甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

文字の大きさ
53 / 263
第一部五章 軍神

主と臣

しおりを挟む
 善光寺を眼下に望む小高い丘は、粘つくような濃い夜闇にとっぷりと沈んでいた。
 丘の頂には、一本の古ぼけた松の木が生えており、夏の風に枝を揺らしている。
 ――と、その幹の影から、ひとりの人影が顔を出した。
 その人影は、辺りをキョロキョロと見回していたが、下の方から近付いてくる足音を耳にして、その身を緊張で硬直させる。

 ――チャキリ……

 夜闇の中、静かに太刀の鯉口を切る金属音が響く。
 と、その時、

「………余だ、伊勢松。刀を納めよ。余は、お主を斬りとうはないぞ」

 闇の向こうから、涼やかな声が聞こえた。

「……ふぅ」

 その声を聞いた人影は、安堵の息を細く吐くと、静かに刀を鞘に納める。
 そして、草の生い茂る地面に膝をつくと、恭しく頭を垂れた。

「……お帰りなさいませ、殿」

 若い――むしろ、幼いと言った方が近い声が、暗闇に向かってかけられる。

「うむ、待たせたな、伊勢松。出迎え御苦労」

 と、人影に向かって鷹揚に頷いたのは、女性の姿をした上杉弾正小弼輝虎その人であった。
 輝虎に声をかけられた人影――彼の寵童のひとりである上村伊勢松は、小さく頷いただけで、そそくさと立ち上がり、主を松の木の向こうへと促す。

「――殿、武田の兵に見つかると厄介で御座います。あちらに馬を繋いでおります故、一刻も早くこの場を離れましょう」

 だが、輝虎は、伊勢松の言葉に笑い声を上げた。

「ははは! そうは言うても、余はつい先ほどまで、その武田の大将と酒を酌み交わしておったのだ。その上、宿坊からここまで歩いて参ったが、武田の兵と出くわす事は無かったぞ。それを今更――」
「……それは、偶々たまたまかもしれませぬ。いずれにせよ、今の我らは、敵地のただ中に居るのです。一刻も早く御味方と合流しなければ、何が起こるか――。万が一、殿の身に何かありましたら、某が腹を切るだけでは済みませぬ」
「ふふ、相変わらず慎重な男だの」
「殿が無謀すぎるのです」

 からかう様な言葉に、思わず伊勢松はムスッとした表情を浮かべるが、明かりひとつ無い夜闇のせいで、輝虎の目には届かなかった。


 伊勢松に導かれ、輝虎は、丘の頂から少し下った所に生えていた木の元まで来た。
 そこには、黒鹿毛と白毛の二頭の馬が木の幹に繋がれ、足下に生えた草を食んでいる。
 早速、幹に結わえ付けた手綱を緩め始める伊勢松の背に向けて、輝虎が口を開いた。

「ふふ……なかなか愉しい一時ひとときであったぞ、伊勢松」
「……それは、善うございましたな」

 伊勢松は、きつく締めた手綱を緩めるのに悪戦苦闘しながら、背中越しに適当な相槌を返す。
 そんな伊勢松の素っ気ない返事にもお構いなしに、小袖姿の輝虎は足下に咲いた野花を摘みながら、上機嫌で言葉を継ぐ。

「何より、あの武田左馬助という男は、なかなかに良いおとこであったぞ。共に呑んで、あれ程楽しい者も、他には居らぬな。……あの生臭坊主の弟でさえ無ければ、無理にでも連れ帰ってきたいところだ」
「……殿が仰ると、ご冗談には聞こえませぬな」
「ふふ……そうであろう。何せ、本気の言葉だからな……ふふふ」
「……」

 何処まで本気か解らぬ輝虎の言葉に、伊勢松は無言のまま、暗闇の中で、その整ったかんばせを歪めた。
 そんな彼の態度を見た輝虎は、ニヤリと笑うと、更に話を続けようと、再び口を開く。

「伊勢松よ。左馬助は、なかなか良い漢っぷりであったぞ。無論、美しさではお主には負けるが、まあ、見目も悪くなかった。――右目が潰れておったのが少し惜しかったがな……」
「……お止め下さい。敵方の将を、斯様に褒めそやすのは」

