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第二部八章 使者
返答と意見
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「越後と――」
信玄の言葉を聞いた信繁は、顎に指を当てながら呟いた。
そんな彼に向け、渋い顔で「ああ」と短く頷いた信玄に、昌幸が尋ねる。
「その覚慶様からのお求めに対して、お屋形様は何と?」
「……まだ、ハッキリとは答えておらぬ」
口元に拳を当てて軽い咳をしながら、信玄は首を横に振った。
「御内書を受け取った時は、まだ三河の陣中だったからな。『越後との和睦に関しては、甲斐に帰陣した後にお答えする』と返書に認めたのだ。それで――」
そう言うと、彼は光秀を指し示すように目を遣る。
「儂が甲斐に戻ったのを耳にした覚慶様が、早速この者を寄越してきた訳だ。……儂が返書で引き延ばしている答えを直に聞く為にな」
「畏れ入ります」
光秀は、溜息混じりの信玄の言葉に表情ひとつ変えず、慇懃に頭を下げた。
そんな彼の反応に、信玄は少し眉を顰めたが、気を取り直すように咳払いをして話を続ける。
「――此度、美濃に居たお主を急ぎ呼び戻したのは、他でもない。覚慶様からの求めにどう応じるべきか、直に意見を聞きたいと思うてな」
「成程、それで……」
信玄の言葉に、信繁は合点がいった様子で頷いた。
「突然の帰陣の御命を些か訝しんでおりましたが、斯様な事情があったなら止むを得ぬ事ですな」
「さすがに、もう雪が積もり始めているであろう美濃信濃の国境を越えてまで、典厩様に急ぎ御帰陣頂くのは心苦しく思ったのですが……」
義信が、申し訳なさそうに言う。
「此度の御内書の件は、武田家のこれからを大きく左右するものになります。故に、典厩様の御意見を伺わぬ訳にはいかないと思いまして……」
「何せ、典厩様は親族衆筆頭にして、武田家の副将にあらせられますからな。斯様な大事を典厩様抜きで決める訳には参りませぬ」
甥の言葉を補うように、信廉も続けた。
そんなふたりの言葉に、信玄も鷹揚に頷いた。
「ふたりの申す通りだ。典厩、お主の知恵を借りたい。急に呼び戻されて不満かもしれぬが、堪忍してくれ」
「いや、不満などとは微塵も……」
信玄からかけられた侘びの言葉に、信繁は慌てて首を横に振る。
同時に、少し驚いていた。
以前の信玄であれば、わざわざ自分を呼び戻す事などせず、即座に拒絶の意志を示すか、信繁に意見を聞くにしても、拒絶を大前提に置いたものを求めたであろう。
それだけ、越後の上杉輝虎との因縁と確執には深いものがある。
(……それなのに、今のお屋形様は迷っておられる)
そもそも、以前の信玄の頭の中には、『越後と和睦する』という選択肢など存在していなかった。
それなのに――今回の御内書を受けて、彼は美濃に居た信繁をわざわざ呼び戻した。
(つまり、お屋形様の内心は――)
信繁は素早く考えを巡らせ、それから威儀を正し、信玄に向けて深々と頭を垂れた。
「某如きで宜しければ、知恵などいくらでも喜んでお貸しいたします」
「うむ。頼りにしておるぞ、典厩」
信繁の言葉に、信玄は微笑みながら頷く。
兄に頷き返した信繁は、「では……」と光秀の方に向き直った。
「明智殿。いくつかお伺いしても宜しいかな?」
「勿論にございます」
信繁の問いかけに、光秀は穏やかな笑みを口元に湛えながら、小さく首を縦に振る。
「私がここに居るのは、その為ですから」
「忝い」
光秀の返事を聞いた信繁は、軽く会釈をしてから言葉を継いだ。
「――我らに越後と和睦するようお求めになられたという事ですが、同じ事を越後の方にも?」
「はい」
信繁の問いに、光秀は軽く頷き、言葉を継ぐ。
「越後の上杉弾正少弼様には――」
