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第二部八章 使者
抜擢と不満
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「軍師……」
信玄からの下知に、半兵衛は僅かに眉を上げる。
「軍師とは……いやはや」
一方、傍らでふたりのやり取りを聞いていた信廉は、兄の言葉に驚きの表情を隠せない様子で目を丸くする。
「確かに、美濃の竹中半兵衛といえば、ここ甲斐の地まで名が知れた知恵者ですが……だからといって、いきなり当家の軍師に据えようとは……」
「なんじゃ、逍遥。お前は反対か?」
「いえいえ! 滅相も無い!」
信玄の問いかけに、信廉は慌てて首を左右に振った。
「別に、反対という訳では御座りませぬ。……ですが、さすがに他家からの降将をいきなり軍師に抜擢しようというお屋形様の果断なお考えに、些か度肝を抜かれただけで……」
「ははは、今更何を言うておるのだ、逍遥」
信廉の言葉に愉快そうな笑い声を上げたのは、信繁である。
「お屋形様が、身分や境遇に構わず有能な者を抜擢する事など、珍しくもあるまい。豪農の生まれの春日源助 (香坂虎綱)を近習として召し抱えたりな」
そう言ったところで一瞬言葉を切り、不意に遠い目をした信繁は、「それに……」と続けた。
「他ならぬ山本勘助が良い例だ。あの者も、浪人者として甲斐に流れてきたところをお屋形様によって見い出され、軍師として召し抱えられたのだぞ」
「まあ、確かにそうでしたな……」
信繁の言葉に、信廉は曖昧に頷く。
と、それまで黙ってやり取りを聞いていた義信が、ふたりの叔父の会話に口を挟んだ。
「……美濃新加納での織田軍との戦の顛末や稲葉山城乗っ取りの件など、私の耳にも半兵衛の話は度々入って来ました。いずれも、寡兵の不利を鮮やかなる智謀で補う見事な采配ぶりだったと」
「それは、某も先日の戦で身を以て思い知らされ申した」
信繁は、義信の言葉に苦笑いを浮かべながら頷く。
「馬防ぎの柵と横一列に並ばせた鉄砲隊の一斉射撃には手こずらされたのに、それすらも陽動で、柵を破った我が軍が攻めかからんと意識が前方に集まったところを狙いすまして、某だけを狙撃させるという二重の策……某の運がもう少し弱ければ、今頃は土の下だったかもしれぬ」
そう言って首の後ろを擦った信繁は、半兵衛の顔を真っ直ぐ見つめながら言葉を継いだ。
「身を以て思い知っておるからこそ、半兵衛がその優れた智謀を軍師として存分に振るえる事が、武田家にとって大きな益になると確信しておる。故に、某はお屋形様のお考えに賛同する」
「拙者も、同じく」
信繁の言葉に、昌幸も大きく頷く。
そんなふたりの意見に、義信も頷き返した。
「私も、お屋形様のご意向に反対するつもりはありませぬ。ただ……」
そう言うと、彼は眉を顰める。
「先ほど逍遥様が仰ったように、ついこの間まで斎藤家の家臣として我らと戦っていた半兵衛を当家の軍師として迎えるとなると、他の家臣たちが反発を抱くのではないかと思いまして……」
「ふ……そのような事を案じておるのか、お前は」
信玄は、義信が述べた懸念に苦笑しながら、小さく頷いた。
「確かに、お前が心配するのも解らないではないし、家臣の間から不満が全く起こらないという事はあるまい。……だが、儂はそこまで心配しておらぬ」
彼は、手にした扇子で自分の膝を軽く打つ。
「先ほど典厩も申しておったであろう。儂が、家柄や血筋に囚われず、能力に優れた者を進んで抜擢するのは昔からだ。当家に仕える臣ならば、今更儂のやり方に文句を言う奴などおるまい」
