甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

文字の大きさ
52 / 263
第一部五章 軍神

頼みと言伝

しおりを挟む
 「……しかし、なかなか手強いな、貴様らは」

 輝虎は、空になった信繁の盃に酒を注ぎながら言った。

「一捻りで蹴散らして、あの生臭坊主が来るまでに、少なくとも海津の城までは抜こうと考えておったが、逆にしてやられたわ」
「……いえ。最初から、上杉殿に本気でかかって来られていたら、恐らくは、我等が来る前にふたつの渡しは抑えられ、海津城を直接囲まれていたと思われます。そうなってしまっていたら、もはや我等は手を出せなかったでしょうな……」
「ふふ……なら、貴様らは、余の腹に礼を言うべきだな」
「……腹?」

 怪訝な顔をする信繁の問いを苦笑ではぐらかし、輝虎は更に酒を呷る。
 すかさず、彼が干した盃に酒を注ぎながら、信繁は静かに言った。

「――ですが、三日前は肝が冷え申した。正直、三年前に拾った命を、再び捨てる覚悟を致しましたぞ……」
「ふふふ、さもあろう」

 信繁の言葉に、輝虎は微笑んだ。

「……とはいえ、あれも随分とアテを外されたわ。我が方は、貴様らを殲滅する心づもりであったのだがな。まさか、あの局面で退却ではなく前進を選び、我らの本隊のど真ん中を突っ切ってこようとは思わなかったぞ。正直、『武田の将は死にたがりか?』と、呆れたものだ」
「――かといって、退却しては、上杉殿の思うつぼ。そうなれば、我らは殲滅を免れますまい。少しでも多くの兵を生き残らせる為には、上杉方の意表を衝かねばならぬ。そう考えての用兵でござった……」
「いや、見事な判断だ。理屈では思いついても、なかなかそうキッパリと割り切れるものではないぞ。――そして、その下知に従い、あそこまで統率の取れた動きを取れる貴様らの兵達も――敵ながら、誠に天晴れであった」
「……恐悦至極に存じます」

 輝虎の賛辞に、信繁は深々と頭を下げた。

「戦神と呼び讃えられる上杉殿にそこまで賞され、此度の戦いで命を散らした兵達も、さぞや浮かばれましょう」

 彼の言葉は、決して追従や世辞ではない。心の底から出た感謝の言葉であった。
 輝虎も、その意を酌んだのか、ニコリと柔和な笑みを浮かべる。
 ――と、

「……ところで。その目は、三年前の八幡原で喪ったものと聞いておるが――」

 輝虎は、自分の右目を指しながら尋ねた。
 信繁は、彼の問いかけに小さく頷く。

「は。――三年前のあのみぎり、村上義清殿の隊と交戦していた際に負いし傷でござる」
「……村上、か」

 輝虎は、その名を聞くと、少しだけ顔を曇らせた。
 信繁は彼の様子にハッとした表情を浮かべ、それから静かな声で言葉を継ぐ。

「――此度の、広瀬の渡しでの村上殿の戦いぶりも、誠に見事なものだったと聞いておりまする。最期もご立派な――正に、武人の鑑と呼ぶに相応しき死に様だったとか」
「……左様か」

 輝虎は、その切れ長の目を伏せると、村上義清の魂に捧げるように盃を掲げ、グイッと一息に飲み干した。
 そして、信繁の方を真っ直ぐに見て、静かに口を開く。

「あの男も、お主ら武田に信濃を逐われてからは、鬱屈とする事が多かったであろう。最期に、武田の兵を相手に暴れ回れて、少しは憂さを晴らす事が出来たのであろうか……」
「……」
「――村上の亡骸は、この地に葬ってやってくれ。……異郷である越後の土となるよりは、生まれ育ち、かつて統べていた信濃の地で眠る方が、彼奴も本望であろうからな」
「――はっ」

 輝虎の頼みに、信繁は静かに、そして力強く頷いた。

「……畏まり申した。村上殿の御遺骸は、しかと懇ろに弔い申す」
「頼む。――礼を言うぞ、左馬助」

 そう言うと、輝虎は口元を綻ばせ、静かに盃を置く。
 そして、

「……さて」

 そう呟くと、おもむろに立ち上がった。

「これで、用は済んだ。そろそろ戻らねばな」
「……もう、行かれなされますか」
「貴様とならば、朝まで呑み明かしたい気分だが、生憎と、待たせておる者も居るのでな」

 輝虎は、満更でもなさそうな口調でそう言いながら、女物の小袖の裾を整える。
 そして、顔を上げ、信繁の顔をジッと見ながら言った。

「……では、さらばだ、左馬助。貴様と酒を酌み交わせて楽しかったぞ」
「――某も、楽しき刻を過ごさせていただき申した」
「……あと」

 と、輝虎は、そう呟くように言うと、おもむろに左手を伸ばし、信繁の頬につと掌を当てた。

「……!」

 右頬に感じる、輝虎の掌の柔らかい感触と、ひんやりとした冷たさに、信繁は驚き、思わず言葉を失った。
 その彼の顔を覗き込み、仄かに頬を朱く染めながら、輝虎は囁くように言った。

「……うん、右目の傷は隠した方が良いな。眼帯でも付けたらどうだ……?」
「あ――は、はあ……考えておき申す……」
「……ふふ、善し」

 しどろもどろな信繁の答えに苦笑を漏らすと、輝虎は手を引き、そしてニコリと微笑んだ。

「では、今度こそさらばだ。左馬助、達者でな」
「――は。上杉殿もご自愛下され」
「あー、あと、もうひとつだけ」
「……?」
貴様の兄信玄に言うておけ」

 そう言い告げると、輝虎は先程までとは表情を一変させた。
 その、殺気と敵意に満ちた目を信繁――その背後に立つ仇敵・信玄の幻影に向け、厳かな口調で言い放つ。

「あまり非道をするな。お主が関東の平和を乱さんとする限り、この上杉弾正小弼輝虎が、関東管領の名――そして、毘沙門天の御名において、必ず貴様に天誅を下す――然様さよう、心しておくが良いぞ、信玄。――とな」
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

とある男の包〇治療体験記

moz34
エッセイ・ノンフィクション
手術の体験記

対ソ戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
1940年、遂に欧州で第二次世界大戦がはじまります。 前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。 未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!? 小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

If太平洋戦争        日本が懸命な判断をしていたら

みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら? 国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。 真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。 破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。 現在1945年夏まで執筆

処理中です...