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第一部七章 血縁
約束と乱破
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「お帰りなさいませ、主様」
「うむ、今帰った」
夕刻、屋敷に戻った信繁は、迎えにでた桔梗たちに頷いた。
と、不安げな表情を浮かべ、桔梗が尋ねる。
「あの……お屋形様のご容態は――」
「ああ……」
信繁は、桔梗の目をジッと見ると、ニコリと微笑みかけて答えた。
「何、心配には及ばぬ。暫くご静養なされば、ご快復なさるとの事だ」
「まあ、それは宜しゅうございました」
信繁の言葉に、桔梗も安堵の息を吐く。
が、そんな彼女に、信繁はすまなさそうな顔をして言った。
「それでな……暫くの間、お屋形様が石和でご静養なさる事となったので、その間の政務を儂と太郎が執る事となった。それ故、儂は暫く躑躅ヶ崎館に詰める。……暫く留守にするが、解ってくれ」
「まあ……左様でございますか」
桔梗は、信繁の言葉に、一瞬寂しげな表情を浮かべたが、すぐに表情を引き締めると、しっかりと頷いた。
「――畏まりました。お留守の間の家内は、どうぞ私にお任せ下さいまし。主様は、武田の御家の為に、存分にお働き下さい」
「……すまぬな。頼む」
頼もしい妻の言葉に、信繁は相好を崩し、大きく頷く。
――と、
「また……ちちうえはおでかけになられるのですか? ついこのまえ、いくさばからおもどりになられたばかりですのに……!」
桔梗の腰の辺りから、今にも泣き出しそうに震えた声が上がった。
信繁は、困ったような表情を浮かべる。
「綾――」
「いやです! あやは、いやです!」
綾は、堪えていた感情を爆発させ、目から大粒の真珠のような涙をボロボロと零しながら、信繁の太腿にしがみついた。
「あやは、ちちうえがねむっておられるあいだ、ずうっとまっていたのです! ちちうえがおきたら、いっしょにたくさんあそんでいただこうと……。なのに、ちちうえはおしごとといくさばかりで、なかなかあやとあそんでくれないで……! もう、いやですっ!」
「これ……綾。そんな事を言って、お父上を困らせてはなりませぬよ」
「……ふええええ――!」
母に諭された綾は、ますます大きく嗚咽しはじめる。桔梗は、オロオロとするが、彼女の泣き声は増すばかり。
――と、そのおかっぱ頭に、大きな手が乗せられた。
「すまぬな、綾」
信繁は、困ったような笑いを浮かべながら、娘に優しく声をかける。
「――だがな。父は大切なお役目があるのだ。ここは堪えてくれ。――何、別に戦に行く訳ではない。どうにか暇を見付けて、この屋敷へも帰るようにするから、どうか我慢してくれ」
「ふえええええ~!」
「むう、駄目か……。そうだな――なれば……」
一向に泣き止まない綾を前に、当惑しながら、彼は彼女を宥める術が無いかを考える。
「……そうだ。――今度、儂が帰る時には、五郎も一緒に連れて参ろう。だから、それまでは我慢――」
「……ごろうさま?」
信繁の言葉に、耳をピクリと聳たせた綾は、涙に濡れた顔を上げた。その目が輝いているのは、涙のせいだけではない。
「……ごろうさまもいらっしゃるのですか?」
「あ……ああ、綾が良い子で留守番をしてくれればな――」
「ハイッ! かしこまりました!」
さっきまで泣きじゃくっていたのが嘘のように、顔を輝かせた綾は、大きく頷いた。
「ちちうえ、おつとめをがんばってください! あやはよいこになって、おかえりをおまちしております! ……でも、なるべくはやくかえってきてください、ごろうさまといっしょに!」
「……あ、ああ……相分かった――うむ」
信繁は、「五郎を連れてくる」と告げた後の、綾のあまりの豹変ぶりに目をパチクリさせる。
そして、気圧されたように頷き、「やくそくですよ!」と、綾がにこにこ笑いながら言うのを見ながら、何だか釈然としない気分を抱いたのだった。
◆ ◆ ◆ ◆
「お帰りなさいませ、典厩様」
自室に戻った信繁を待っていたのは、昌幸だった。
信繁は、昌幸に向かって小さく頷くと、着ていた直垂を脱ぎ、楽な小袖へと着替えた。そして、着替えを手伝っていた桔梗を下がらせる。
