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第一部五章 軍神
頼みと言伝
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「……しかし、なかなか手強いな、貴様らは」
輝虎は、空になった信繁の盃に酒を注ぎながら言った。
「一捻りで蹴散らして、あの生臭坊主が来るまでに、少なくとも海津の城までは抜こうと考えておったが、逆にしてやられたわ」
「……いえ。最初から、上杉殿に本気でかかって来られていたら、恐らくは、我等が来る前にふたつの渡しは抑えられ、海津城を直接囲まれていたと思われます。そうなってしまっていたら、もはや我等は手を出せなかったでしょうな……」
「ふふ……なら、貴様らは、余の腹に礼を言うべきだな」
「……腹?」
怪訝な顔をする信繁の問いを苦笑ではぐらかし、輝虎は更に酒を呷る。
すかさず、彼が干した盃に酒を注ぎながら、信繁は静かに言った。
「――ですが、三日前は肝が冷え申した。正直、三年前に拾った命を、再び捨てる覚悟を致しましたぞ……」
「ふふふ、さもあろう」
信繁の言葉に、輝虎は微笑んだ。
「……とはいえ、あれも随分とアテを外されたわ。我が方は、貴様らを殲滅する心づもりであったのだがな。まさか、あの局面で退却ではなく前進を選び、我らの本隊のど真ん中を突っ切ってこようとは思わなかったぞ。正直、『武田の将は死にたがりか?』と、呆れたものだ」
「――かといって、退却しては、上杉殿の思うつぼ。そうなれば、我らは殲滅を免れますまい。少しでも多くの兵を生き残らせる為には、上杉方の意表を衝かねばならぬ。そう考えての用兵でござった……」
「いや、見事な判断だ。理屈では思いついても、なかなかそうキッパリと割り切れるものではないぞ。――そして、その下知に従い、あそこまで統率の取れた動きを取れる貴様らの兵達も――敵ながら、誠に天晴れであった」
「……恐悦至極に存じます」
輝虎の賛辞に、信繁は深々と頭を下げた。
「戦神と呼び讃えられる上杉殿にそこまで賞され、此度の戦いで命を散らした兵達も、さぞや浮かばれましょう」
彼の言葉は、決して追従や世辞ではない。心の底から出た感謝の言葉であった。
輝虎も、その意を酌んだのか、ニコリと柔和な笑みを浮かべる。
――と、
「……ところで。その目は、三年前の八幡原で喪ったものと聞いておるが――」
輝虎は、自分の右目を指しながら尋ねた。
信繁は、彼の問いかけに小さく頷く。
「は。――三年前のあの砌、村上義清殿の隊と交戦していた際に負いし傷でござる」
「……村上、か」
輝虎は、その名を聞くと、少しだけ顔を曇らせた。
信繁は彼の様子にハッとした表情を浮かべ、それから静かな声で言葉を継ぐ。
「――此度の、広瀬の渡しでの村上殿の戦いぶりも、誠に見事なものだったと聞いておりまする。最期もご立派な――正に、武人の鑑と呼ぶに相応しき死に様だったとか」
「……左様か」
輝虎は、その切れ長の目を伏せると、村上義清の魂に捧げるように盃を掲げ、グイッと一息に飲み干した。
そして、信繁の方を真っ直ぐに見て、静かに口を開く。
「あの男も、お主ら武田に信濃を逐われてからは、鬱屈とする事が多かったであろう。最期に、武田の兵を相手に暴れ回れて、少しは憂さを晴らす事が出来たのであろうか……」
「……」
「――村上の亡骸は、この地に葬ってやってくれ。……異郷である越後の土となるよりは、生まれ育ち、かつて統べていた信濃の地で眠る方が、彼奴も本望であろうからな」
「――はっ」
輝虎の頼みに、信繁は静かに、そして力強く頷いた。
