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第一部七章 血縁

方策と名案

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 「……お屋形様が、思ったよりもお元気そうで一安心……といった所でございますな」

 躑躅ヶ崎館の控えの一間で、熱い茶を啜った信廉は、呟くように言った。

「――どうかな。やはり、息をするのが難儀そうに見えた。当分は、身体を休める為に、石和いさわあたりでご療養頂くべきだな」

 そう言った信繁に、義信も頷く。

「左様でございますな。恵林寺 (現在の笛吹市)辺りにでもご逗留の上、湯に浸かりながら、ごゆるりとして頂ければ……」
「うむ。その方が良いだろう」

 義信の案に頷き返した信繁は、声を潜めて言葉を継いだ。

「……昨日の話の裏を取る為にも、我らには時間が必要だ。兄上にまつりごとから離れて頂ければ、それだけ時間を稼げる」
「こう言っては何ですが……『災い転じて福となす』とは、正にこの事ですな、ははは……」

 信廉はそう言って軽薄な笑い声を上げるが、信繁と義信の冷たい視線を浴びると、「……口が過ぎ申した」と頭を下げて、首を竦めた。
 と、義信がおずおずと、信繁に向かって口を開く。

「ところで……叔父上。これから、我らは如何様に動けば宜しいでしょうか?」
「うむ――そうだな……」

 信繁は、指の腹で顎髭を撫でながら、軽く目を閉じ、そして答えた。

「信濃及び西上野の主要な城へ伝令を出せ。お屋形様がお倒れになった事を知り、謀反や内通……良からぬ事を企む輩が、必ず現れる。その様な動きを見せる者が現れたら、速やかに然るべき対処をすべし――とな」
「は。それは、早急に手配致します」

 信繁の指示に、義信は頷く。
 だが、信廉は訝しげに首を捻った。

「いや、次郎兄。いたずらに各所へ情報を拡散するよりは、この場で箝口令を布き、先方衆に対しては此度の事を伏せた方が良いのではないですか?」
「……いや」

 信繁は、信廉の意見にかぶりを振った。

「恐らく、この府中にも、他国の間者が数多紛れ込んでおる。――もしかすると、この躑躅ヶ崎館の中にもな。……それに、板坂法印を呼び戻す為に、京へ使いも出しておる。遅かれ早かれ、お屋形様のご不調は、国の内外を問わず、多くの者が知る所となろう。もはや、情報を封じ込める事は難しい。……であれば」
「――情報の不拡散に心血を注ぐよりは、広がった情報の悪影響を抑える方に注力した方が良いという事ですな」

 義信は、信繁の説明を引き継ぐと、大きく頷いたが、今度は信廉が顔を曇らせる。

「しかし、他国へも報が届くという事は……越後上杉や美濃の斎藤、尾張の織田、それに三河の松平辺りが、我が領内へ攻め込んでくる事も考えられますが……」

 が、信繁は再び首を横に振った。

「いや……どうかな?」
「――違いまするか?」
「……確かに皆無では無いだろうが、実際に軍を動かす事は無いだろう」

 信繁はそう言いながら、書棚の中から地図を取りだし、ふたりの前に広げた。
 そして、彼は扇子の先で地図の上を指し示しながら、ふたりに説く。

「目下のところ、織田が狙っておるのは美濃だ。斎藤も、己が信濃へ攻め込めば、その間隙を衝いて織田が攻め込んでくるのは分かりきっているから、動きたくとも動けまい。……三河の松平も、遠江の今川と我らを同時に相手取れる程、戦力と懐具合に余裕が無かろう」

 信繁の言葉に、信廉と義信は大きく頷く。
 そして、信繁の扇子の先が、信濃の上を指した。

「もっとも警戒すべきは、越後上杉……だが、恐らくこちらも動くまい」
「……何故です? どうして、そう言い切れるのです?」

 信繁の、確信に満ちた言葉の響きに、義信は訝しげに問い返した。

「それは……」

 その問いに対して、信繁は答えに窮した。
 彼は無意識に、右頬の傷に手を這わせる。
 一ヶ月前、夜半の善光寺の宿坊で、その頬にそっと添えられた白い掌を思い出す。
 そして――彼に微笑みかけた、上杉輝虎の美しいかんばせが脳裏に浮かんだ。
 信繁は、高鳴る鼓動を感じながら、躊躇いがちに答える。

「……それは、儂の直感だ。――川中島で、二度に渡って輝虎殿の軍と太刀を翳して戦った、この儂が感じ取った……な」

 その言葉に、当惑した顔を見合わせる義信と信廉を前に、信繁は茶を啜り、落ち着くように小さく息を吐くと言葉を継いだ。

「上杉殿は、相手の弱みに乗じて攻め入るような卑怯な戦いは好まれぬ。正面からぶつかり合った上で、敵を打ち破る事に強い拘りを持たれた御仁だ。……此度も、お屋形様のご不調を知ったとして、それを好機とは感じないであろう」
「はは……次郎兄は、随分と輝虎を高く買っておられるのですな」
「……」

 信廉の冗談めかした言葉に、信繁はバツが悪そうな顔をして、更に茶を飲んだ。

「……確かに、輝虎は“義将”と称される男。叔父上の仰る事も分からないでもないですな。――それに、一向衆や出羽の蘆名への対応もある故、越後もおいそれと信濃へ押し出す事は難しいでしょう」