「確かに……」
信玄の言葉に、昌幸がクスリと笑って頷いた。
真田家の人質として躑躅ヶ崎館に送られた自分が、突如として信玄の奥近習衆という重職に引き抜かれた時の周囲の反応を思い出したのだ。
「そういえば、拙者の時も拍子抜けするくらい何もありませんでしたね。信濃の小豪族の三男坊に過ぎぬ拙者がお屋形様の側近として取り立てられた事に対して、少しくらいは陰口が耳に入ってきても良さそうなものでしたが……」
「そういう事だ」
昌幸の言葉に微笑んだ信玄は、「それに……」と続ける。
「周りの者の不満や反発などは、この先、半兵衛が軍師としての務めを果たす事で静めれば良いだけの話。……少なくとも、勘助や源助はそうやって周りを黙らせたぞ」
そう言うと、信玄は半兵衛に向けてニヤリと笑みかけた。
「当然儂は、半兵衛が勘助や源助と同じように、その働きで儂の見立てが間違っていない事を証してくれるであろうと期待しておるのだが……お主には荷が勝ちすぎるかのう?」
「……」
半兵衛は、試すように問いかける信玄の顔を無言で見返し――フッと微笑んで、小さく頭を振ってみせた。
「先ほども申し上げました通り、私は信玄公の命に従い、どことなりとでも赴く所存でした。それは、たとえ武田家の軍師という御役目とて同じ事」
「では……!」
「はい」
目を輝かせる信玄に対し、半兵衛は恭しく両手をつく。
「我が智謀、今後は武田家飛躍と発展の為に尽くさせていただきます。お屋形様からかけられた御期待に応えられるよう……」
「うむ!」
半兵衛の返事を聞いた信玄は、満面に笑みを湛えて大きく頷いた。
「では……これからは、我が武田家の軍師として忠勤に励んでくれ。宜しく頼むぞ、半兵衛よ!」
「はい」
信玄の言葉に、半兵衛は深々と頭を下げながら応える。
「こちらこそ、宜しくお願い申し上げます。――お屋形様」
信玄からの下知に、半兵衛は僅かに眉を上げる。
「軍師とは……いやはや」
一方、傍らでふたりのやり取りを聞いていた信廉は、兄の言葉に驚きの表情を隠せない様子で目を丸くする。
「確かに、美濃の竹中半兵衛といえば、ここ甲斐の地まで名が知れた知恵者ですが……だからといって、いきなり当家の軍師に据えようとは……」
「なんじゃ、逍遥。お前は反対か?」
「いえいえ! 滅相も無い!」
信玄の問いかけに、信廉は慌てて首を左右に振った。
「別に、反対という訳では御座りませぬ。……ですが、さすがに他家からの降将をいきなり軍師に抜擢しようというお屋形様の果断なお考えに、些か度肝を抜かれただけで……」
「ははは、今更何を言うておるのだ、逍遥」
信廉の言葉に愉快そうな笑い声を上げたのは、信繁である。
「お屋形様が、身分や境遇に構わず有能な者を抜擢する事など、珍しくもあるまい。豪農の生まれの春日源助 (香坂虎綱)を近習として召し抱えたりな」
そう言ったところで一瞬言葉を切り、不意に遠い目をした信繁は、「それに……」と続けた。
「他ならぬ山本勘助が良い例だ。あの者も、浪人者として甲斐に流れてきたところをお屋形様によって見い出され、軍師として召し抱えられたのだぞ」
「まあ、確かにそうでしたな……」
信繁の言葉に、信廉は曖昧に頷く。
と、それまで黙ってやり取りを聞いていた義信が、ふたりの叔父の会話に口を挟んだ。
「……美濃新加納での織田軍との戦の顛末や稲葉山城乗っ取りの件など、私の耳にも半兵衛の話は度々入って来ました。いずれも、寡兵の不利を鮮やかなる智謀で補う見事な采配ぶりだったと」
「それは、某も先日の戦で身を以て思い知らされ申した」