「……畏まり申した。村上殿の御遺骸は、確と懇ろに弔い申す」
「頼む。――礼を言うぞ、左馬助」
そう言うと、輝虎は口元を綻ばせ、静かに盃を置く。
そして、
「……さて」
そう呟くと、おもむろに立ち上がった。
「これで、用は済んだ。そろそろ戻らねばな」
「……もう、行かれなされますか」
「貴様とならば、朝まで呑み明かしたい気分だが、生憎と、待たせておる者も居るのでな」
輝虎は、満更でもなさそうな口調でそう言いながら、女物の小袖の裾を整える。
そして、顔を上げ、信繁の顔をジッと見ながら言った。
「……では、さらばだ、左馬助。貴様と酒を酌み交わせて楽しかったぞ」
「――某も、楽しき刻を過ごさせていただき申した」
「……あと」
と、輝虎は、そう呟くように言うと、おもむろに左手を伸ばし、信繁の頬につと掌を当てた。
「……!」
右頬に感じる、輝虎の掌の柔らかい感触と、ひんやりとした冷たさに、信繁は驚き、思わず言葉を失った。
その彼の顔を覗き込み、仄かに頬を朱く染めながら、輝虎は囁くように言った。
「……うん、右目の傷は隠した方が良いな。眼帯でも付けたらどうだ……?」
「あ――は、はあ……考えておき申す……」
「……ふふ、善し」
しどろもどろな信繁の答えに苦笑を漏らすと、輝虎は手を引き、そしてニコリと微笑んだ。
「では、今度こそさらばだ。左馬助、達者でな」
「――は。上杉殿もご自愛下され」
「あー、あと、もうひとつだけ」
「……?」
「貴様の兄に言うておけ」
そう言い告げると、輝虎は先程までとは表情を一変させた。
その、殺気と敵意に満ちた目を信繁――その背後に立つ仇敵・信玄の幻影に向け、厳かな口調で言い放つ。
「あまり非道をするな。お主が関東の平和を乱さんとする限り、この上杉弾正小弼輝虎が、関東管領の名――そして、毘沙門天の御名において、必ず貴様に天誅を下す――然様、心しておくが良いぞ、信玄。――とな」
輝虎は、空になった信繁の盃に酒を注ぎながら言った。
「一捻りで蹴散らして、あの生臭坊主が来るまでに、少なくとも海津の城までは抜こうと考えておったが、逆にしてやられたわ」
「……いえ。最初から、上杉殿に本気でかかって来られていたら、恐らくは、我等が来る前にふたつの渡しは抑えられ、海津城を直接囲まれていたと思われます。そうなってしまっていたら、もはや我等は手を出せなかったでしょうな……」
「ふふ……なら、貴様らは、余の腹に礼を言うべきだな」
「……腹?」
怪訝な顔をする信繁の問いを苦笑ではぐらかし、輝虎は更に酒を呷る。
すかさず、彼が干した盃に酒を注ぎながら、信繁は静かに言った。
「――ですが、三日前は肝が冷え申した。正直、三年前に拾った命を、再び捨てる覚悟を致しましたぞ……」
「ふふふ、さもあろう」
信繁の言葉に、輝虎は微笑んだ。
「……とはいえ、あれも随分とアテを外されたわ。我が方は、貴様らを殲滅する心づもりであったのだがな。まさか、あの局面で退却ではなく前進を選び、我らの本隊のど真ん中を突っ切ってこようとは思わなかったぞ。正直、『武田の将は死にたがりか?』と、呆れたものだ」
「――かといって、退却しては、上杉殿の思うつぼ。そうなれば、我らは殲滅を免れますまい。少しでも多くの兵を生き残らせる為には、上杉方の意表を衝かねばならぬ。そう考えての用兵でござった……」
「いや、見事な判断だ。理屈では思いついても、なかなかそうキッパリと割り切れるものではないぞ。――そして、その下知に従い、あそこまで統率の取れた動きを取れる貴様らの兵達も――敵ながら、誠に天晴れであった」
「……恐悦至極に存じます」
輝虎の賛辞に、信繁は深々と頭を下げた。