「「「「……!」」」」
光秀が「上杉」と口にした瞬間、その場にいた全員が息を呑んだ。
それに気付いた光秀が、怪訝な顔をする。
「……どうかなされましたか?」
「あ、いや……」
光秀に尋ねられた信廉は、気まずげな顔をしながら、チラリと上座の方を窺い見た。
こっそりと信玄の顔を窺ってから、信廉が光秀に声を潜めて囁きかける。
「その……当家では、越後国主殿の事は、“上杉”ではなく“長――」
「……良い」
信廉の言葉を、信玄が渋い顔をして遮った。
そんな彼の表情を見て即座に察した光秀は、咳払いをしたうえで「……失礼いたしました」と断り、それから言い直す。
「――越後の弾正少弼様には、既に十月の段階でお送りになられた御内書にて甲越の和睦をお求めになられた由に御座います」
「左様か……」
信繁は、敢えて上杉輝虎の事を“弾正少弼様”と姓を省いて呼んだ光秀の配慮に内心で安堵しながら頷き、今度は信玄に向けて尋ねた。
「……越後から当家へ、何か和睦の働きかけなどは?」
「……今のところは、何も来ておらぬ」
彼の問いに対して、信玄は仏頂面で頭を振る。
どことなく不機嫌な父の代わりに、義信が補足するように口を開いた。
「もっとも、あちらはあちらで、西頸城 (現在の糸魚川市周辺)で起こった一向一揆を鎮圧する為に出陣していたらしいので、まだ対外的な事まで手が回っていないだけかもしれませぬが」
「そのようです」
義信の言葉を肯定したのは、光秀だった。
彼は、一斉に自分へ向けられた一同の目を順番に見回しながら、淡々とした口調で言う。
「――先日、矢島御所の覚慶様の元へ、弾正少弼様より書状が参りました。それによると、『どこぞの坊主の差し金による妨害のせいで、御内書にて仰せつけられた件の進捗が思うように進まず、誠に心苦しく思っております』との事で……」
そう言いながら、ほんの僅かに口元を緩めた光秀は、信玄の顔をじっと見つめた。
そんな彼の言葉に、信玄はますます渋い顔をするのであった。
信玄の言葉を聞いた信繁は、顎に指を当てながら呟いた。
そんな彼に向け、渋い顔で「ああ」と短く頷いた信玄に、昌幸が尋ねる。
「その覚慶様からのお求めに対して、お屋形様は何と?」
「……まだ、ハッキリとは答えておらぬ」
口元に拳を当てて軽い咳をしながら、信玄は首を横に振った。
「御内書を受け取った時は、まだ三河の陣中だったからな。『越後との和睦に関しては、甲斐に帰陣した後にお答えする』と返書に認めたのだ。それで――」
そう言うと、彼は光秀を指し示すように目を遣る。
「儂が甲斐に戻ったのを耳にした覚慶様が、早速この者を寄越してきた訳だ。……儂が返書で引き延ばしている答えを直に聞く為にな」
「畏れ入ります」
光秀は、溜息混じりの信玄の言葉に表情ひとつ変えず、慇懃に頭を下げた。
そんな彼の反応に、信玄は少し眉を顰めたが、気を取り直すように咳払いをして話を続ける。
「――此度、美濃に居たお主を急ぎ呼び戻したのは、他でもない。覚慶様からの求めにどう応じるべきか、直に意見を聞きたいと思うてな」
「成程、それで……」
信玄の言葉に、信繁は合点がいった様子で頷いた。
「突然の帰陣の御命を些か訝しんでおりましたが、斯様な事情があったなら止むを得ぬ事ですな」
「さすがに、もう雪が積もり始めているであろう美濃信濃の国境を越えてまで、典厩様に急ぎ御帰陣頂くのは心苦しく思ったのですが……」
義信が、申し訳なさそうに言う。
「此度の御内書の件は、武田家のこれからを大きく左右するものになります。故に、典厩様の御意見を伺わぬ訳にはいかないと思いまして……」
「何せ、典厩様は親族衆筆頭にして、武田家の副将にあらせられますからな。斯様な大事を典厩様抜きで決める訳には参りませぬ」
甥の言葉を補うように、信廉も続けた。