信繁は、義信の言葉に苦笑いを浮かべながら頷く。
「馬防ぎの柵と横一列に並ばせた鉄砲隊の一斉射撃には手こずらされたのに、それすらも陽動で、柵を破った我が軍が攻めかからんと意識が前方に集まったところを狙いすまして、某だけを狙撃させるという二重の策……某の運がもう少し弱ければ、今頃は土の下だったかもしれぬ」
そう言って首の後ろを擦った信繁は、半兵衛の顔を真っ直ぐ見つめながら言葉を継いだ。
「身を以て思い知っておるからこそ、半兵衛がその優れた智謀を軍師として存分に振るえる事が、武田家にとって大きな益になると確信しておる。故に、某はお屋形様のお考えに賛同する」
「拙者も、同じく」
信繁の言葉に、昌幸も大きく頷く。
そんなふたりの意見に、義信も頷き返した。
「私も、お屋形様のご意向に反対するつもりはありませぬ。ただ……」
そう言うと、彼は眉を顰める。
「先ほど逍遥様が仰ったように、ついこの間まで斎藤家の家臣として我らと戦っていた半兵衛を当家の軍師として迎えるとなると、他の家臣たちが反発を抱くのではないかと思いまして……」
「ふ……そのような事を案じておるのか、お前は」
信玄は、義信が述べた懸念に苦笑しながら、小さく頷いた。
「確かに、お前が心配するのも解らないではないし、家臣の間から不満が全く起こらないという事はあるまい。……だが、儂はそこまで心配しておらぬ」
彼は、手にした扇子で自分の膝を軽く打つ。
「先ほど典厩も申しておったであろう。儂が、家柄や血筋に囚われず、能力に優れた者を進んで抜擢するのは昔からだ。当家に仕える臣ならば、今更儂のやり方に文句を言う奴などおるまい」
「確かに……」
信玄の言葉に、昌幸がクスリと笑って頷いた。
真田家の人質として躑躅ヶ崎館に送られた自分が、突如として信玄の奥近習衆という重職に引き抜かれた時の周囲の反応を思い出したのだ。
「そういえば、拙者の時も拍子抜けするくらい何もありませんでしたね。信濃の小豪族の三男坊に過ぎぬ拙者がお屋形様の側近として取り立てられた事に対して、少しくらいは陰口が耳に入ってきても良さそうなものでしたが……」
「そういう事だ」
昌幸の言葉に微笑んだ信玄は、「それに……」と続ける。
「周りの者の不満や反発などは、この先、半兵衛が軍師としての務めを果たす事で静めれば良いだけの話。……少なくとも、勘助や源助はそうやって周りを黙らせたぞ」
そう言うと、信玄は半兵衛に向けてニヤリと笑みかけた。
「当然儂は、半兵衛が勘助や源助と同じように、その働きで儂の見立てが間違っていない事を証してくれるであろうと期待しておるのだが……お主には荷が勝ちすぎるかのう?」
「……」
半兵衛は、試すように問いかける信玄の顔を無言で見返し――フッと微笑んで、小さく頭を振ってみせた。
「先ほども申し上げました通り、私は信玄公の命に従い、どことなりとでも赴く所存でした。それは、たとえ武田家の軍師という御役目とて同じ事」
「では……!」
「はい」
目を輝かせる信玄に対し、半兵衛は恭しく両手をつく。
「我が智謀、今後は武田家飛躍と発展の為に尽くさせていただきます。お屋形様からかけられた御期待に応えられるよう……」
「うむ!」
半兵衛の返事を聞いた信玄は、満面に笑みを湛えて大きく頷いた。
「では……これからは、我が武田家の軍師として忠勤に励んでくれ。宜しく頼むぞ、半兵衛よ!」
「はい」
信玄の言葉に、半兵衛は深々と頭を下げながら応える。
「こちらこそ、宜しくお願い申し上げます。――お屋形様」
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