72 / 263
第一部七章 血縁
悪夢と記憶
しおりを挟む
「……この、たわけ者がぁッ!」
雪の吹き荒ぶ空気が、怒気に満ちた叫びで震えた。
甲冑に身を包んだ壮年の男が、髪を逆立てながら目を吊り上げている前で、跪いた年若い青年が、ビクリと身体を震わせ、伏せていた顔を上げた。
「ち……父上――」
「貴様が、何故この場に居るのだ、太郎ッ!」
呆然と父を見上げる太郎に、男は厳しい言葉を容赦なく投げつける。
太郎は、意想外にこっぴどく怒鳴りつけられた事に激しく狼狽えつつも、目の前の首桶を指して、慌てて言葉を紡ぐ。
「何故――と、仰いますが……。私は、敵将を討ち取り、城を陥としました故、そのご報告に……」
「それがたわけた事だというのだ!」
太郎の釈明にますます激昂した男が、怒りにまかせて首桶を蹴り飛ばす。ゴロゴロと首桶が転がり、開いた蓋の中から、斬り落とされてまだ間もない僧形の男の首が飛び出した。
それにも構わず、男は狂ったように怒鳴り散らす。
「城を落としたのならば、大将たる者は城に残り、周辺の掃討と防備にあたるのが当然であろうが! それを貴様は、手柄に浮かれた挙句、城を放り出してここまでノコノコとやって来るとは……! 孫子だ何だとかいう、大層な書物をいくら読み漁ろうが、戦の機微をまるで理解できておらぬな、貴様は!」
「で――ですが!」
父の言い草に、さすがに太郎は目を吊り上げた。
「も……もちろん、落とした城の事を疎かにしていた訳ではござらぬ! 充分に索敵を行い、残敵が逃散した事を確認した上で、留守居として――」
「ええい! 父に口答えするか、貴様ぁ!」
更に怒りを募らせた父が、顔を朱に染めながら、手にした馬鞭を振り上げ、太郎の肩口へ思い切り振り下ろした。
バチィッ!
凍てつく冬の空気に、乾いた音が響き渡る。
「――グウッ……!」
太郎は、打擲されて肩に走った激しい痛みを、歯を食いしばって堪える。
と、男は、馬鞭の先で太郎の顎を無理やり持ち上げた。そのまま、ズイと顔を近づけ、太郎の顔を覗き込むと、
「……何じゃ、その目は!」
と毒づくや、太郎の身体を思い切り突き飛ばす。
太郎は堪らず、背中から雪の積もる地面に転がった。
「フン……!」
雪と泥に塗れた太郎の有様を見て、ようやく溜飲が下がったのか、男は侮蔑に満ちた目で太郎を見下すと、瓢箪の酒を一気に呷る。
そして、太郎に背を向けると、雪の舞い散るこの場の空気よりも冷たい声で、彼に向けて言い捨てた。
「……もう良い! 貴様はサッサと城へ戻って、戦後の始末をつけて参れ! ――そのまま、春になるまで、戻ってこなくて良いぞ!」
◆ ◆ ◆ ◆
「う――うう……」
信玄は、ゆっくりと目を開いた。その目に映ったのが、白雪が降りしきる真冬の夜空ではなく、見慣れた天井の木目である事に違和感を感じるが、
(……夢、か)
先程まで己が居たのが、過去の夢の中だった事に気が付くと、信玄は小さく溜息を吐く。
(初陣の事を夢に見るのは、久しぶりだ……)
信玄は、微かに眉を顰めた。初陣の時の顛末は、出来れば二度と思い出したくない、苦過ぎる記憶であったからだ。
そう。
それは、父から初めて、明白な……血の噴き出るような敵意を向けられた――。
「……」
彼は、無意識に右手を左肩に伸ばす。
夢の中で打たれた馬鞭の痛みが、まだそこに残っているような気がしたのだ。
――と、
「……お目覚めですか、兄上――」
不意に声をかけられ、信玄はそこで初めて、己の寝所に、他の者が居る事に気が付いた。
彼は首を廻らせて、周りを見回す。
幾人もの見知った顔が、心配げな表情を浮かべて彼の周りに侍っているのが見えた。
嫡子義信や、五男である盛信が並んで座っており、その後ろに控える形で、信玄の側室である琴に抱かれた子供たちの幼い顔も見える。
その他にも、馬場信春や工藤昌秀や飯富昌景らが、心配顔をずらりと並べていた。
