手鏡を受け取ると、その表情を引き締めた。

「……父上、鏡でございます。どうぞ――ご覧下され」
「おう、済まぬな」

 信繁は身を乗り出すと、信豊が差し出した手鏡を覗き込む。その横から桔梗が灯りを掲げ、彼が見易い様に、顔の右側を照らした。

「――むう……」

 信繁の口から、声にならない呻きが漏れた。
 手鏡の中から、彼を真っ直ぐに見据えるのは、見る影もなく窶れてはいるものの、紛れもなく、長年見慣れた自分の顔だ。
 ――が、その右半面には、額から頬にかけて深い刀傷が走り、その引き攣れた傷痕は、彼の顔相を大きく歪ませている。
 ……そして、刀傷が縦断した彼の右眼は、ふたつに裂け、その瞳は白く濁っていた。

「…………」

 彼は、暫しの間絶句して、鏡の中の自分と睨み合うのだった――。
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