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第一部七章 血縁
見舞いと密命
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「何と! お……お屋形様が、お倒れに……?」
翌日の朝。
何も知らぬまま、いつも通りに信繁の屋敷にやって来た昌幸は、思いもかけぬ話を聞かされて、愕然とした顔で言葉を失った。
「……うむ。つい先程、躑躅ヶ崎館から報せが参った」
呆然とする彼に、信繁もまた、浮かぬ顔で頷く。
――信繁は、今この場では、昨夜遅くに義信が屋敷を訪れた事を伏せておく事にしたのだ。
決して、昌幸を信用していないという訳ではない。
だが、今の彼らの周囲には、数多の家人や馬丁などが居る。ここで不用意に話をすれば、それを漏れ聞いた彼らが吹聴して、徒に情報を拡散されてしまう恐れがある。
……今回発生した問題は、武田家の今後を左右しかねない程大きく、根の深いものだ。
だから、可能な限り情報を秘し、事情を知る者の数を極力少なくしたい――という配慮である。
信繁は、青ざめた顔に無理矢理微笑みを浮かべてみせた。
「……だが、安心せよ。お屋形様は、早暁には意識を取り戻されたそうだ」
「左様でござるか……」
信繁の言葉に、昌幸は安堵の表情を浮かべる。が、すぐに心配そうな顔に戻って、信繁に尋ねる。
「して……、お屋形様は、何故お倒れに?」
「……薬師の看立てでは、日頃の疲労の蓄積が限度を超えたからではないか――という事らしい。充分な休息を取って頂ければ、回復するであろう……だから、斯様に心配顔をせずとも良いぞ」
そう言うと、信繁は苦笑しながら、昌幸の肩をポンと叩いた。
だが、昌幸の不安げな顔は変わらない。
彼は、信繁の顔をジッと見つめると、訝しげな様子で言った。
「典厩様、お言葉を返すようですが……。典厩様の方こそ、随分お窶れのご様子です……」
「む……ん?」
「――本当に、大丈夫なのですか?」
「……」
昌幸にしげしげと顔を覗き込まれながら、信繁は心中秘かに狼狽える。
――窶れもするだろう。
何せ昨夜は、床に就いた後も、義信から聞いた話についてや武田家の今後について、あれこれと考え込んでしまい、結局一睡も出来ていない。鏡を見ずとも、自分の目の下に深い隈ができているのは分かっていた。
「それは……」
「ああ。それは、儂が次郎兄に無理を言って、夜通しで似せ絵を描かせてもらっていたからじゃ」
言い淀む信繁に助け舟を出したのは、欠伸を噛み殺しながら現れた信廉だ。彼の顔も、信繁の顔と同様にひどいものだった。
昌幸は、意外な男が現れた事に対し、驚いた表情を浮かべる。
「――これは、逍遙軒様……。昨晩は、ここにお泊まりになったのですか?」
「あ――ああ。何せ、ひどい雨じゃったからな。だが、おかげで随分と筆が進んだわい。――のう、次郎兄?」
そう言いながら、信廉は兄に「話を合わせて下され」と目配せをする。それを受け、信繁も大袈裟に何度も頷いてみせた。
「う――うむ。そういえばそうだったな、ウム……」
「……左様ですか」
昌幸は相変わらず疑いの眼差しを向けたままだったが、小さく溜息を吐くと頷いた。
激しくなりそうだった追及の勢いが収まった事に一先ずホッとした顔を浮かべた信繁は、ゴホンと咳払いをすると昌幸に告げる。
「で……では、これから儂と逍遙は、お屋形様の見舞いへ行って参る。昌幸、留守は任せたぞ」
「あ……はい。畏まりました」
「うむ」
信繁は昌幸の返事に大きく頷き、それから、
「――あと、もう一つ。お主に頼みたい事がある」
微かに声を落とし、おもむろに顔を寄せると、昌幸の耳元で囁いた。
その囁きに、昌幸の表情がにわかに緊張を帯びる。
信繁は、周りで忙しく動き回る家人の位置を横目で確かめながら、言葉を継いだ。
「儂が戻るまでに、あの乱破を、屋敷に呼び寄せよ。……秘かにな」
「あの乱波……佐助の事でございますね?」
「ああ。そうだ」
聞き返す昌幸に、信繁は微かに頷いた。
それを見た昌幸は、ハッとした表情を浮かべ、それから大きく頷き返した。
「……やはり、何事かあったのですね? 昨晩に――」
「――詳しい話は、屋敷に帰ってきてからだ。……わざわざ言うまでもないとは思うが、この件は――」
「――『呉々も、他言無用に』でござりまするな。無論、承知仕ってござる」
昌幸は、信繁の言葉を先取りすると、ニヤリと如才ない笑みを見せた。
その顔を見た信繁は、思わず吹き出す。
「はは……。その不敵な面……親父殿にそっくりだな」
「……お止め下さい。よりにもよって、あの酒浸り親父とそっくりだと言われるのは、心外極まります」
信繁の軽口を聞いた昌幸は、あからさまに不機嫌になり、眉根を寄せて頬を膨らませた。……どうやら、父親に似ていると言われるのが、本当に嫌らしい。
自分の与力に、きつく睨みつけられた信繁は、辟易しながら「あ、いや……すまぬ」と謝ると、急いで馬に飛び乗った。