 主君を窘める伊勢松の言葉は静かだったが、その声の中に、微かな怒りと嫉妬の響きが含まれているのを敏感に感じ取った輝虎は、目を細めると、彼に問うた。

「何だ、伊勢松よ。もしやお主、妬いておるのか? ――余が、左馬助を気に入っておる事に?」
「――左様に御座る!」

 突然、伊勢松は声を荒げると、くるりと輝虎の方に振り返る。
 そして、飛びつくように輝虎の前に歩を進めると、主の身体をきつく抱き締めた。

「――っ!」

 急な事に、輝虎は身構える暇も無く、伊勢松の抱擁を無防備に受ける。
 己の整った顔を、女の化粧を施した主の顔に近付けながら、伊勢松は険しい顔で言った。

「殿――貴方様は、非道い御方です」
「……」

 伊勢松に至近の距離で睨み据えながら、輝虎は、その黒く澄んだ瞳で、無言のまま視線を受け止める。
 主の切れ長の目に真っ直ぐに見つめ返された伊勢松は、仄かに頬を染めながら、更に口調を荒げた。

「敵将である男――武田信繁の事を、殊更に褒めそやし、貴方を誰よりもお慕い申し上げておる某の心を弄び、千々に乱れさせなさる……」
「ふふ……すまぬ、伊勢松」

 苦悩に満ちた伊勢松の言葉に、輝虎の顔が綻んだ。
 詫びの言葉を述べながら、彼は手を伸ばし、伊勢松の火照った頬に優しく手を添えた。

「ただの戯れだ。……最近、お主がつれない気がしてな。少しからかってみたくなったのだ」
「何と……! 殿は、某の心をお疑いになられたのですか?」
「あ……いや、そうではない」

 伊勢松の咎める様な問いかけに、輝虎は慌てて首を横に振った。

「お主の……余を慕う心には、何の疑いも抱いてはおらぬ。――ただ」

 そう言うと、輝虎は目を伏せて、伊勢松の顔から視線を外しつつ、微かに頬を染めながら言葉を継いだ。

「ただ、その……少し、寂しくてな……」
「……殿!」

 輝虎の恥じらうような言葉に、伊勢松は感極まった声を上げ、主の身体を更にきつく抱き締める。

「……っ! こ、これ、伊勢松! す、少し苦しいぞ! おい、伊勢ま――」

 狼狽え気味に伊勢松を窘める輝虎の唇を、伊勢松が己の唇で塞いだ。

「……」
「……」

 ふたりは、固く抱き合ったまま、暫くの間動かなかった。

「……ご無礼仕りました……」

 ようやく唇を離した伊勢松は、抱き締めた輝虎の身体を離そうとした。――だが、今度は輝虎が彼の身体を離さない。
 伊勢松は、戸惑うように首を傾げると、小声で輝虎に問いかける。

「――と、殿? あの――」

 今度は、伊勢松の唇が輝虎のそれで塞がれた。
 そして、先ほど伊勢松がしたように――否、それよりも激しい勢いで、貪るように彼の口を吸う。

「――っ!」
「……生意気な奴め」

 唇を離した輝虎は、伊勢松の顔を上目遣いで睨みながら囁くように言い、そして、

「仕返しだ」
「……」

 輝虎は、呆然とする伊勢松に、悪戯っ子のような顔で微笑みかけると、抱き締めていた腕を緩めた。
 そして、手早く幹に繋がれた手綱を解くと、白馬の轡に足をかけ、馬上の人となる。

「どうした? 早く乗れ」

 輝虎は馬の背の上から、呆けたままの伊勢松に向かって声をかけた。
 その声で我に返って、慌てて黒鹿毛の馬に乗った伊勢松に、輝虎は頷きかける。

「――確かに、少しのんびりし過ぎたな。急いで駿河達に追いつかなければの」
「……はっ」

 上の空といった感じの伊勢松の返事に、輝虎は思わず苦笑を浮かべながら、ふと振り返った。
 丘の下り坂の向こうで小さく、善光寺とその宿坊の明かりがチラチラと瞬いているのが見えた。
 その小さな光を見下ろしながら、輝虎は傍らの伊勢松の耳に届かぬよう、小さな声で呟いた。

「……武田左馬助信繁――さらばだ。また、何処かでまみえようぞ」
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

If太平洋戦争        日本が懸命な判断をしていたら

みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら? 国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。 真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。 破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。 現在1945年夏まで執筆

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

徳川慶勝、黒船を討つ

克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。 もしかしたら、消去するかもしれません。

東亜の炎上 1940太平洋戦線

みにみ
歴史・時代
1940年ドイツが快進撃を進める中 日本はドイツと協働し連合国軍に宣戦布告 もしも日本が連合国が最も弱い1940年に参戦していたらのIF架空戦記

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

処理中です...