そして、ふーっと大きく息を吐きながら、円座に腰を下ろした。
すると、じっと待っていた昌幸が口を開く。
「昨夜の事、昔の近習仲間から聞きました。お屋形様のご病状が落ち着いていらっしゃるようで、何よりです」
「……うむ」
「……どうかなされたのですか?」
信玄の病状が落ち着いているにも関わらず、どこか浮かぬ顔の信繁を見て、昌幸も眉を顰める。
「やはり……何事かがあるのですね。――あまり歓迎できぬ事が」
「……うむ」
「――それは、もしかして……」
昌幸は、その細めた目を鋭く光らせ、言葉を継いだ。
「……遂に、お屋形様から『駿河を攻める』と伝えられた――とか、ですか?」
「……さすが、あの真田弾正の息子だな。――察しが良い」
「! では、やはり……」
「お主の言う通りだ。――もっとも、打ち明けられたのは、儂ではなく太郎――若殿だがな」
そう言って、信繁は苦笑いを浮かべる。
「――もっとも、その直後にお倒れになったので、お屋形様の頭からは、その記憶が消えているようだがな。……だが、いつ思い出されてしまうかも分からぬ。そうなれば対処も難しくなる。……あまり猶予は無いな」
「ああ、だからですか……」
信繁の言葉に、昌幸は得たりと頷いた。
「だから、拙者に佐助を呼ばせたのですね」
「うむ」
信繁は頷き、昌幸を真っ直ぐに見据えて尋ねた。
「朝に頼んだが……呼び寄せたか、佐助を?」
「……ああ。もう居る」
突然、ふたりの頭上から声が降ってきた。ハッとしたふたりが上を見上げると、天井の板が僅かにずれ、そこから黒い塊が音も無く板張りの床に降り立った。
その影に向かって、昌幸が咎める。
「おい、佐助! 何でそんなところから現れるんだ! もう少し普通に出て参れ!」
「ふん……。オレがどこから出てこようが、オレの勝手だ」
「お前、典厩様の御前だぞ! もう少し、礼を尽くして畏れ入――」
「良い。礼など別に構わぬ。話が進まぬ」
言い争いを始めかけたふたりに向かって、鷹揚に手を振り黙らせると、信繁は再び口を開く。
「さて――。では、用件に入る前に、ふたりに伝えておかねばならぬな。……此度の件に関して、儂が知っておる事を。詳らかに、な……」
「うむ、今帰った」
夕刻、屋敷に戻った信繁は、迎えにでた桔梗たちに頷いた。
と、不安げな表情を浮かべ、桔梗が尋ねる。
「あの……お屋形様のご容態は――」
「ああ……」
信繁は、桔梗の目をジッと見ると、ニコリと微笑みかけて答えた。
「何、心配には及ばぬ。暫くご静養なされば、ご快復なさるとの事だ」
「まあ、それは宜しゅうございました」
信繁の言葉に、桔梗も安堵の息を吐く。
が、そんな彼女に、信繁はすまなさそうな顔をして言った。
「それでな……暫くの間、お屋形様が石和でご静養なさる事となったので、その間の政務を儂と太郎が執る事となった。それ故、儂は暫く躑躅ヶ崎館に詰める。……暫く留守にするが、解ってくれ」
「まあ……左様でございますか」
桔梗は、信繁の言葉に、一瞬寂しげな表情を浮かべたが、すぐに表情を引き締めると、しっかりと頷いた。
「――畏まりました。お留守の間の家内は、どうぞ私にお任せ下さいまし。主様は、武田の御家の為に、存分にお働き下さい」
「……すまぬな。頼む」
頼もしい妻の言葉に、信繁は相好を崩し、大きく頷く。
――と、
「また……ちちうえはおでかけになられるのですか? ついこのまえ、いくさばからおもどりになられたばかりですのに……!」
桔梗の腰の辺りから、今にも泣き出しそうに震えた声が上がった。
信繁は、困ったような表情を浮かべる。
「綾――」
「いやです! あやは、いやです!」
綾は、堪えていた感情を爆発させ、目から大粒の真珠のような涙をボロボロと零しながら、信繁の太腿にしがみついた。
「あやは、ちちうえがねむっておられるあいだ、ずうっとまっていたのです! ちちうえがおきたら、いっしょにたくさんあそんでいただこうと……。なのに、ちちうえはおしごとといくさばかりで、なかなかあやとあそんでくれないで……! もう、いやですっ!」
「これ……綾。そんな事を言って、お父上を困らせてはなりませぬよ」
「……ふええええ――!」