信玄はその中から、もっとも枕元の近くに居て、自分に声をかけた男の隻眼の顔を見止めて、弱々しい声で呼ぶ。
「……む――次郎、か……」
「はい……」
名を呼ばれた信繁は、静かに頷いた。
「早暁に一度お目覚めになった後、また眠られたとの事で、少々心配をしておりましたが……安心致しました」
「そうか……。心配を、かけたようだな……」
信玄は微かに頷く。と、「失礼を致します」と、薬師が彼の手首に指を当て、脈を測りはじめた。
そして、脈を取り終えると、今度は信玄の寝間着の袷を開き、胸の音を聞く。
「……ふむ」
やがて、薬師は小さく頷いて、信玄の袷を整えた後、信繁たちに向き直った。
「……脈も落ち着いておられますし、顔色も良くなられた。……しかし、まだ胸の音に微かな濁りが聞こえますので、当分は安静になさるべきと存じまする」
「……そうか。御苦労であった」
信繁は、薬師に頷き返して、下がらせた。
すると信玄は、義信の手を借りて布団から身を起こすと、周囲の者たちの顔を見回しながら、掠れ声で言う。
「……皆も、騒がせてすまぬな。……この通り、儂はもう大丈夫じゃ。安心致せ」
「いやいや……大丈夫ではござりませぬぞ。薬師の申した通り、暫くは安静になされよ、太郎兄」
そう、信玄に釘を刺したのは、弟の信廉だった。
その言葉に、信繁と義信も大きく頷く。
「左様にござりまする。暫くの間は、政は某と太郎に任せ、ごゆるりとお過ごし下され」
「はっ。武田家の嫡男として、父上の代理を立派に務めてみせまする」
大いに意気込む義信だったが、信玄は大きく頭を振った。
「い……いや! それには及ばぬ! 儂はもう大丈夫じゃ。ほれ、この通――」
そう叫んで、勢いよく立ち上がろうとした信玄だったが、その途中で大きく体勢を崩し、布団の上に倒れ込んでしまった。
「お屋形様――!」
慌てた家臣達によって、信玄は再び布団の中に押し込められる。
「だ――だから、儂はもう大丈夫だと……」
「ご無理をなされませぬな、兄上!」
不満そうな声を上げる信玄を、信繁は厳しい声で一喝した。
「無茶をなされて、またぶり返しては、それこそ一大事です。……少なくとも、御典医の法印殿が甲斐へ戻られて、兄上のお身体を看て頂くまでは、決して床上げは罷りなりませぬぞ!」
雪の吹き荒ぶ空気が、怒気に満ちた叫びで震えた。
甲冑に身を包んだ壮年の男が、髪を逆立てながら目を吊り上げている前で、跪いた年若い青年が、ビクリと身体を震わせ、伏せていた顔を上げた。
「ち……父上――」
「貴様が、何故この場に居るのだ、太郎ッ!」
呆然と父を見上げる太郎に、男は厳しい言葉を容赦なく投げつける。
太郎は、意想外にこっぴどく怒鳴りつけられた事に激しく狼狽えつつも、目の前の首桶を指して、慌てて言葉を紡ぐ。
「何故――と、仰いますが……。私は、敵将を討ち取り、城を陥としました故、そのご報告に……」
「それがたわけた事だというのだ!」
太郎の釈明にますます激昂した男が、怒りにまかせて首桶を蹴り飛ばす。ゴロゴロと首桶が転がり、開いた蓋の中から、斬り落とされてまだ間もない僧形の男の首が飛び出した。
それにも構わず、男は狂ったように怒鳴り散らす。
「城を落としたのならば、大将たる者は城に残り、周辺の掃討と防備にあたるのが当然であろうが! それを貴様は、手柄に浮かれた挙句、城を放り出してここまでノコノコとやって来るとは……! 孫子だ何だとかいう、大層な書物をいくら読み漁ろうが、戦の機微をまるで理解できておらぬな、貴様は!」
「で――ですが!」
父の言い草に、さすがに太郎は目を吊り上げた。
「も……もちろん、落とした城の事を疎かにしていた訳ではござらぬ! 充分に索敵を行い、残敵が逃散した事を確認した上で、留守居として――」
「ええい! 父に口答えするか、貴様ぁ!」
更に怒りを募らせた父が、顔を朱に染めながら、手にした馬鞭を振り上げ、太郎の肩口へ思い切り振り下ろした。
バチィッ!