「戦神と呼び讃えられる上杉殿にそこまで賞され、此度の戦いで命を散らした兵達も、さぞや浮かばれましょう」
彼の言葉は、決して追従や世辞ではない。心の底から出た感謝の言葉であった。
輝虎も、その意を酌んだのか、ニコリと柔和な笑みを浮かべる。
――と、
「……ところで。その目は、三年前の八幡原で喪ったものと聞いておるが――」
輝虎は、自分の右目を指しながら尋ねた。
信繁は、彼の問いかけに小さく頷く。
「は。――三年前のあの砌、村上義清殿の隊と交戦していた際に負いし傷でござる」
「……村上、か」
輝虎は、その名を聞くと、少しだけ顔を曇らせた。
信繁は彼の様子にハッとした表情を浮かべ、それから静かな声で言葉を継ぐ。
「――此度の、広瀬の渡しでの村上殿の戦いぶりも、誠に見事なものだったと聞いておりまする。最期もご立派な――正に、武人の鑑と呼ぶに相応しき死に様だったとか」
「……左様か」
輝虎は、その切れ長の目を伏せると、村上義清の魂に捧げるように盃を掲げ、グイッと一息に飲み干した。
そして、信繁の方を真っ直ぐに見て、静かに口を開く。
「あの男も、お主ら武田に信濃を逐われてからは、鬱屈とする事が多かったであろう。最期に、武田の兵を相手に暴れ回れて、少しは憂さを晴らす事が出来たのであろうか……」
「……」
「――村上の亡骸は、この地に葬ってやってくれ。……異郷である越後の土となるよりは、生まれ育ち、かつて統べていた信濃の地で眠る方が、彼奴も本望であろうからな」
「――はっ」
輝虎の頼みに、信繁は静かに、そして力強く頷いた。
「……畏まり申した。村上殿の御遺骸は、確と懇ろに弔い申す」
「頼む。――礼を言うぞ、左馬助」
そう言うと、輝虎は口元を綻ばせ、静かに盃を置く。
そして、
「……さて」
そう呟くと、おもむろに立ち上がった。
「これで、用は済んだ。そろそろ戻らねばな」
「……もう、行かれなされますか」
「貴様とならば、朝まで呑み明かしたい気分だが、生憎と、待たせておる者も居るのでな」
輝虎は、満更でもなさそうな口調でそう言いながら、女物の小袖の裾を整える。
そして、顔を上げ、信繁の顔をジッと見ながら言った。
「……では、さらばだ、左馬助。貴様と酒を酌み交わせて楽しかったぞ」
「――某も、楽しき刻を過ごさせていただき申した」
「……あと」
と、輝虎は、そう呟くように言うと、おもむろに左手を伸ばし、信繁の頬につと掌を当てた。
「……!」
右頬に感じる、輝虎の掌の柔らかい感触と、ひんやりとした冷たさに、信繁は驚き、思わず言葉を失った。
その彼の顔を覗き込み、仄かに頬を朱く染めながら、輝虎は囁くように言った。
「……うん、右目の傷は隠した方が良いな。眼帯でも付けたらどうだ……?」
「あ――は、はあ……考えておき申す……」
「……ふふ、善し」
しどろもどろな信繁の答えに苦笑を漏らすと、輝虎は手を引き、そしてニコリと微笑んだ。
「では、今度こそさらばだ。左馬助、達者でな」
「――は。上杉殿もご自愛下され」
「あー、あと、もうひとつだけ」
「……?」
「貴様の兄に言うておけ」
そう言い告げると、輝虎は先程までとは表情を一変させた。
その、殺気と敵意に満ちた目を信繁――その背後に立つ仇敵・信玄の幻影に向け、厳かな口調で言い放つ。
「あまり非道をするな。お主が関東の平和を乱さんとする限り、この上杉弾正小弼輝虎が、関東管領の名――そして、毘沙門天の御名において、必ず貴様に天誅を下す――然様、心しておくが良いぞ、信玄。――とな」
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