そして、大きく咳払いをすると、馬上から昌幸に告げる。
「で、では……行って参る! ――頼んだぞ、昌幸!」
翌日の朝。
何も知らぬまま、いつも通りに信繁の屋敷にやって来た昌幸は、思いもかけぬ話を聞かされて、愕然とした顔で言葉を失った。
「……うむ。つい先程、躑躅ヶ崎館から報せが参った」
呆然とする彼に、信繁もまた、浮かぬ顔で頷く。
――信繁は、今この場では、昨夜遅くに義信が屋敷を訪れた事を伏せておく事にしたのだ。
決して、昌幸を信用していないという訳ではない。
だが、今の彼らの周囲には、数多の家人や馬丁などが居る。ここで不用意に話をすれば、それを漏れ聞いた彼らが吹聴して、徒に情報を拡散されてしまう恐れがある。
……今回発生した問題は、武田家の今後を左右しかねない程大きく、根の深いものだ。
だから、可能な限り情報を秘し、事情を知る者の数を極力少なくしたい――という配慮である。
信繁は、青ざめた顔に無理矢理微笑みを浮かべてみせた。
「……だが、安心せよ。お屋形様は、早暁には意識を取り戻されたそうだ」
「左様でござるか……」
信繁の言葉に、昌幸は安堵の表情を浮かべる。が、すぐに心配そうな顔に戻って、信繁に尋ねる。
「して……、お屋形様は、何故お倒れに?」
「……薬師の看立てでは、日頃の疲労の蓄積が限度を超えたからではないか――という事らしい。充分な休息を取って頂ければ、回復するであろう……だから、斯様に心配顔をせずとも良いぞ」
そう言うと、信繁は苦笑しながら、昌幸の肩をポンと叩いた。
だが、昌幸の不安げな顔は変わらない。
彼は、信繁の顔をジッと見つめると、訝しげな様子で言った。
「典厩様、お言葉を返すようですが……。典厩様の方こそ、随分お窶れのご様子です……」
「む……ん?」
「――本当に、大丈夫なのですか?」
「……」
昌幸にしげしげと顔を覗き込まれながら、信繁は心中秘かに狼狽える。
――窶れもするだろう。
何せ昨夜は、床に就いた後も、義信から聞いた話についてや武田家の今後について、あれこれと考え込んでしまい、結局一睡も出来ていない。鏡を見ずとも、自分の目の下に深い隈ができているのは分かっていた。
「それは……」
「ああ。それは、儂が次郎兄に無理を言って、夜通しで似せ絵を描かせてもらっていたからじゃ」
言い淀む信繁に助け舟を出したのは、欠伸を噛み殺しながら現れた信廉だ。彼の顔も、信繁の顔と同様にひどいものだった。
昌幸は、意外な男が現れた事に対し、驚いた表情を浮かべる。
「――これは、逍遙軒様……。昨晩は、ここにお泊まりになったのですか?」
「あ――ああ。何せ、ひどい雨じゃったからな。だが、おかげで随分と筆が進んだわい。――のう、次郎兄?」
そう言いながら、信廉は兄に「話を合わせて下され」と目配せをする。それを受け、信繁も大袈裟に何度も頷いてみせた。
「う――うむ。そういえばそうだったな、ウム……」
「……左様ですか」
昌幸は相変わらず疑いの眼差しを向けたままだったが、小さく溜息を吐くと頷いた。
激しくなりそうだった追及の勢いが収まった事に一先ずホッとした顔を浮かべた信繁は、ゴホンと咳払いをすると昌幸に告げる。
「で……では、これから儂と逍遙は、お屋形様の見舞いへ行って参る。昌幸、留守は任せたぞ」
「あ……はい。畏まりました」
「うむ」
信繁は昌幸の返事に大きく頷き、それから、
「――あと、もう一つ。お主に頼みたい事がある」
微かに声を落とし、おもむろに顔を寄せると、昌幸の耳元で囁いた。
その囁きに、昌幸の表情がにわかに緊張を帯びる。
信繁は、周りで忙しく動き回る家人の位置を横目で確かめながら、言葉を継いだ。
「儂が戻るまでに、あの乱破を、屋敷に呼び寄せよ。……秘かにな」
「あの乱波……佐助の事でございますね?」
「ああ。そうだ」
聞き返す昌幸に、信繁は微かに頷いた。
それを見た昌幸は、ハッとした表情を浮かべ、それから大きく頷き返した。
「……やはり、何事かあったのですね? 昨晩に――」
「――詳しい話は、屋敷に帰ってきてからだ。……わざわざ言うまでもないとは思うが、この件は――」
「――『呉々も、他言無用に』でござりまするな。無論、承知仕ってござる」
昌幸は、信繁の言葉を先取りすると、ニヤリと如才ない笑みを見せた。
その顔を見た信繁は、思わず吹き出す。
「はは……。その不敵な面……親父殿にそっくりだな」
「……お止め下さい。よりにもよって、あの酒浸り親父とそっくりだと言われるのは、心外極まります」
信繁の軽口を聞いた昌幸は、あからさまに不機嫌になり、眉根を寄せて頬を膨らませた。……どうやら、父親に似ていると言われるのが、本当に嫌らしい。
自分の与力に、きつく睨みつけられた信繁は、辟易しながら「あ、いや……すまぬ」と謝ると、急いで馬に飛び乗った。
そして、大きく咳払いをすると、馬上から昌幸に告げる。
「で、では……行って参る! ――頼んだぞ、昌幸!」
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