母に諭された綾は、ますます大きく嗚咽しはじめる。桔梗は、オロオロとするが、彼女の泣き声は増すばかり。
――と、そのおかっぱ頭に、大きな手が乗せられた。
「すまぬな、綾」
信繁は、困ったような笑いを浮かべながら、娘に優しく声をかける。
「――だがな。父は大切なお役目があるのだ。ここは堪えてくれ。――何、別に戦に行く訳ではない。どうにか暇を見付けて、この屋敷へも帰るようにするから、どうか我慢してくれ」
「ふえええええ~!」
「むう、駄目か……。そうだな――なれば……」
一向に泣き止まない綾を前に、当惑しながら、彼は彼女を宥める術が無いかを考える。
「……そうだ。――今度、儂が帰る時には、五郎も一緒に連れて参ろう。だから、それまでは我慢――」
「……ごろうさま?」
信繁の言葉に、耳をピクリと聳たせた綾は、涙に濡れた顔を上げた。その目が輝いているのは、涙のせいだけではない。
「……ごろうさまもいらっしゃるのですか?」
「あ……ああ、綾が良い子で留守番をしてくれればな――」
「ハイッ! かしこまりました!」
さっきまで泣きじゃくっていたのが嘘のように、顔を輝かせた綾は、大きく頷いた。
「ちちうえ、おつとめをがんばってください! あやはよいこになって、おかえりをおまちしております! ……でも、なるべくはやくかえってきてください、ごろうさまといっしょに!」
「……あ、ああ……相分かった――うむ」
信繁は、「五郎を連れてくる」と告げた後の、綾のあまりの豹変ぶりに目をパチクリさせる。
そして、気圧されたように頷き、「やくそくですよ!」と、綾がにこにこ笑いながら言うのを見ながら、何だか釈然としない気分を抱いたのだった。
◆ ◆ ◆ ◆
「お帰りなさいませ、典厩様」
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信繁は、昌幸に向かって小さく頷くと、着ていた直垂を脱ぎ、楽な小袖へと着替えた。そして、着替えを手伝っていた桔梗を下がらせる。
そして、ふーっと大きく息を吐きながら、円座に腰を下ろした。
すると、じっと待っていた昌幸が口を開く。
「昨夜の事、昔の近習仲間から聞きました。お屋形様のご病状が落ち着いていらっしゃるようで、何よりです」
「……うむ」
「……どうかなされたのですか?」
信玄の病状が落ち着いているにも関わらず、どこか浮かぬ顔の信繁を見て、昌幸も眉を顰める。
「やはり……何事かがあるのですね。――あまり歓迎できぬ事が」
「……うむ」
「――それは、もしかして……」
昌幸は、その細めた目を鋭く光らせ、言葉を継いだ。
「……遂に、お屋形様から『駿河を攻める』と伝えられた――とか、ですか?」
「……さすが、あの真田弾正の息子だな。――察しが良い」
「! では、やはり……」
「お主の言う通りだ。――もっとも、打ち明けられたのは、儂ではなく太郎――若殿だがな」
そう言って、信繁は苦笑いを浮かべる。
「――もっとも、その直後にお倒れになったので、お屋形様の頭からは、その記憶が消えているようだがな。……だが、いつ思い出されてしまうかも分からぬ。そうなれば対処も難しくなる。……あまり猶予は無いな」
「ああ、だからですか……」
信繁の言葉に、昌幸は得たりと頷いた。
「だから、拙者に佐助を呼ばせたのですね」
「うむ」
信繁は頷き、昌幸を真っ直ぐに見据えて尋ねた。
「朝に頼んだが……呼び寄せたか、佐助を?」
「……ああ。もう居る」
突然、ふたりの頭上から声が降ってきた。ハッとしたふたりが上を見上げると、天井の板が僅かにずれ、そこから黒い塊が音も無く板張りの床に降り立った。
その影に向かって、昌幸が咎める。
「おい、佐助! 何でそんなところから現れるんだ! もう少し普通に出て参れ!」
「ふん……。オレがどこから出てこようが、オレの勝手だ」
「お前、典厩様の御前だぞ! もう少し、礼を尽くして畏れ入――」
「良い。礼など別に構わぬ。話が進まぬ」
言い争いを始めかけたふたりに向かって、鷹揚に手を振り黙らせると、信繁は再び口を開く。
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