凍てつく冬の空気に、乾いた音が響き渡る。
「――グウッ……!」
太郎は、打擲されて肩に走った激しい痛みを、歯を食いしばって堪える。
と、男は、馬鞭の先で太郎の顎を無理やり持ち上げた。そのまま、ズイと顔を近づけ、太郎の顔を覗き込むと、
「……何じゃ、その目は!」
と毒づくや、太郎の身体を思い切り突き飛ばす。
太郎は堪らず、背中から雪の積もる地面に転がった。
「フン……!」
雪と泥に塗れた太郎の有様を見て、ようやく溜飲が下がったのか、男は侮蔑に満ちた目で太郎を見下すと、瓢箪の酒を一気に呷る。
そして、太郎に背を向けると、雪の舞い散るこの場の空気よりも冷たい声で、彼に向けて言い捨てた。
「……もう良い! 貴様はサッサと城へ戻って、戦後の始末をつけて参れ! ――そのまま、春になるまで、戻ってこなくて良いぞ!」
◆ ◆ ◆ ◆
「う――うう……」
信玄は、ゆっくりと目を開いた。その目に映ったのが、白雪が降りしきる真冬の夜空ではなく、見慣れた天井の木目である事に違和感を感じるが、
(……夢、か)
先程まで己が居たのが、過去の夢の中だった事に気が付くと、信玄は小さく溜息を吐く。
(初陣の事を夢に見るのは、久しぶりだ……)
信玄は、微かに眉を顰めた。初陣の時の顛末は、出来れば二度と思い出したくない、苦過ぎる記憶であったからだ。
そう。
それは、父から初めて、明白な……血の噴き出るような敵意を向けられた――。
「……」
彼は、無意識に右手を左肩に伸ばす。
夢の中で打たれた馬鞭の痛みが、まだそこに残っているような気がしたのだ。
――と、
「……お目覚めですか、兄上――」
不意に声をかけられ、信玄はそこで初めて、己の寝所に、他の者が居る事に気が付いた。
彼は首を廻らせて、周りを見回す。
幾人もの見知った顔が、心配げな表情を浮かべて彼の周りに侍っているのが見えた。
嫡子義信や、五男である盛信が並んで座っており、その後ろに控える形で、信玄の側室である琴に抱かれた子供たちの幼い顔も見える。
その他にも、馬場信春や工藤昌秀や飯富昌景らが、心配顔をずらりと並べていた。
信玄はその中から、もっとも枕元の近くに居て、自分に声をかけた男の隻眼の顔を見止めて、弱々しい声で呼ぶ。
「……む――次郎、か……」
「はい……」
名を呼ばれた信繁は、静かに頷いた。
「早暁に一度お目覚めになった後、また眠られたとの事で、少々心配をしておりましたが……安心致しました」
「そうか……。心配を、かけたようだな……」
信玄は微かに頷く。と、「失礼を致します」と、薬師が彼の手首に指を当て、脈を測りはじめた。
そして、脈を取り終えると、今度は信玄の寝間着の袷を開き、胸の音を聞く。
「……ふむ」
やがて、薬師は小さく頷いて、信玄の袷を整えた後、信繁たちに向き直った。
「……脈も落ち着いておられますし、顔色も良くなられた。……しかし、まだ胸の音に微かな濁りが聞こえますので、当分は安静になさるべきと存じまする」
「……そうか。御苦労であった」
信繁は、薬師に頷き返して、下がらせた。
すると信玄は、義信の手を借りて布団から身を起こすと、周囲の者たちの顔を見回しながら、掠れ声で言う。
「……皆も、騒がせてすまぬな。……この通り、儂はもう大丈夫じゃ。安心致せ」
「いやいや……大丈夫ではござりませぬぞ。薬師の申した通り、暫くは安静になされよ、太郎兄」
そう、信玄に釘を刺したのは、弟の信廉だった。
その言葉に、信繁と義信も大きく頷く。
「左様にござりまする。暫くの間は、政は某と太郎に任せ、ごゆるりとお過ごし下され」
「はっ。武田家の嫡男として、父上の代理を立派に務めてみせまする」
大いに意気込む義信だったが、信玄は大きく頭を振った。
「い……いや! それには及ばぬ! 儂はもう大丈夫じゃ。ほれ、この通――」
そう叫んで、勢いよく立ち上がろうとした信玄だったが、その途中で大きく体勢を崩し、布団の上に倒れ込んでしまった。
「お屋形様――!」
慌てた家臣達によって、信玄は再び布団の中に押し込められる。
「だ――だから、儂はもう大丈夫だと……」
「ご無理をなされませぬな、兄上!」
不満そうな声を上げる信玄を、信繁は厳しい声で一喝した。
「無茶をなされて、またぶり返しては、それこそ一大事です。……少なくとも、御典医の法印殿が甲斐へ戻られて、兄上のお身体を看て頂くまでは、決して床上げは罷りなりませぬぞ!」
2
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
If太平洋戦争 日本が懸命な判断をしていたら
みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら?
国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。
真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。
破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。
現在1945年夏まで執筆
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
徳川慶勝、黒船を討つ
克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。
もしかしたら、消去するかもしれません。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる