71 / 263
第一部七章 血縁
見舞いと密命
しおりを挟む
「何と! お……お屋形様が、お倒れに……?」
翌日の朝。
何も知らぬまま、いつも通りに信繁の屋敷にやって来た昌幸は、思いもかけぬ話を聞かされて、愕然とした顔で言葉を失った。
「……うむ。つい先程、躑躅ヶ崎館から報せが参った」
呆然とする彼に、信繁もまた、浮かぬ顔で頷く。
――信繁は、今この場では、昨夜遅くに義信が屋敷を訪れた事を伏せておく事にしたのだ。
決して、昌幸を信用していないという訳ではない。
だが、今の彼らの周囲には、数多の家人や馬丁などが居る。ここで不用意に話をすれば、それを漏れ聞いた彼らが吹聴して、徒に情報を拡散されてしまう恐れがある。
……今回発生した問題は、武田家の今後を左右しかねない程大きく、根の深いものだ。
だから、可能な限り情報を秘し、事情を知る者の数を極力少なくしたい――という配慮である。
信繁は、青ざめた顔に無理矢理微笑みを浮かべてみせた。
「……だが、安心せよ。お屋形様は、早暁には意識を取り戻されたそうだ」
「左様でござるか……」
信繁の言葉に、昌幸は安堵の表情を浮かべる。が、すぐに心配そうな顔に戻って、信繁に尋ねる。
「して……、お屋形様は、何故お倒れに?」
「……薬師の看立てでは、日頃の疲労の蓄積が限度を超えたからではないか――という事らしい。充分な休息を取って頂ければ、回復するであろう……だから、斯様に心配顔をせずとも良いぞ」
そう言うと、信繁は苦笑しながら、昌幸の肩をポンと叩いた。
だが、昌幸の不安げな顔は変わらない。
彼は、信繁の顔をジッと見つめると、訝しげな様子で言った。
「典厩様、お言葉を返すようですが……。典厩様の方こそ、随分お窶れのご様子です……」
「む……ん?」
「――本当に、大丈夫なのですか?」
「……」
昌幸にしげしげと顔を覗き込まれながら、信繁は心中秘かに狼狽える。
――窶れもするだろう。
何せ昨夜は、床に就いた後も、義信から聞いた話についてや武田家の今後について、あれこれと考え込んでしまい、結局一睡も出来ていない。鏡を見ずとも、自分の目の下に深い隈ができているのは分かっていた。
「それは……」
「ああ。それは、儂が次郎兄に無理を言って、夜通しで似せ絵を描かせてもらっていたからじゃ」
言い淀む信繁に助け舟を出したのは、欠伸を噛み殺しながら現れた信廉だ。彼の顔も、信繁の顔と同様にひどいものだった。
昌幸は、意外な男が現れた事に対し、驚いた表情を浮かべる。
「――これは、逍遙軒様……。昨晩は、ここにお泊まりになったのですか?」
「あ――ああ。何せ、ひどい雨じゃったからな。だが、おかげで随分と筆が進んだわい。――のう、次郎兄?」
そう言いながら、信廉は兄に「話を合わせて下され」と目配せをする。それを受け、信繁も大袈裟に何度も頷いてみせた。
「う――うむ。そういえばそうだったな、ウム……」
「……左様ですか」
昌幸は相変わらず疑いの眼差しを向けたままだったが、小さく溜息を吐くと頷いた。
激しくなりそうだった追及の勢いが収まった事に一先ずホッとした顔を浮かべた信繁は、ゴホンと咳払いをすると昌幸に告げる。
「で……では、これから儂と逍遙は、お屋形様の見舞いへ行って参る。昌幸、留守は任せたぞ」
「あ……はい。畏まりました」
「うむ」
信繁は昌幸の返事に大きく頷き、それから、
「――あと、もう一つ。お主に頼みたい事がある」
微かに声を落とし、おもむろに顔を寄せると、昌幸の耳元で囁いた。
その囁きに、昌幸の表情がにわかに緊張を帯びる。
信繁は、周りで忙しく動き回る家人の位置を横目で確かめながら、言葉を継いだ。
「儂が戻るまでに、あの乱破を、屋敷に呼び寄せよ。……秘かにな」
「あの乱波……佐助の事でございますね?」
「ああ。そうだ」
聞き返す昌幸に、信繁は微かに頷いた。
それを見た昌幸は、ハッとした表情を浮かべ、それから大きく頷き返した。
「……やはり、何事かあったのですね? 昨晩に――」