そんなふたりの言葉に、信玄も鷹揚に頷いた。
「ふたりの申す通りだ。典厩、お主の知恵を借りたい。急に呼び戻されて不満かもしれぬが、堪忍してくれ」
「いや、不満などとは微塵も……」
信玄からかけられた侘びの言葉に、信繁は慌てて首を横に振る。
同時に、少し驚いていた。
以前の信玄であれば、わざわざ自分を呼び戻す事などせず、即座に拒絶の意志を示すか、信繁に意見を聞くにしても、拒絶を大前提に置いたものを求めたであろう。
それだけ、越後の上杉輝虎との因縁と確執には深いものがある。
(……それなのに、今のお屋形様は迷っておられる)
そもそも、以前の信玄の頭の中には、『越後と和睦する』という選択肢など存在していなかった。
それなのに――今回の御内書を受けて、彼は美濃に居た信繁をわざわざ呼び戻した。
(つまり、お屋形様の内心は――)
信繁は素早く考えを巡らせ、それから威儀を正し、信玄に向けて深々と頭を垂れた。
「某如きで宜しければ、知恵などいくらでも喜んでお貸しいたします」
「うむ。頼りにしておるぞ、典厩」
信繁の言葉に、信玄は微笑みながら頷く。
兄に頷き返した信繁は、「では……」と光秀の方に向き直った。
「明智殿。いくつかお伺いしても宜しいかな?」
「勿論にございます」
信繁の問いかけに、光秀は穏やかな笑みを口元に湛えながら、小さく首を縦に振る。
「私がここに居るのは、その為ですから」
「忝い」
光秀の返事を聞いた信繁は、軽く会釈をしてから言葉を継いだ。
「――我らに越後と和睦するようお求めになられたという事ですが、同じ事を越後の方にも?」
「はい」
信繁の問いに、光秀は軽く頷き、言葉を継ぐ。
「越後の上杉弾正少弼様には――」
「「「「……!」」」」
光秀が「上杉」と口にした瞬間、その場にいた全員が息を呑んだ。
それに気付いた光秀が、怪訝な顔をする。
「……どうかなされましたか?」
「あ、いや……」
光秀に尋ねられた信廉は、気まずげな顔をしながら、チラリと上座の方を窺い見た。
こっそりと信玄の顔を窺ってから、信廉が光秀に声を潜めて囁きかける。
「その……当家では、越後国主殿の事は、“上杉”ではなく“長――」
「……良い」
信廉の言葉を、信玄が渋い顔をして遮った。
そんな彼の表情を見て即座に察した光秀は、咳払いをしたうえで「……失礼いたしました」と断り、それから言い直す。
「――越後の弾正少弼様には、既に十月の段階でお送りになられた御内書にて甲越の和睦をお求めになられた由に御座います」
「左様か……」
信繁は、敢えて上杉輝虎の事を“弾正少弼様”と姓を省いて呼んだ光秀の配慮に内心で安堵しながら頷き、今度は信玄に向けて尋ねた。
「……越後から当家へ、何か和睦の働きかけなどは?」
「……今のところは、何も来ておらぬ」
彼の問いに対して、信玄は仏頂面で頭を振る。
どことなく不機嫌な父の代わりに、義信が補足するように口を開いた。
「もっとも、あちらはあちらで、西頸城 (現在の糸魚川市周辺)で起こった一向一揆を鎮圧する為に出陣していたらしいので、まだ対外的な事まで手が回っていないだけかもしれませぬが」
「そのようです」
義信の言葉を肯定したのは、光秀だった。
彼は、一斉に自分へ向けられた一同の目を順番に見回しながら、淡々とした口調で言う。
「――先日、矢島御所の覚慶様の元へ、弾正少弼様より書状が参りました。それによると、『どこぞの坊主の差し金による妨害のせいで、御内書にて仰せつけられた件の進捗が思うように進まず、誠に心苦しく思っております』との事で……」
そう言いながら、ほんの僅かに口元を緩めた光秀は、信玄の顔をじっと見つめた。
そんな彼の言葉に、信玄はますます渋い顔をするのであった。
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