 一方、義信は信繁の意見に賛意を示す。
 そして、再び難しい顔をして、信繁に尋ねた。

「対外的な事は、それで良いでしょう。――して、昨日お話しした件は、如何様に……?」
「うむ……」

 義信の問いかけに、信繁も難しい顔になって唸り、顔を上げると、逆に訊き返した。

「――兄上は、今朝は何か言っていたか? 昨日の話の続きなどをなされたりは……?」
「それが……」

 信繁の問いに、義信は困惑した顔で答える。

「どうやら……、昨日の記憶が曖昧になられておられるようで……。私と碁を打っている最中に倒れた事は覚えていらっしゃるのですが、その直前に、今川との手切れの話をなさった事は……どうもお忘れになってしまっているようで――」
「……そうなのか?」

 義信の言った信じ難い話に、信繁は左目を見開いた。

「実は、忘れているフリをしているだけという事は――」
「……私も、そう考えて、それとなく仄めかしたりなどしたのですが……。どうやら、一芝居打っているという訳では無く、本当に覚えていらっしゃらない様です」
「……そうか」

 信繁は、それを聞くと眉根を寄せて、顎髭を撫でながら考え込む。
 そして、考えを纏めると、義信を真っ直ぐに見据えて言った。

「――なれば、お主は、はじめから手切れの話など聞いていない体を装い、お屋形様と接する方が良かろう。――万が一、嫡男であり、今川に近い立場であるお主が、お屋形様の心の内を知っている事を悟られると、手切れへの根回しを早められる恐れがある。……お屋形様が、家臣達に向けて手切れを明言してしまえば、武田家われらはもう戻れなくなってしまう。……それは何としても避けねば」
「……それは畏まりましたが……では、私は何をすれば――」

 義信は、信繁の言葉に頷きつつ、身を乗り出した。
 そんな逸る甥に対し、信繁は首を横に振った。

「お主は、何をせずとも良い。お屋形様の陣代として、政を見る事にのみ専念せよ」
「し――しかし!」

 義信は、激しく首を振った。

「そ……それは承服できかねます! 武田家が、その道を誤ろうか否かという事態の中、脇から見ているだけしか出来ないというのは――!」
「……太郎、気持ちは解る。――だがな、お屋形様が不在の政を、遅滞なく回す者も必要なのだ。決して、お主が蚊帳の外だというわけでは無い」
「しかし――!」
「まあまあ、太郎、落ち着くが良い」

 ますます気を昂ぶらせる義信に、のんびりとした声をかけたのは、もうひとりの叔父である信廉だった。
 彼は、ゆったりと茶を啜ると、甥に言う。

「ほれ……武田家を救う手立て――お主にも出来る……いや、お主にしか出来ぬ事があるぞ」
「しょ、逍遙様! それは一体……?」

 目の色を変えて詰め寄る義信に、信廉は人懐こい笑顔を向けて答えた。

「それはの……殿じゃ。出来れば、今度は男の子おのこをな」
「は……は――?」

 信廉の答えを聞いた義信は、思わず口をあんぐりと開け――、信繁は、口に含んだ茶を吹き出した。
 義信は、怒った顔で、信廉に抗議の声を上げる。

「しょ……逍遙様! この大事に、その様なお戯れを――」
「いやいや、戯れなどではないぞ」

 対する信廉は、鷹揚に首を振る。
 その、確信に満ちた叔父の態度に、義信は二の句が継げなくなってしまう。
 信廉は、ゆったりとした口調で、滔々と義信に話して聞かせる。

「良いか? 『子はかすがい』と申すであろう? 今川家の姫である嶺殿が、武田家の嫡男を身籠もり、生んだとすれば、今川攻めに傾いておるお屋形様の気も変わるのではないか?」
「そ――それは……。ですが、あの父上が、そのような情にほだされるようには――」
「成程……確かにな」

 信廉の説明に口ごもる義信に対し、信繁は小さく唸った。

「情には絆されぬかもしれぬが、嶺殿が嫡男を産めば、武田と今川、両方の血を引く男子の誕生という事になる。きっと、お屋形様ならば、その事実を存分に活用しようとなさるだろう。或いは――戦ごとで制圧するのではなく、武田と今川が共に力を合わせて勢力を伸ばして行く道を選ばれるかもしれぬ……。案外と、的を射た名案かもしれぬな」
「左様! 私が言いたかった事は、正にそういう事ですぞ!」

 信繁の言葉に、信廉は喜色を露にして手を叩いた。
 そして、義信に向けて、まるで追い払うかのように手を払った。

「さあ、そうと決まれば、太郎はさっさと行くが良い! 存分に!」
「あ……いや……逍遙様……その……励めと言われても……」

 義信は、顔を真っ赤にしてもじもじとしている。そんな甥の様子を見た信廉は、ニヤニヤ笑いを浮かべて言う。

「何じゃ、太郎。まるで未通女おぼこの様に恥ずかしがりおって。いい年をした男のクセに」
「いや……その……」

 義信は、信廉の軽口に躊躇いながらも、言葉を継いだ。

「あの……父上と同じ顔をなさった逍遙様に言われると……何と言うか――気恥ずかしく……」
「――ぷっ! ふははははは……!」

 義信の言葉を聞いた信繁は、遂に耐えきれず、はらわたが捩れる程に大笑したのだった――。
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