「――詳しい話は、屋敷に帰ってきてからだ。……わざわざ言うまでもないとは思うが、この件は――」
「――『呉々も、他言無用に』でござりまするな。無論、承知仕ってござる」
昌幸は、信繁の言葉を先取りすると、ニヤリと如才ない笑みを見せた。
その顔を見た信繁は、思わず吹き出す。
「はは……。その不敵な面……親父殿にそっくりだな」
「……お止め下さい。よりにもよって、あの酒浸り親父とそっくりだと言われるのは、心外極まります」
信繁の軽口を聞いた昌幸は、あからさまに不機嫌になり、眉根を寄せて頬を膨らませた。……どうやら、父親に似ていると言われるのが、本当に嫌らしい。
自分の与力に、きつく睨みつけられた信繁は、辟易しながら「あ、いや……すまぬ」と謝ると、急いで馬に飛び乗った。
そして、大きく咳払いをすると、馬上から昌幸に告げる。
「で、では……行って参る! ――頼んだぞ、昌幸!」
翌日の朝。
何も知らぬまま、いつも通りに信繁の屋敷にやって来た昌幸は、思いもかけぬ話を聞かされて、愕然とした顔で言葉を失った。
「……うむ。つい先程、躑躅ヶ崎館から報せが参った」
呆然とする彼に、信繁もまた、浮かぬ顔で頷く。
――信繁は、今この場では、昨夜遅くに義信が屋敷を訪れた事を伏せておく事にしたのだ。
決して、昌幸を信用していないという訳ではない。
だが、今の彼らの周囲には、数多の家人や馬丁などが居る。ここで不用意に話をすれば、それを漏れ聞いた彼らが吹聴して、徒に情報を拡散されてしまう恐れがある。
……今回発生した問題は、武田家の今後を左右しかねない程大きく、根の深いものだ。
だから、可能な限り情報を秘し、事情を知る者の数を極力少なくしたい――という配慮である。
信繁は、青ざめた顔に無理矢理微笑みを浮かべてみせた。
「……だが、安心せよ。お屋形様は、早暁には意識を取り戻されたそうだ」
「左様でござるか……」
信繁の言葉に、昌幸は安堵の表情を浮かべる。が、すぐに心配そうな顔に戻って、信繁に尋ねる。
「して……、お屋形様は、何故お倒れに?」
「……薬師の看立てでは、日頃の疲労の蓄積が限度を超えたからではないか――という事らしい。充分な休息を取って頂ければ、回復するであろう……だから、斯様に心配顔をせずとも良いぞ」
そう言うと、信繁は苦笑しながら、昌幸の肩をポンと叩いた。
だが、昌幸の不安げな顔は変わらない。
彼は、信繁の顔をジッと見つめると、訝しげな様子で言った。
「典厩様、お言葉を返すようですが……。典厩様の方こそ、随分お窶れのご様子です……」
「む……ん?」
「――本当に、大丈夫なのですか?」
「……」
昌幸にしげしげと顔を覗き込まれながら、信繁は心中秘かに狼狽える。
――窶れもするだろう。
何せ昨夜は、床に就いた後も、義信から聞いた話についてや武田家の今後について、あれこれと考え込んでしまい、結局一睡も出来ていない。鏡を見ずとも、自分の目の下に深い隈ができているのは分かっていた。
「それは……」
「ああ。それは、儂が次郎兄に無理を言って、夜通しで似せ絵を描かせてもらっていたからじゃ」
言い淀む信繁に助け舟を出したのは、欠伸を噛み殺しながら現れた信廉だ。彼の顔も、信繁の顔と同様にひどいものだった。
昌幸は、意外な男が現れた事に対し、驚いた表情を浮かべる。
「――これは、逍遙軒様……。昨晩は、ここにお泊まりになったのですか?」
「あ――ああ。何せ、ひどい雨じゃったからな。だが、おかげで随分と筆が進んだわい。――のう、次郎兄?」
そう言いながら、信廉は兄に「話を合わせて下され」と目配せをする。それを受け、信繁も大袈裟に何度も頷いてみせた。
「う――うむ。そういえばそうだったな、ウム……」
「……左様ですか」
昌幸は相変わらず疑いの眼差しを向けたままだったが、小さく溜息を吐くと頷いた。
激しくなりそうだった追及の勢いが収まった事に一先ずホッとした顔を浮かべた信繁は、ゴホンと咳払いをすると昌幸に告げる。
「で……では、これから儂と逍遙は、お屋形様の見舞いへ行って参る。昌幸、留守は任せたぞ」
「あ……はい。畏まりました」
「うむ」
信繁は昌幸の返事に大きく頷き、それから、
「――あと、もう一つ。お主に頼みたい事がある」
微かに声を落とし、おもむろに顔を寄せると、昌幸の耳元で囁いた。
その囁きに、昌幸の表情がにわかに緊張を帯びる。
信繁は、周りで忙しく動き回る家人の位置を横目で確かめながら、言葉を継いだ。
「儂が戻るまでに、あの乱破を、屋敷に呼び寄せよ。……秘かにな」
「あの乱波……佐助の事でございますね?」
「ああ。そうだ」
聞き返す昌幸に、信繁は微かに頷いた。
それを見た昌幸は、ハッとした表情を浮かべ、それから大きく頷き返した。
「……やはり、何事かあったのですね? 昨晩に――」
「――詳しい話は、屋敷に帰ってきてからだ。……わざわざ言うまでもないとは思うが、この件は――」
「――『呉々も、他言無用に』でござりまするな。無論、承知仕ってござる」
昌幸は、信繁の言葉を先取りすると、ニヤリと如才ない笑みを見せた。
その顔を見た信繁は、思わず吹き出す。
「はは……。その不敵な面……親父殿にそっくりだな」
「……お止め下さい。よりにもよって、あの酒浸り親父とそっくりだと言われるのは、心外極まります」
信繁の軽口を聞いた昌幸は、あからさまに不機嫌になり、眉根を寄せて頬を膨らませた。……どうやら、父親に似ていると言われるのが、本当に嫌らしい。
自分の与力に、きつく睨みつけられた信繁は、辟易しながら「あ、いや……すまぬ」と謝ると、急いで馬に飛び乗った。
そして、大きく咳払いをすると、馬上から昌幸に告げる。
「で、では……行って参る! ――頼んだぞ、昌幸!」
2
あなたにおすすめの小説
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
電子の帝国
Flight_kj
歴史・時代
少しだけ電子技術が早く技術が進歩した帝国はどのように戦うか
明治期の工業化が少し早く進展したおかげで、日本の電子技術や精密機械工業は順調に進歩した。世界規模の戦争に巻き込まれた日本は、そんな技術をもとにしてどんな戦いを繰り広げるのか? わずかに早くレーダーやコンピューターなどの電子機器が登場することにより、戦場の様相は大きく変わってゆく。
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
日本が危機に?第二次日露戦争
杏
歴史・時代
2023年2月24日ロシアのウクライナ侵攻の開始から一年たった。その日ロシアの極東地域で大きな動きがあった。それはロシア海軍太平洋艦隊が黒海艦隊の援助のために主力を引き連れてウラジオストクを離れた。それと同時に日本とアメリカを牽制する為にロシアは3つの種類の新しい極超音速ミサイルの発射実験を行った。そこで事故が起きた。それはこの事故によって発生した戦争の物語である。ただし3発も間違えた方向に飛ぶのは故意だと思われた。実際には事故だったがそもそも飛ばす場所をセッティングした将校は日本に向けて飛ばすようにセッティングをわざとしていた。これは太平洋艦隊の司令官の命令だ。司令官は黒海艦隊を支援するのが不服でこれを企んだのだ。ただ実際に戦争をするとは考えていなかったし過激な思想を持っていた為普通に海の上を進んでいた。
なろう、カクヨムでも連載しています。
大日本帝国、アラスカを購入して無双する
雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。
大日本帝国VS全世界、ここに開幕!
※架空の日本史・世界史です。
※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。
※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる